3話 空転の魔法使い 上
喪に服した船は、大海原を静かに進み、やがて公国の港を望む入江で、港が空くのを待った。
力強い太陽が照らす海は、船の黒い装いとは対照的に、騒がしく輝いていた。
古来より、喪に服した船の来航に合わせて港を空にする習わしがある。
だが、港が空になるまでに、斜めから差していた陽は、すっかり真上に来ていた。
甲板では、紐につるされたクラーケンの触手が風を受けて揺れていた。
その影の下でハモンは剣を何度も太陽にかざしていた。
そこにククルスが暑そうに礼服を着崩して近寄ってきた。
「また剣を見てるのかハモン」
「いや、ヒビがな」
「クラーケンか」
「いや、その前からだ」
「……お前、何を斬った?」
「盾に、兜に……あと魔導具……」
「共和国を斬ったようだな」
「国は剣では斬れんよ」
「はぁ……比喩というものを知らんな、お前。ほれ」
氷がぎっしりと詰まった飲み物をククルスが差し出す。
「ありがたい、こう暑いと……しかし氷は貴重ではないのか?」
「私のおごりだ」
ククルスは自分の容器に手をかざすと、手のひらから氷をいくつか落とした。
その手に跳ねた雫を舐めながら続けた。
「お前のおかげで氷も作り放題だ」
「どういうことだ?」
「まあ、そのうち分かる。港に着いてからな」
接岸すると、船員たちはゆっくりと棺を運び始めた。
港に集まる水夫や遺族たち、帰還を待つ迎えの者、大勢が船の方を見つめたが誰も口を開かなかった。
聞こえるのは、船腹を叩く静かな波の音だけだった。
ククルスも礼服を正し、背筋を伸ばしてそれを見つめていた。
この時ばかりは、暑いだの窮屈だのと、文句は言わなかった。
棺が馬車に積み終わると、帰還兵たちが船から降り始めた。
先頭の兵が桟橋に立つ。
続く兵たちは港に列を作った。
先頭の兵は、階級章からして彼らを率いる者だった。
その男は作法に則り、帰還した兵の総数を読み上げた。
そして最後に、解散と叫んだ。
その声を合図にしたように、港に歓声が弾けた。
もう、その場では波の音など聞こえなくなっていた。
甲板にはククルスと船長、宗教家、その付き人、そしてハモンだけが残っていた。
歓声が落ち着くと船長は口を開いた。
「王国の方よ、此度は不便をかけた。本来ならば引き返すところ…これも早く皆の元に返すため、ご理解頂きたい」
「船長、なにをおっしゃる。間違って乗り合わせてしまった身。むしろ、帰りの船に乗せていただけるのはありがたい」
宗教家が一歩前に出てハモンの目を見ながら柔らかい声で語り掛けた。
「いえいえ……何をおっしゃいます。クラーケンから救ってくださった御恩に比べれば。声なき唇にかわり、御礼申し上げる。帰路の無事を祈っております」
「礼なら、ククルス殿にも。船を救ったのは俺だけではない」
「はて……ククルス……?」
「……む?」
するとククルスがわざとらしい咳払いをした。
甲板にいる全員が妙な間を感じた。
その間を埋めるように宗教家の付き人が耳打ちした。
宗教家は気を取り直してまた微笑みながらハモンに語り掛けた。
「では、王国の方。我々はまだ仕事が残っておりますので」
「ああ、そちらも道中お気をつけて。ああ、それと」
ハモンは懐からククルスの腕にはめられていた銀の腕輪を差し出した。
「これはお返ししておく」
甲板に立つ人々の視線は銀の腕輪に注がれた。
そして、先ほどの妙な間よりも長く、沈黙が流れた。
「……む?」
船長が口を震えながら指をさす。
「お……お前……魔力封じの腕輪を壊したのかっ」
「ま、魔力……封じ?」
気づくと甲板下に控えていた兵が飛び出てハモンとククルスを囲んでいた。
だが、一番顔色が変わったのは宗教家だった。
「司教様より賜った魔力封じを破壊するとは言語道断! エルフ共々捕らえよ!」
状況が呑み込めないハモンの横で、ククルスが頭を抱えていた。
「間の悪いやつめ……」
ジリジリと距離を詰める兵たち。しかし、ハモンが斬り落としたゲソが脳裏にちらつく。
魔導具を構える指先が微かに震える兵もいた。
「どうするんだ、ハモン」
ハモンは、囲んだ兵たちを見た。剣を掴む手に力が入る。
それから、棺が降ろされていった桟橋を見た。
「この船では死者は出したくない」
「はあ……そこは任せろとか言ってくれ」
甲板上での緊張感はゆっくりと高まっていった。
だが、剣を抜けばそれを皮切りに魔導具を使われるかもしれない。
緊張している兵たちの攻撃はどこへ飛んでいくか分からない。
俺か。ククルスか。
それとも背後の港の人々か。
その時、甲板の端で桶がひっくり返った。
「おっと、手が滑った!」
触手から救った水夫がわざとらしい声を上げていた。
桶からクラーケンのぬめりを含んだ油が、兵たちの足元へ広がる。
「今だ、逃げるぞ!」
ククルスはハモンの腕を掴み、船縁を越えて桟橋へ飛び降りた。
そのまま二人は、人混みの中に滑り込んだ。
「逃げてもいいのか?」
「奴の死を無駄にするな!」
「いや、死んではいないと思うのだが……」
宗教家は船縁にかじりつき、人混みに消えていく二人を見て、顔をいっそう赤くした。
「おのれエルフめ……早く立ち上がれ馬鹿者!」
甲板はぬるぬると滑り、何かにつかまらなくては立ち上がれぬ状況になっていた。
数度転んだせいで全身に油を被った付き人が、宗教家の袖を掴んで立ち上がった。
「そ、捜索隊を編成します。早く捕まえませんと……」
「いや待て……司教様から賜った魔力封じが壊されたとなれば……」
「我々が責任を問われますな」
「しかも葬送船の上で、王国の者に壊されたなどと知れたら、面倒では済まん」
「確かに」
「よいか! エルフはクラーケンに食われた。王国の剣士など最初から乗っておらぬ!」
「ですが、何か証拠がありませんと」
「あるではないか、亡骸ならそこに」
「ま、まさか!? 戦没者の!?」
「クラーケンのゲソがあるではないか! 大馬鹿者!」
「ああ、そういうことですか」
「よいな船長」
船長は目を細くしながら懐から航海日誌を取り出した。
「また記録が飛んじまうな」
昨日のページを破り捨てると、そのまま風に放った。
3話 空転の魔法使い
港町の外れの路地裏で、ククルスが息を切らしながらうずくまった。
背後からは、まだ港の喧騒が薄く聞こえていた。
「も……もう走れん」
「おい、これからどうするつもりだ」
「逃げる。地の果てまでもな。そうだ、あの腕輪、まだ持ってるか」
「ああ、返すつもりだった」
「受け取ってはくれんだろうな、いや……待てよ」
ククルスは腕輪を眺めた。
「これは銀だな」
町外れに、小さな質屋があった。
看板は薄汚れ、やや傾いている。
店内では、店主が銀の腕輪を手に取り、細工を細かく見たり、天秤にかけて重さを量ったりしていた。
ハモンとククルスは、質屋のカウンター脇の椅子に腰かけていた。
壁にかけられた時計が、規則的に時間を刻む。
その静けさに、ククルスは耐えられなくなっていた。
「あれだな、ついてたな。あの水夫がいなければ、今ごろゲソの隣で干されていたな」
「なぜだ……」
「あん?」
ハモンは壁に頭をつけ、天井を見上げながら、力ない声で語った。
「なぜこんなことに……」
ハモンはため息を一つ吐き出し、項垂れた。
「まあ気にするなハモン」
「俺まで逃げることはなかったのではないか……?」
ククルスは椅子の背にもたれ、偉そうに足を組んだ。
「馬鹿を言え。大魔法使い逃亡事件の首謀者だぞ」
「俺はお前に言われた通りにしただけだ。首謀者ではない」
「ふむ……そうかもしれん。首謀者でなくても共犯だ。しかしな、あの場で出すかね? お前あれだろ。言ってはならん時に、言ってはならんことを、妙に堂々と言うタイプだろ」
「むぅ……あ、しまった。王国の者と名乗ってしまった……! もし捕まったらどんな影響が出るか」
「確かに戦は止まったばかりだ。ここで火種を増やすのは得策ではないな」
「なんと……」
「逃亡生活にようこそ。共犯者ハモン」
「歓迎されたくない」
天秤の皿が、かすかに鳴った。
店主が片眼鏡を外しながら顔を上げた。
「ちょっと静かにしてもらえんかね。おちおち査定もできん」
銀の腕輪が乗った天秤を指ではじくと、テーブルに数枚の硬貨を広げた。
「とりあえず、銀の腕輪は溶かせばいくらかになる。これくらいでどうだ」
「安すぎる。慈悲の心まで売り払ったのか?」
「司教印が入ってる。表には出せん。溶かす手間もある。これくらいが妥当だ。文句があるなら別の店へ行きな」
「では品でいい。物々交換といこう」
「うちはそういうのやってないんだがね……まあいい、奥の倉庫からなら考えてやる」
長い交渉の末、というより、ククルスが店主を長々と罵った末、
ハモンたちは少しの食料と着替えを手に入れた。
もっとも、その半分はククルスが「生活必需品」と言い張った酒と煙草だった。
店を出て、二人は町外れの木陰に腰を下ろした。
港の騒ぎは遠く、道を行く人影もまばらだった。
「この服、男物だな」
「あの店にはなかった」
「ま、我慢してやろう」
「しかし、食料といってもこれだけか」
ククルスは指先に小さな火を灯すと、おもむろに煙草に火をつける。
その傍らでハモンは紙袋を覗き込みながら数を何度も確かめていた。
「ずいぶん酒が多いな……甘い匂いがする。蜂蜜のものか?」
「この地方でよく飲まれるものだ。度数は低いが、その分栄養がある」
「煙草は必要なのか?」
「私の肺は特別品だ。定期的に煙を満たさねば具合が悪い。お前も吸うか?」
「いらん」
その時、ハモンの腹が鳴った。
ククルスは煙を吐き、袋から硬いパンをひとつ取り出した。
「私の分も食え」
「ああ、すまんな」
「だから酒は全部私のものだ」
「む……何か釈然としないんだが」
「すまん、釈然は品切れだった」
ハモンは何か言い返そうと口を開いた。
だが、うまい返しは何も出てこなかった。
ククルスは勝ち誇った顔で煙を吐いた。
ハモンはしばらくその顔を見ていたが、結局、無言でパンをかじった。
生活に必要なものは手に入れた。
二人は逃亡者らしく、港町を離れた。
「どこかで野営せねばな」
「人気のないところを探すか」
「ハモンよ、お前は分かってないな。いいか、野営は人のいるところの方が安全だ。この際、逃亡者の心得を教えよう」
「心得?」
「貴重品はポケットに入れるな。鞄は前に抱えろ。生水は飲むな。靴擦れを甘く見るな」
「それは旅行の心得では?」
「逃亡者も旅行者も目的は変わらん。日常から逃げ出すことだ」
「ずいぶんと後ろ向きな旅行に聞こえるが……」
「ま、野営はどこかの奴らの横でいい。火を分けてもらえるしな」
ハモンは納得したあと、ククルスなら火を出せるのではないか、と言いかけてまた口をつぐんだ。
「今、何か言いかけたな」
「いや」
「少し賢くなったな。見どころがあるぞ」
足跡の残りにくい石場を選び、藪を抜け、道らしい道を避けて進む。
「ハモン、こっちだ」
「おい、そっちは崖だぞ」
彼らは知らなかった。
追われていないことを。
「おい、ハモン。顔に泥を塗れ」
「……フードを被ればいいのではないか?」
「塗るのはお前だけだ」
「これも逃亡の心得か……」
見えない追手に備えながら、二人は山間を進んだ。
「伏せろ。そんなに背筋を伸ばすな。見つかる」
「俺より、ククルスの方が背が高い」
「私は美しい。だから逃亡者には見えん。お前は怪しいからダメだ」
「……納得いかん」
もちろん、彼らを追う影はなかった。
やがて二人は、山間に設けられた野営地の端へ潜り込んだ。
「この辺りにするか」
「火をもらってくる」
「馬鹿め。魔法使いがここにいる。不要だ。軽々しく顔を見せるな」
「む……」
ハモンは、先ほどククルスが火を分けてもらえると言っていたことを思い出した。
だが、言わなかった。
少しだけククルスとの付き合い方を学んだからだ。
二人が野営の準備を整える頃、港ではすでにクラーケン事件の報告書が作られていた。
エルフはクラーケンに食われた。
王国の剣士は、最初から船に乗っていなかった。
そういうことになった。
その頃、食われたはずのエルフは、どこかの家族の笑い声がするたびにフードを深くかぶり直していた。
船に乗っていなかったはずの剣士は、その隣で、顔の泥をいつ拭えばいいのか分からずにいた。
誰にも追われていないまま、逃亡者たちの夜は更けていった。
最後までご覧いただきありがとうございます。
今回は初めて、上下に分けての更新となりました。
一話としては少し長くなったための分割ですが、読みにくくなっていなければ幸いです。
次回更新は、7月13日の予定です。




