019話『プリンシパルキャスト』(5)
ああ、なんて忌々しい輝きなのだろうか……。
姉上の両目に発露した三重輪の『妖精眼』を見咎める度に、心の奥底に仕舞い込んだ筈の嫉妬と羨望による二面相が這い出てこようと足掻き出す。
敬愛する母上が誇る素養の全ては、俺には一切合切 与えられなかった。
『妖精眼』はその最たる例。何故、姉上だけ両目に宿したのだ? せめて片方だけでも俺に宿っていれば、あの輝きを真から貴いものであると思えたのに。
両目に光輪を灯した姉上は、ラキリエルを正視して真向より問うた。
全てを見通す眼差し。
全てを受け容れる貴き意思。
全てを抱えて共に歩こうとする道。
純白の如く、一切の穢れ無き瞳を傾けられて怖気づかない者はそう居ない。
大抵のヒトは後ろめたいものや他者に言えないことの一つや二つは抱えている故に、姉上の真っ直ぐな瞳から一度は目を逸らしたくなってしまうのだ。
それを承知した上で、尋ねてくるのだ。
嘗て、あの男がそうしてきたように――
「えっと、その……」
案の定、萎縮したラキリエルは言葉を詰まらせた。予め回答を用意していたとしても、あの瞳を傾けられては躊躇せざるを得ないのだ……。
その上で、己の言葉で返答を出せるかどうかを姉上は視ているのだ。試しているのだ。それが"貴き白夜"のやり方なのだ。
「姉上、その訊き方では……」
「黙りなさい」
思わず、助け舟を出そうとしてしまった瞬間には静止させられる。
俺など文字通りに眼中にはなく、ラキリエルから視線を外そうとはしない。
ラキリエルは大きく深呼吸をした。
肩の震えを捻じ伏せて、正面より姉上を見据えて口を開き、言葉を紡ぐ。
「……まずは、わたくし一人だけ生き残ってしまったことの意味を考えながら
新たな環境で自分になにができるのかを模索していきたいと思っています」
「故郷の地に帰りたいとは思わないということ?」
「ハルモアラァト様が『灼熔の心臓』を海底に返却せよとお望みになられたら
一度はハルモレシアの跡地を目指すことになるかもしれません。
ですが、貴家の庇護を賜る以上はこの地に骨を埋める覚悟でございます」
更にもう一度、深呼吸をして意思と視線を研ぎ澄ませていった。
「わたくしにとって、サダューイン様に導かれて垣間見たこの土地は
正に御伽噺のように輝かしい世界であるように感じました。
少しでも皆様のお役に立てることがあるならば、能う限りを捧げて共に生きたいと心より願っております」
「……どうやら、その言葉に嘘はなさそうね」
姉上がそう判断されたのなら、きっとその通りなのだろう。
いや、ラキリエルが嘘を吐くような人物ではないことは俺とて理解していた。無垢な少女がこの場で、恩義を感じている相手を謀るような真似をする筈はないと確信もしていた。
そう、彼女は無垢なのだ。姉上のように意図的に純白であろうとしているわけではない。
時として選択を誤ることもあるだろう。後悔と自責に暮れて立ち止まってしまうこともあるだろう。愚かで幼い御伽噺に焦がれることもあるだろう。
しかし、その本質は清らかな水の如く透明であったのだ。
汚泥に塗れて突き進む俺とは、何もかもが違う。出自も、素養も、性別も。
仮に彼女と深く交わってしまったならば、その在り方を泥水の如く穢してしまうことになるだろう……。
彼女の肩に掌を添えることが出来るほど近い場所に居ながらにして、本質的には果てしなく遠い場所に在ることを理解させられる。
「貴方の意思は確かに届いたわ、答えてくれて有難う。
それじゃあ最後に、一つだけ良いかしら?」
「……なんなりと、お申し付けください」
未だに『妖精眼』の輝きを収めない姉上に対し、ラキリエルはなにかを予兆していたのだろう。再び肩と声が震え出していた。
「貴方は今、魔法によって姿を変えているのでしょう。
つまり私達が見せられているのは仮初であり欺瞞……。
今ここで、真実を晒す覚悟はあるのかしら?」
「…………」
無論、ここでラキリエルが古代魔法による擬態を解かなかったとしても、姉上は彼女を受け容れるだろう。明かせぬ秘密を無理やり暴き立てるほど狭量ではないし、それは姉上の目指した大領主の在り方でもない筈だ。
「……かしこまりました」
震える声で返答した後に、ラキリエルは俺へと視線を傾けた。
潤う瞳、なにかに怯えるかのような貌、希うような仕草。眼交いを経て漠然と彼女の胸中が伝わってくる。
『どうか、わたくしのことを嫌いにならないで……』
そう、訴えかけているように感じたのだ。
「無理をすることはない、どうしても厳しければ拒否したって良いんだ。
俺達は君の選択を尊重するし、仮にどんな姿であったとしても受け容れるよ」
そんな在り来たりな言葉を送ることしか、できなかった。
「ありがとうございます。……ですが、骨を埋める覚悟と言ったからには
ここで明かさなければ皆様を最初から裏切るということになりますので……」
肩に添えられていた俺の掌に自身の右掌を添えて、そっと振り払ってみせた。そうして席から立ち上がり、執務室の入り口付近へ ゆっくりと歩いていく。
魔力が集う。大気中の水分子が集う。幻日の潮騒が押し寄せる――
「……楚々たる大海の赤誠。空漠の招請賜りし蒼角の龍に希う。
幻日の鏡、来たれ幽世の駕篭 在りて。安息の遺光にて擁し給え」
その詠唱句には聞き覚えがあった。
グレキ村で『負界』に侵された者の治療を試みた際に触媒となる黄金の血を採血するために、片腕のみを青肌の亜人種へ変えた時に唱えていた古代魔法……。
あの時は詠唱を途中で止め、部分的に効力を発動させていたが今回は違った。
「『――叡理の蒼角よ、常理を反せ』」
ラキリエルが腕に纏っている半透明状の布が拡がり、彼女の総身を覆い包む。
鍵語の唱了が引鉄となり布地が膨張して球形へと象られると、やがて大きな水塊へと変貌を果たしたのだ。
そしてラキリエルを呑み込む水塊が宙に浮かぶと同時に、眩き蒼光を放った。
ああ、なんて美しい輝きなのだろうか……。
全ての欺瞞を灼き祓う、無垢なる蒼光。これまで幾度となく目にしてきた彼女が唱える古代魔法に共通する輝きに、俺は芯より心を……奪われていたのだ。
徐々に蒼光が収まっていくに連れて、球形の水塊の裡で変容が見受けられた。
健康的な肌に金色の髪をした純人種であった彼女の姿は、青い皮膚を鱗で覆った亜人種へと変貌していたのだ。
背には二枚の翼を生やし、耳は鰭の如き形状へ。水妖に似た鋭く長い爪が伸びており、何よりも目を惹くのは……その両脚だった。脚が無くなっていたのだ。
代わりに人魚のような尾鰭が生えており、彼女達が地上で暮らす種族ではないことを明確に示していた。
一見すると人魚のようでいて、細部は大きく異なる深海の竜の民。
美女と呼んで差支えのない整った面貌こそ変わることはなかったが、故に総身の異質さが如実に伝わってくるのだ。これは我々とは別の生き物である……と。
「…………」
怯えた表情で、ラキリエルは俺のほうを見詰めていた。
彼女の本性、地上に棲む種族とは異なる生き物であると証明してしまったことで、俺から嫌悪の眼差しを向けられないかどうかを恐れているようだ。
ふと彼女を包む水塊に映った自分の姿を見て、どのような表情をしていたのか気付かされた。俺はこの時、驚愕に目を見開き眉を顰めてしまっていたのだ。
然れど、それは彼女の容姿が不気味だったから、そのような面持ちとなってしまったのではない。純粋に、美しいと感じたからだったのだ。
無垢な蒼光と純水の塊に包まれて、姿を現した貴人の本性。余りにも遠く、余りにも清らか。骨の髄から濁りきった俺とは根本から違える異界の住人。
目を見開いて驚愕したのは、その距離の遠さに対してだったのだ。
眉を顰めたのは、触れてはならぬ存在だと理解させられたからなのだ。
嗚呼、しかし……早急に誤解を解かなければ。
いつものように、表面だけでも優しい言葉を並べて彼女を安心させなければ。
触れてはならぬ存在であれ、それくらいは許されるだろう……。
微笑みながら俺は言葉を紡ごうとした。しかし……遅かった。
「それが貴方の本当の姿なのね。
自分の秘密を明かすのは怖かったでしょうに……とても、綺麗よ」
心の底より優しさが伝わる微笑みを浮かべた姉上が先に言葉を掛け、席から立ち上がってラキリエルを包む水塊へと近付いていった。
「…………ッ!」
そうして彼女の傍まで近付いた瞬間、自身が濡れることも厭わずに水塊の中へと飛び込んでラキリエルを抱き締めたのだ。
本心を告げ、本性を晒した者を仲間として迎え入れる熱き抱擁。
やはりこれも生前のあの男がよく行っていた振舞いの一つであった。
父上に倣うやり方ではあるが、ラキリエルを思いやる姉上の真心は本物だ。
本気で我々の仲間として、庇護すべき民として、ともに歩いて行く友人として迎え入れようとしていることを伝えようとしたのだ。
斯くして、その想いは正統に届いたのか、安堵したラキリエルは悦びの涙を流した……ように見える。水塊の裡にて涙の跡が確かに描かれた気がしたのだ。
ああ、姉上……貴方はいつもそうだ。
俺には決して出来ないことを、いとも容易く実践してしまう。遥か先へと最短距離で躊躇なく駆け抜けていってしまう。
仮に俺が、今のようにラキリエルを抱き締めて安堵させるとしたら、いったいどれほどの思考と打算と根回しを巡らせた果ての行動となるだろうか?
同じ血を別けた双子である筈なのに、俺は地を這う亀のように鈍重で、醜い。
心の奥底から黒い感情が湧き出て、総身を支配し始めていた。
「ちょっと、ちょっとノイシュ! なにしてんのさ!!
そんなことしたら、ずぶ濡れじゃないか~~~!」
エバンスが慌てた様子で立ち上がり、移動台の上に備えてあるタオルを掴んで姉上の元に駆け寄ろうとしたのだ。
その叫び声を聞いて俺は我に返えることができた。黒い感情が鳴りを潜めた。
この狸人の友人との付き合いは長いが、彼の存在と行動には何度も助けられてきた覚えがある。
曲りなりにも姉上と協力して領地の運営が出来ているのは、間違いなくエバンスという存在が間を取り持ってくれていたからだ。
「エバンスの言う通りです。……もうよろしいでしょう?
彼女は誠意を示した、本性を垣間見せてくれた。そして貴方はそれを認めた」
今度こそ、姉上の後追いであることを承知した上で、微笑みを浮かべてラキリエルへ優しく声を掛けることができた。たとえ水塊に阻まれて音が届かなかったとしても、語り掛けること自体に意味はあるだろう。
「ラキリエル……俺達は君を受け容れる。そのままの姿であれ、
古代魔法で変化させた姿であれ、君に対する評価は変わらないよ」
果たして声が届いたかどうかは不明なれど、ラキリエルは感極まったような表情を浮かべていた。そして水塊の裡で姉上に向けてなにかの言葉を告げた。
「……ぷはぁっ!」
水塊より這い出た姉上が大きく息を吐き、母上に酷似した長い銀輝の髪より滴る水滴が執務室に敷かれた絨毯に零れ落ちた。大惨事である。
しかし姉上はやり遂げたような貌をされていた。ラキリエルを全力で受け容れてみせたことを心より誇りに思っているのだ。
「さあ、再び古代魔法を唱えていいわよラキリエル!
流石にこのままだと水浸しになってしまうからね」
意気揚々と彼女に語り掛け、ラキリエルは首を縦に振って応える。
そうして水塊の裡で口を動かして先程と同じ詠唱句を唱え始めたようだ。
再び、美しき無垢の蒼光が執務室を満たし……見慣れた姿のラキリエルが、そこに現れて両脚より降り立ったのだ。
「うぅ、すみません……お部屋がこんな……」
水塊は半透明状の布に戻っていたが、抱擁を試みた姉上によって撒き散らされた水滴はそのままとなっていた。
「問題ないわ! エバンス、窓を開けて頂戴」
「ほいほい~」
姉上が指示を出すよりも早く、エバンスは部屋の奥の窓の前まで移動しており
窓鍵を解除していた。正に以心伝心、阿吽の呼吸とはこのことか。
程なくして城館の外の大気が、風に乗って流れ込んでくる。
「グレミィルの空を巡る、大いなる原初の風の精霊達に希う。
光の雫の導きを此処に、浄化の洗風を起すべし。
『―――『穢れなき風域』」
朗々と詠唱句を唄い上げる姉上。すると外部から舞い込んで来た朗らかな風が旋風となって水滴を巻き上げた後に、再び窓の外へと出ていった。
一瞬の間に濡れた絨毯は程よく乾かされており、むしろ濡れる前よりも綺麗な状態になっていたのだ。
更に姉上とラキリエルの衣服や肌、髪に至るまで魔法の作用によって不要な水気が飛ばされていた。
これは姉上がよく唱えておらえる低位の浄化魔法の一つ。
呪詛や病魔を払うほどの効力ではないものの、衣服や住居の汚れを洗浄する際には大いに役立ち、姉上が行軍される際には定期的に行使されている。
これにより『翠聖騎士団』は常に清潔さと騎士の威厳を保てるというわけだ。
何気なく、息をするように、当然の如く唱えておられるが、俺にとっては絶望的な格差を感じさせるには十二分だった。
なにせ精霊を視るどころか、気配を感じることすら不可能な不出来な俺には、真っ当な手段では一生涯を費やしても習得することが適わないのだから……。
そして姉上は、何一つ臆することなく堂々と告げた。
「ラキリエル! 我がエデルギウス家は貴方の来訪を歓迎するわ!
貴方が自分の道を、自分の脚で進んでいけるよう応援します。
私達と一緒に……歩いていきましょう!」
ああ、なんて忌々しい輝きなのだろうか……。
・第19話の5節目をお読みくださり、ありがとうございました!
次回はノイシュリーベの一人称視点で進行していく予定をしております。