017話『白亜の壁の裡へ』(4)
※(2026.9.26) 本文の大幅な改稿と加筆修正を行いました
スターシャナに案内されて、ラキリエルは最も奥まった部屋へと通された。
廊下を進む際に、屋内の至る箇所にて改築の跡を発見する。それなりの年季を経ているのか、古い木材が放つ独特の匂いや、微かに床が軋む音が感じ取れた。
「とても静かで安心できそうな……お家ですね。
それに、よく手入れも行き届いていらっしゃいます」
「ありがとうございます。
此処は、我々『亡霊蜘蛛』にとっての家でもありますから」
両掌を重ねて腹部に置き、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で前を歩くスターシャナが淡々と言葉を連ねる。抑揚を欠いた、機械的な返事。
しかし彼女の所作の一つ一つからは、海底都市で従者達にお世話をしてもらっていたラキリエルから見ても、とても洗練されたもののように映った。
「あの……スターシャナ様」
「我々に敬称は不要です。
貴方はサダューイン様がお連れになられた、大切なお客人ですので」
「あぅ、すみません……」
家屋の最も奥まった部屋の前でスターシャナが立ち止まり、くるりと背後を振り返ってラキリエルと視線を重ねた。
「ですが、誰かの行動や言葉を縛りたいとは思いません。
それは私も、テジレアも、他の部隊員も同じでしょう。
どうかラキリエル様のお好きなようにお呼び下さい」
「はい、それではスターシャナさん。
案内していただいている、このお部屋……はどういった場所なのでしょうか?」
「……」
その問いには直ぐには答えず、スターシャナは静かに扉を開いて部屋の中へと足を踏み入れる。そしてラキリエルへ目配せをした。
「どうぞ、お確かめ下さい」
「は、はい!」
彼女に促されてラキリエルも部屋内に入ると、三台の棚や質の良い木製の寝台、机などが目に留まった。広さは一般的な宿屋の個室程度だろうか。
「先程、サダューイン様が仰られていたと思いますが、
彼の母親であらせられるダュアンジーヌ様の、私的なお部屋でございました。
現在はご覧の通り、半ば物置と化していますけどね」
「廊下と同じく、手入れが行き届いていますね」
棚には古い書物の他に魔具や、その素材が所狭しと置かれている。だがラキリエルが目を凝らしても埃一つ見当たらない。
「ラキリエル様、直ぐにこの部屋で沐浴の準備をいたします。
ご夕食の前に身を清められるとよろしいでしょう」
「はい、是非お願いします」
そうしてスターシャナは、机の傍に置かれた椅子を引いてラキリエルに楽にしているように促すと、てきぱきと支度を済ませていった。
部屋の中央に耐水性が施された豪奢な布を敷き、奥に置かれていた沐浴桶を移動させる。それなりに重量がありそうな物体を軽々と運んでみせた。
「(サダューイン様もそうでしたけど、物凄い膂力です)
(エルフ種は持久力に優れるものの、重い物を持ち運ぶのは苦手な筈では……)」
弓を引く際には筋力に頼らず独自の技巧を用いたり、或いは弓自体が特殊な構造をしていると耳にしたことがあった。
故に、目の前で難なく沐浴桶を担ぎ上げる侍従に瞠目してしまったのだ。
「ダークエルフの身体構造は、どちらかといえば妖魔に近いとされています。
尤も、その中でも私は特別な個体と言われておりました」
「すみません、決して訝しんでいたわけでは……」
「かまいませんよ。初見の方々が驚かれるのは無理のないことです。
慣れていますので、どうかおかまいなく」
その口調と同じく淡々と、淀みのない仕事ぶり。
当然のように水の精霊へ短い祈りを捧げて、あっという間に沐浴桶を澄水で満たしていく。更に、さり気なく乾燥させた香草を添えていた。
「(いつの間にか手桶と拭き布、それに沐浴用の肌着まで用意されています)」
澄水に沈めた香草より、安らかな香りが漂い始める。
物置代わりに使われていた部屋が、瞬く間に宮殿のような風情を醸し始めた。
「勝手ながら、香り付けは薄暮花にさせていただきました。
ラキリエル様は沐浴の手順は心得ておられますか?」
「はい。北イングレスの地を逃げ惑っていました折に、現地で……」
逃亡生活中の苦しい思い出が、少しだけラキリエルの脳裏に過った。
今にして思えば、あの日々を耐え抜くことが出来たのは従者達の献身と、逃亡先で触れた異文化への興味関心が心を紛らわしてくれていたのだろう。
「そうでしたか。それでは少し席を外しますので肌着にお着替え下さい。
お召し物はそちらの篭に纏めていただければ、後で洗濯しておきますので」
深々と頭を垂れて一礼し、速やかに退室していった。
「なんという、無駄のない動きなのでしょう」
返事をする隙すら与えられなかったラキリエルは、とりあえず言われた通りに自身の衣服を脱いで用意された肌着を着用することにした。
ゆっくりと時間を掛けて、海底都市の白い法衣を脱いでいく。それなりに複雑な造りなので、一通り脱ぐだけで十数分くらいが経過してしまった。
ともあれ己の衣服を折り畳み、指定された篭の中に重ねていく。
「(えっと、たしか……これを頭から被るようにして着るのでしたね)」
要するに、貫頭衣のようなものである。
上下一体化した長い着物の下側より、ずぼっと被って、そのまま首を通す。
そうしてから付属している帯を巻いて、きゅっと結んだ。
幸い、用意されたこの肌着の形状は、これまでに彼女が触れてきたものと大きな違いはなかった。
清潔なれど使い込まれたリネンの手触りは滑らかで、ひんやりとしている。
「(現在の北イングレスも、このグレミィル半島も、元々は同じ国)
(同じ文化圏だからこそ衣服の種類や形が似ているのかもしれませんね)」
などと考えていると、コンコンコン……と、扉を叩く音が響いた。
「ラキリエル様、よろしいでしょうか?」
「あっ、はい! 着替え終わったところです」
「失礼します」
ヒトが通れる最小限にだけ扉が開き、静かに入室するスターシャナ。
玉葱を炒めたような香りが、仄かに彼女から漂っていた。
「今の間に、夕飯の支度を進めておられていたのですか?」
「はい、簡単なものですが。
それではお身体を拭わせていただきますので、着水願います」
多少の気恥ずかしさを感じながらもラキリエルは沐浴桶に近付いて、そっと片手で澄水を掬ってみせた。
「(やわらかい……)」
海水のように肌に纏わりつくこともなく、北イングレスの水のように圧し掛かるような重さもない。
触れてはすぐに流れていくような、軽さと柔らかさを真っ先に感じたのだ。
そして先程、沈ませた薄暮花により優しい香りを漂わせている。
ラキリエルは、それぞれの腕に軽く澄水を浴びせてから、右脚より静かに沐浴桶の中に浸かっていった。
夏前の温かな気候と相俟って、とても心地良い至福だと、早くも感じ始めた。
「水の中ですのに、まるで絹織物に包まれているようです」
「お気に召したようで何よりでございます」
「この辺りの水は、全てこうなのですか?」
「はい、『森の民』が暮らすグラナーシュ大森林からシーリア湖にかけて、
現在でも同等の水質を保っております」
言いながら、水櫛と石鹸、そして拭き布を一枚手に取って跪く。
「御髪を拝見いたします」
「は、はい!」
断りを入れてからスターシャナは、ラキリエルの黄金の髪を一房だけ優しく掬い上げる。髪質を確認した後に、幾つか用意していた石鹸の中から一つを選んだ。
「ふむ、遠目からではロッティによく似ていますが髪質は少し異なりますね」
「(ロッティ? たしかテジレアさんも、その名前を出しておられましたっけ)」
「ラキリエル様の髪質ですと……このメゼルナ石鹸が相応しいでしょう」
「違いがあるのですか?」
「……グレミィル半島には多くの種族が混在しておりますから。
種族によっては、只の石鹸が命取りになることもあるのです。
なので我々にとっては重要な作法なのです」
「まあ……!」
「食べ物に関してもそうですね。
たとえば純人種を含む多くの種族なら玉葱を食べても問題はありませんが、
犬や、犬人にとっては致命的な結果を齎します」
「成程……それは確かに、慎重になってしまいますね」
ラキリエルが納得したところで、拭き布を濡らして石鹸を溶かし始めるスターシャナ。シーリア湖から汲み上げたであろう澄水のおかげか、よく泡立っていた。
「…………」
丁重に洗髪してもらっている間、ラキリエルはじっとするしかなかった。
何を話していいのか迷っていたというのもある。
そんな彼女の様子を見兼ねてか、スターシャナから話題を振ってくれた。
「ラキリエル様は、サダューイン様についてどう感じられましたか?」
「……えっ!」
淡々と水櫛で髪を梳いて整えて、泡の付いた布で丁寧に洗っていく。
淀みない所作が繰り返される中でラキリエルは盛大に身体を震わせた。
「ど、どう感じた……とは?」
「そのままの意味でございます。
救出されたことについて、そして異性として」
まるで心情を見透かしているかの如く、真っ直ぐな視線を向けられた。
少々、居たたまれない気分になりながらも、根が真面目なラキリエルが正直に言葉を紡ぎ始める。
「……救けていただいた上に、ここまでお連れいただいたことに対しては
とても感謝していると同時に申し訳ないと思っています。
お忙しい立場ですのに、わたくし一人のために手を煩わせてしまって……」
「ふむ」
「ここでの暮らしが落ち着いたら、何かの形でお礼をさせていただきたいです。
それと……出来ればもっと仲良くなれたら嬉しく……思っております」
「それは異性として、懸想を懐いているということですか」
「……うえっ!?」
「ああ、失礼。そのような視線をサダューイン様に傾けておられましたので。
別にかまいませんよ。あの御方は非常に女性の扱いがお上手ですからね」
「…………」
「ラキリエル様が、サダューイン様に恩義と好意を懐いているのなら何よりです。
何せ彼は、我々の主君であり上司ですからね……ふふっ」
「(今、微笑まれたのでしょうか……?)」
一瞬だけ浮かべたスターシャナの笑顔をラキリエルは見逃さなかった。
純粋に主君が好意を持たれていることを嬉しく感じているのだろうか。
「ですがサダューイン様は何かと人気者です、特に女性からは。
彼を狙っている者は無数に存在することでしょう」
「で、ですよね……あのご容姿ですし、博識で優しくて……」
「地位も身分も、持ち合わせておられますからね。
『亡霊蜘蛛』の同僚の中にも、熱烈な好意を懐いている者も存在します」
「……!」
「先程、名を挙げたロッティ……エシャルトロッテという者です。
そして彼女の妹のラスフィシア。我々はラスフィの愛称で呼んでおります。
まあ他にも、彼を慕っている者が大半ですけどね」
「エシャルトロッテさん、ラスフィシアさん……。
で、では……スターシャナさんは?」
「……私は、サダューイン様の忠実な僕に過ぎない身ですので」
努めて淡泊な返事。しかし、一瞬の間があったことをラキリエルは察した。
しかし深く追求するような真似は出来ない。そこまでの強引さは、今のラキリエルは持ち合わせていないのだ。
「その、サダューイン様に対して……異性としてどうなのかは、
今のわたくしには分かりません。ですが素晴らしい御方だとは思っています!」
果たしてこれが純粋な恋心なのか、恩義の延長なのか、それとも御伽噺への自己投影を楽しんでいるに過ぎないのか。
今まで限られた生活環境と人間関係しか築いてこれなかったラキリエルには、自信を持って答えを出すことが出来ずにいた。
「成程。迷われているのですね。
幸いにもヴィートボルグで暮らし続けるのなら、時間と機会はあります。
ゆっくりと御自身の気持ちに向き合われるのがよろしいかと」
「……はい」
火照った頬を冷ますかの如く、ラキリエルは鼻の下まで澄水に浸かり、口からぶくぶくと息を吐いていた。
「(それにしても……意外と気さくに話して下さる御方なのですね)
(テジレアさんと違う方向で、成熟された女性のように感じます)」
からかわれているような気がしないでもないが、少なくともラキリエルが先程までスターシャナに抱いていた警戒心は薄れていた。
曖昧な知識として持ち合わせていたダークエルフに対する偏見も、嘘のように鳴りを潜めている。
「まあ、これは老婆心からの助言となりますが……」
着々と洗髪を続ける最中、スターシャナが言葉を濁しながら話題を変えた。
「もし誰かと恋仲になりたいと思われたのなら、
御自身の本性を、もしくは本当の姿は明かした方が良いでしょうね」
「……えっ」
先程の問いとは全く異なる衝撃が突き抜ける。
「率直に申し上げますが、今のラキリエル様は御姿を偽っておられますね?
凄まじく高度な魔法の効果によって」
「な、何故……それを?」
サダューインや救護院の院長の前で、身体の一部だけを元の姿に戻したことはあった。しかしスターシャナとはこれが完全なる初対面である筈だ。
「ああ、申し遅れましたが私は左目に『妖精眼』を宿しているのですよ」
一度目を瞑り、開眼する。
するとスターシャナの左の瞳の中に、輪のような文様が浮かび上がり、淡い光を放ち始めた。
「よ、『妖精眼』! ……本物の?」
「ええ、常世に滞留する魔力の流れや精霊の姿を、直接視認する瞳です。
そして魔法や魔術の術式を見極め、解析することが出来るのですよ」
つまるところ『妖精眼』を持つ者の前では、如何に高度な擬態や偽装であれ意味を成さない。
それだけにこの力を持つ者は非常に希少であるとされていた。
それこそ伝承や、御伽噺の中の住人くらいのものである。
「『妖精眼』の保持者には三つの位階が存在し、輪の数によって決まります。
私の左目は一輪……つまり最も低位ですが、それでもこの通り」
「……おみそれしました。
そして偽りの姿で接していますことを深くお詫び申し上げます」
「いえ、決してラキリエル様を咎めるつもりはなかったのです。
ただ誰かを愛するのなら、その想いを告げるのなら、偽らない方が良い。
偽りの姿で愛し合ったとしても長続きはしないものです」
「うぅ、その通り……ですね」
「ラキリエル様の場合は、地上で生活するために必要なのでしょう。
海底と地上とでは環境も違いますし、純人種に偽装した方が過ごしやすい。
それは浅学な私でも、理解できますので」
一通り洗髪を終えたのか、最後に隅々までラキリエルの髪を検分する。
穢れや嘘偽りを看破する左目の輝きにより、見逃すことはない。
「ましてや博識なサダューイン様ならば、とっくに気付いておられます。
仮に貴方が本来の姿を晒したとしても、拒まれることはないでしょうね」
確認を終えて満足したのか、再び一瞬だけ微笑みを浮かべるスターシャナ。
一方のラキリエルは、その言葉を聞いて幾分か気が楽になったようだ。
「そうであれば、とても嬉しく思います。
いつか堂々とサダューイン様に明かしたいと……思っております」
「それは結構なことでございます。
繰り言になりますが、貴方には時間はありますからね。
ラキリエル様が良いと思った時に開示していけばよろしいかと……ただし」
ほっとした表情を浮かべるラキリエルに、スターシャナは少しだけ厳しい視線を傾け始めた。
「サダューイン様の姉君、ノイシュリーベ様は清廉潔白を信条とされます。
嘘偽りや謀略を何よりも嫌っておられます」
「……そ、そうですか。たしかに、この都市の今の在り方を見せていただいて
厳しく徹底した統治を成される大領主様……だと感じておりました」
だからこそ御自ら出陣して悪漢達を打ち倒し、ラキリエルの救出に赴いた。
確かな行動力と信念を持つ、若い為政者。そのような印象だった。
とはいえラキリエルにとっては恩人であり、心より感謝を述べたい相手。
これからも御世話になる身としては、ノイシュリーベに嫌われるような振る舞いは何としても避けたいと思っていた。
「でしたら、どうかお覚悟を。
ノイシュリーベ様も私と同じ『妖精眼』の保持者でございます」
「……な、なんと!?」
「それも最上位である、三重輪のです。それを両目に宿しておられる。
分かりますね? ノイシュリーベ様には、貴方の嘘は一切通用しません」
「……」
「あの御方と面会されるのでしたら、このことはよくご留意下さい。
これからの貴方の人生を大切にされたいのなら。
そして、サダューイン様との関係を進展させたいのなら……ね」
ラキリエルは、背筋が凍り付くような錯覚に陥った――
・第17話の4節目をお読みくださり、ありがとうございました!
・本文中でも少し触れましたが、シーリア湖の水質は軟水です。
ラキリエルが立ち寄った北イングレスは硬水、海底都市ハルモレシアは当然ながら海水……という感じですね。
・第5話でノイシュリーベが沐浴した時には肌着を着ていなかった、という疑問を感じられたそこの貴方。とても鋭い!
彼女はそういう部分で少し大雑把といいますか、騎士修行時代に時間に追われる生活をしていた影響からか、ささっと身体を清めることを良しとしているのだと思います。
・そういったキャラクター同士の差異も表現できていれば幸いです。




