74.手記(1)
『愛しのラナに捧ぐ。
生きること、それの何が特別なのだろう。私はそんなことばかりを考えている、感情の起伏の少ない子どもだった。泣いたり怒ったりすることのほとんどない私は育てやすい子どもだっただろうが、極端に大人びた言動を気味悪く感じるものも多かっただろう。
しかし家族はこんな私にも、惜しみない愛情を注いでくれた。伯爵家の三男という、跡継ぎでもそのスペアでもない価値のない存在だった私に、両親は兄たちと大差ない教育を施した。継ぐものがないからこそ、自身の力で生計を立てていけるようにと。
両親は言った。何を目指してもいいと。文官か、はたまた騎士か、職人でも芸術家でも構わない。しかしそう言われたとて、私が心を動かされるものは何一つなかった。できることならば、ただぼんやりと穀潰しとして生きていきたい、そんな親不孝な子どもだった。
怠惰な心根に愛想を尽かされ、屋敷を追い出されて野垂れ死んだとしても、それはそれで仕方がないと達観すらしていた。
両親はそんな俺を軽蔑はしなかったがひどく心配して、少しでも刺激を受けられたらと積極的に奉仕活動へ連れていった。平民の暮らしは貴族のそれとは大きく違っていたが、それ以上の感想は得られなかった。
奉仕活動の中でも、両親が積極的に取り組んでいるのは孤児院への慰問だ。定期的に食料や衣料品、娯楽品などを金銭とともに寄付をする。私も連れられて慰問へ行った際には、子どもたちにせがまれるまま本を読んでやったり、遊びにも付き合ってやったりした。
しかし正直なところ、私は彼らに特別な感情は一切抱いていなかった。彼らが突然大金持ちになろうが、路上で野垂れ死のうが、私はどうとも思わないだろう。今と同じく、孤児たちの境遇を憐れむ両親のそばに立ち尽くすばかり。そう思っていた。
あれは忘れもしない、私が10歳になって初めて孤児院を訪問した日のことだった。両親に言われるがまま孤児院へ赴き、子どもたちに菓子を配布した。小さな包みひとつ分のそれを、大喜びで受け取る孤児たちに羨望に似た感情を抱いていた。こんな風に強く感情を揺り動かす物が私にもあれば。しかしそれが夢物語に過ぎないということも、十分に理解していた。
きっと自分は生涯、無感動に、死んだように生きていくのだろうと知っていた。そう、本来であればそうであったはずなのに、私は奇跡に出会ってしまった。
孤児たちに菓子を配り終えた私は、父に言われて庭の清掃に出ている子どもたちを呼びに行くことになった。孤児院の庭は案外広く、探し回るのは面倒だったが、子どもの遊び相手になるよりはいささかマシだ。道中心地よさそうな木陰を見つけて昼寝したい衝動に駆られたが、我慢して捜索を続けた。
最後の一人は、裏庭にいるという。そこには小さな花壇があって、孤児院にしてはきれいに整備されている。孤児のなかにまめな娘がいたのだ。しかし当時の私の興味の対象外だったため、その娘がどれなのかは把握していなかった。
裏庭の空気は、やけに澄んでいた。いつも通りの青空のはずなのに、まばゆい光が差し込んでいるような不思議な感覚に襲われた。疑問に思いつつ裏庭に足を踏み入れた私は、そこで天使に出会った。
花壇の花に優しい雨を降らしながら、一人の少女が歌を歌っていた。美しい旋律には、よく聞けば雨を呼ぶ魔法の詠唱文が乗せられていた。こんなに美しい詠唱が、魔法がこの世に存在しているとは。私は呆然とそこに立ち尽くし、いつまでも天使を見つめ、天使の歌を聞いていた。このまま永遠に美しい時間の中にいたかったが、ついに歌は終わってしまった。しかし残念に思う気持ちを吹き飛ばすほど、歌い終えて満足そうに微笑む天使は美しかった。
ふと少女が振り向き、私を視界にとらえた。逃げられてしまう。咄嗟にそう思って、私は手を伸ばした。しかし天使は、可憐な笑顔で私の名を呼び、こちらへ駆け寄ってくるではないか。なぜ名を知っているのか、いったい何者なのか、少し考えればわかることだったが、そのときの私には思考することすら困難だった。
私よりも少し背の低い天使は私を見上げ、迷子なのかと問いかけた。もちろん迷子などではなかったが、気づくと私は頷いていた。そうすると天使は、そのたおやかな指先で私の手を取ってくれた。ひんやりと冷たいその手の温度が、彼女の清廉さを表しているように思えた。
天使の名は「ラナ」と言った。この孤児院に数ヶ月前に入った娘だ。病で両親を亡くし、頼れる親類もなく、孤児院へ入ったという。数ヶ月。そんなにも長い時間、私は天使の存在に気づかずにいたのかと思うと、許しがたい気分だった。
私たちが手をつないで食堂へ戻ったのを、孤児院長が見咎めて、あろうことかラナを叱りつけた。細い腕を捻り上げられ、ラナの表情が痛みに歪んだ。涙ぐんで謝罪の言葉を口にするラナの姿を見て、私は怒りに震えた。
私は院長に手を離すように言い、震えるラナの手を握った。先ほどよりも冷たい指先を温めるように包み込むと、案内の礼を述べた。両親も院長も困惑した顔をしていたが、ラナが責められることを私が望んでいないと察し、それ以上追及することはしなかった。
私の生涯はラナを守るために与えられたのだと理解した。これからの人生をラナとともに、ラナの幸福のために費やしていきたいと、心から思った。
私はそれから、以前にも増して熱心に孤児院へ通った。本当は毎回ラナにだけ贈り物をしたかったが、優しい天使はそれを望まない。仕方がなく、孤児院全体への贈り物としてラナへのプレゼントを用意した。
話題の菓子、きれいな花、人気の本。私の選んだものを手渡し、嬉しそうに微笑むラナを見るのが嬉しかった。きっと私の周囲の人々は、私のラナへの想いに気づいていただろう。それほどあからさまに接している自覚はあったし、なんなら見せつけてやりたいとすら思っていた。
私の想いに気づかないのは、ラナただひとり。鈍感なところも愛おしくて、私の想いは日に日に膨らんでいくばかりだった。
溜め込んだ恋慕が溢れるように、私は思いの丈をラナへ打ち明けた。将来を共に過ごしてほしいと、言葉で言い表せないほど愛していると。ラナは顔を真っ赤にして狼狽えていたが、やがて小さく頷いてくれた。
私はその日のうちに孤児院長と両親に話を通した。反対されると予想していたが、私のラナへの執着の強さを知っていたためか、ラナの気持ちを最優先にすることを条件に婚約の許可を得ることができた。その条件を受け入れたことを死ぬほど悔やむことになるとも知らず、私は呆れるほど浮かれていた。
たったの1週間。それだけの時間で、私の幸福は打ち砕かれてしまった。




