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75.手記(2)

 婚約が決まってから、私は毎日ラナの元へ通っていた。その日も朝から孤児院へ赴き、花壇の世話をするラナのことを見つめていた。ラナの詠唱は相変わらず美しく、その歌声を聴いているだけで私は幸福で泣き出したくなるのだ。

 歌い終えたラナの手をそっと握ったそのとき、表の方が騒がしいことに気づいた。不安そうな顔をしたラナを背に庇うようにして様子を窺っていると、孤児院長が多くの大人を引き連れて裏庭へやってきた。院長の顔色は悪く、怯えた表情をしていた。

 来訪者が神殿の関係者だということは、ひと目でわかった。彼らは一様に、神殿の紋章の入った衣類を身に着けていたからだ。彼らは私たちの元へまっすぐ歩み寄り、一斉に跪いて頭を垂れた。私にではない。ラナに対して。


 来訪者のひとりが言うことには、ラナは天に選ばれた特別な存在であり、神殿へ赴き務めを果たさなくてはならないらしい。詳細も語らぬまま、無理矢理ラナを連れ去ろうとする彼らに私は反抗した。本能のまま暴れ、半数程度を叩きのめすことはできたが、数の暴力には勝てず、私は気づけば地面に転がっていた。私の名を呼びながら泣き叫ぶラナの声だけが、鮮明に響いていた。

 意識を失った私が次に目を覚ましたときには、ラナも来訪者も姿を消していた。代わりに駆けつけた両親に、私とラナの婚約解消を告げられた。ラナには崇高な使命が与えられたため、世俗との縁を断ち切らねばならないのだと。

 意味がわからない。どうして顔も知らぬ神とやらの言いなりになって、ラナを手放さなくてはならないのか。理解できない。許せない。深い憎悪に苛まれながら、私は考えた。どうすればラナを取り戻すことができるのかと。

 そうして一つの結論を得た。ラナさえ取り戻せるのならば、何を失っても惜しくはない。それが例え、家族との縁だとしても。


 親不孝な私を責めることもなく、両親は私の神殿入りを許可してくれた。一度神殿に入ってしまえば、家に帰ることは原則不可能になる。冠婚葬祭を含めた一切への参加すら許されない。それでも両親は、ラナのそばにいたいという私の気持ちを尊重してくれた。

 それからの私は、死に物狂いで修業に鍛錬に明け暮れた。神殿に入ったところで、神官見習いに任される仕事は雑用ばかり。ラナの安否を確認することすら叶わなかった。それ故、成り上がるために必死に努力した。

 それまで努力とは無縁の怠惰な人生を送ってきたため気づかなかったが、私は優秀な部類の人間らしかった。一度学んだことはすぐに頭に入ったし、剣術の上達も早かった。そうして気づけば、10年もの歳月が過ぎていた。


 24歳の春、私は聖女の護衛騎士の任を受けた。そうしてようやく、10年ぶりにラナの姿を目にすることができた。長い時間が経っていても、ひと目でラナだとわかった。最後に目にした姿から随分と大人びていたが、清廉な美しさは変わらない。

 ラナは私を見て、目を丸くしていた。その瞳が涙で揺らめいているのを見て、彼女もまた私を覚えてくれていたのだと悟った。

 人目を盗んで、私は彼女に手紙を渡した。ともに神殿を出て夫婦になろうと。今でも変わらず、君を愛していると。しかしラナから、色好い返事が返ってくることはなかった。心優しい彼女は、与えられた使命を放り捨てて、自らの幸せに手を伸ばすことはできなかったのだ。自分が逃げれば、不幸になる人間が大勢いることを理解していた。

 無理に彼女を連れ出すこともできた。しかし一つの約束がそれを許してはくれなかった。ラナの気持ちを最優先にすること。ラナを攫っていけば、私は彼女を手に入れることができる。しかし清らかな彼女は、見捨てたものへの罪悪感で心を壊してしまうだろう。そう思えば、同意なく連れ去ることはできなかった。


 憎い。神殿に身を置く者としてあるまじきことだが、私は心底神を憎んでいた。目の前に現れたら、迷うことなく首をはねてやりたいとさえ思っていた。

 あぁ、愛しのラナ。その柔らかな肌に触れたかった。愛を誓いあい、はにかむ笑顔に口づけたかった。それが叶わなくとも、せめてそばにいたい。そしていつしか、神の手から君を取り戻してみせる。今世では難しくとも、来世ではきっと。それでも無理なら、そのまた先の未来で。その日が来るまで、私は絶対に諦めたりはしない。


(中略)

 

 聖女の護衛騎士になって、35年の月日が過ぎた。恋仲になれずとも、ラナのそばで過ごせた時間は、私にとってかけがえのないものだった。しかしそれも、今日で終わりを迎える。

 私も随分と年を取った。鍛錬を怠らずとも、肉体の衰えはどうしようもない。今日をもって私は護衛騎士の任を解かれ、ラナのそばにいられる権利を失う。なんと残酷なことか。


 私の愛情は、長い年月を経ても失われることはなく、膨らんでいくばかり。抱え切れぬほど肥大した恋慕を抱え、この先のラナのいない人生を生きていけるはずがない。

 別れの挨拶をする私の手を、ラナはそっと握ってくれた。皺の増えた指先はひんやりと冷たく、彼女の心がいつまでも清らかであることを象徴しているように思えた。このまま彼女を連れ去ってしまいたくて、みっともなく最後のあがきで共に来てほしいと懇願した。あなたを今でも愛していると。

 ラナは一滴の涙を流して、首を横に振った。わかりきっていた返答だったが、受け入れられずに引き下がった。もう十分務めを果たしたはずだと。自らの幸福を願ってもいいはずだと。しかしラナは、務めを全うするのだと真っすぐ私の目を見て告げた。迷いのない瞳に、情けない顔をした私が映っていた。


 神よ、私はあなたを絶対に許しはしない。私から愛する人を奪ったあなたを、いつか絶対にこの手で殺してやる。

 憎しみに染まった私に、ふと温かな雨が降り注いだ。遠くから聞こえる旋律は、孤児院の裏庭で聴いたものと同じだった。去りゆく私に、ラナが歌っているのだとわかった。どうか幸せに。そんな願いが伝わってくるような、優しい雨だった。しかし私の幸福は、ラナがいなくては成立しない。そのことを彼女はついぞ知ることはなかった。

 この醜く膨れ上がった愛情と同じものを、彼女から返してほしいなどと分不相応なことは言わない。ただひとかけらでも、彼女が私に恋情を抱いてくれれば、それだけで十分だ。道を違えた今世で、私はもうラナに出会うことは叶わないだろう。それならば巡り来る来世で、今度こそ誰にもラナを奪われないように。


 愛しのラナ。君を置いて先へ逝くことをどうか許してほしい。先の未来で、私はいつまでも君を探し続けると誓おう。』

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