002話『海底都市の竜の巫女』
※(2026.9.5) 本文の改稿を行いました。
※メッテ=メートル、トルメッテ=センチメートル
[ エルディア地方 ~ エペ街道 北端 ]
「もう少しで一息つける場所が見えてくる。それまでどうか辛抱してほしい」
「い、いえ……! 大丈夫です。どうぞ、よしなに……」
緊迫した雰囲気で手綱を操り、一心不乱に黒馬で街道を北上する長身の男性の傍で、ラキリエルは精一杯の平然さを装おうとしていた。
黒馬には一人乗り用の鞍しか備えておらず、ラキリエルは彼の前方で密着するようにして座らされている。
黒尽くめの装束と一体化している被衣を目深に被っているため、男性の表情は窺えないが、きっと安全地帯まで逃れることのみを考えているのだろう。
その必死さが伝わって来なければ、今頃ラキリエルは彼の身体より伝播する異様な高さの体温に呑み込まれてしまっていたかもしれない……。
「(ご病気というわけではなさそうですし、そういう体質なのでしょうか)
(嗚呼、それにしても……まるで揺り籠のような……)」
奇しくも、冷え切った心と身体を温めてくれるかのような熱。
それは最後の同胞にして従者であるツェルナーを喪ったばかりの彼女が、正気を保ち続ける支えとなっていたのだ――
[ グラニアム地方 ~ エルディア地方との端境 ]
「よし、あの旅籠屋にしよう。
石壁の組み方も、敷地を囲う柵も堅牢に見える。こういう店は信頼できる」
「……はい」
エルディア地方とグラニアム地方の境目にて、二千メッテくらいの間隔を空けて建っていた店の中から一軒を選択する。
街道から少し離れており、林を挟んでいるため追手の目に付き難いと判断した。
ラナリキリュート大陸は南部、中央部、北部でそれぞれ文化圏が大きく異なる。
旅の商人や冒険者を相手に営業している宿泊施設の在り方も、その一つ。
比較的気候が安定し、陸路での往来が盛んな大陸中央部では旅籠屋と呼ばれる施設が各地に点在していた。
旅籠屋は街道沿いや、地方と地方の境目などに独立して建っている。
そのため馬車を停めるための馬舎が併設されていたり、魔物避けの堅牢な防護柵で囲われている。
旅を続ける者達にとって、安全な休息が見込める憩いの場なのだ。
「今でこそ我がグレミィル半島は、ラナリア皇国の属領の一つとされているが
元々は大陸中央部で巨大な勢力を誇っていた旧イングレス王国の一部だった。
したがって、その文化圏の影響を強く受けている……今はそれにあやかろう」
「(我がグレミィル半島? この御方は、もしや……)」
手綱を操る男性の独白に対してラキリエルは少し気掛かりな点を感じていたが、彼女が疑問を口にする寸前で、一旦の目的地へ到着した。
「ここまでありがとう、リジル」
彼等を乗せている黒馬も、疲労の限界に達していた。
夜通し、あるいはそれ以前から駆け抜け続けていたのだろう。
敷地内に入るや否や、馬舎内で空いている場所を探して休ませることにした。
そして黒尽くめの男性は、相乗りさせていたラキリエルに手を貸して丁重に降りていただくと、率先して旅籠屋の入り口へと案内していくのであった。
空を見上げれば、いつの間にか薄明の兆しが見え隠れし始めている――
[ グラニアム地方 ~ 南端の旅籠屋『祈月亭』 ]
「ふぁ~~……ああ、いらっしゃい。
こんな時間までご苦労さん、さぞや大変な旅だったんだろうね」
扉を開いた先では、夜番に就いていた従業員がカウンター越しに、気さくに迎え入れてくれる。
誰もが定刻通りの旅を遂行できるわけではないし、夜間に活動する亜人種もこの半島には一定数が存在するので従業員からすれば不審に感じることはない。
時にはこのような時刻に来訪する客も珍しくはないのだろう。
「三階の二人部屋は空いているか? 半日ほど滞在させてほしい。
見ての通り二人だ……それから馬を一頭、停めさせてもらったよ」
要件を伝え、懐より小さな革袋を取り出してカウンターにそっと置いた。
「代金は全額前払いで置いておく。
グレナ銀貨ではなく、エディンでかまわないな?」
「へいへい、もちろん大丈夫ですとも。
上階なら南西と南東の部屋が空いてますから、お好きな方をどうぞ」
「……ありがとう。じゃあ鍵は持っていく」
「いやぁ、なんとも気前がいいお客さんだ!
そんならサービスで、後で軽食を付けさせていただきますよ」
旅慣れた客と従業員との間で、淡々と交渉が進められていく。
グレナ銀貨は旧イングレス王国の貨幣で、古くから使われ続けている。
それに対してエディンは、ラナリア皇国全域で流通している共通の貨幣である。
グレミィル半島内でも四半世紀前からエディンが採用され始め、大抵の店で取引が成立するようになっていた。
むしろ近年では交易の活発化に伴い、エディンの方が価値を増している。
価値ある貨幣を手渡されて、この従業員もさぞ満足したことだろう。サービスも過剰になるというものだ。
「それにしても……えらい別嬪さんをお連れのようだ。
この辺じゃあ中々に見かけることのない格好をされていますが、
余所から買われてきた奥さんですかい?」
「え、奥さん……わたくしが?!」
「……そんなところだ。だが余計な詮索は控えてくれ」
好奇の視線を向け始めた従業員から、ラキリエルの姿を隠すよう立ちはだかる。
そうして引ったくるようにして部屋の鍵を受け取り、そのまま彼女を先導して三階へ続く階段を登っていった。
旅籠屋の多くは三階建ての建物で、頑丈な石壁造りである。
古い時代の見張り塔や前哨基地を発端としているためか、踏み締める階段も頑丈な造りをしていた。
[ グラニアム地方 ~ 南端の旅籠屋『祈月亭』 三階 ]
「先程は、目の前で無礼なやり取りを聞かせてしまって申し訳ない」
三階の南東の二人部屋に入室すると、男性は開口一番に謝罪の言葉を述べた。
「いえ、少し驚いてしまいましたけど
ああいうのが一般の方々の軽い挨拶みたいなもの……なのですよね?」
「まあ、そんなところだな」
恐らく全く意味を理解していないな、と察したものの敢えて言及するような野暮な真似は控えておいた。
従業員が言う「余所から買われた奥さん」とは、娼婦を意味する隠語である。
「後で軽食を付けさせていただきます」というのも、行為が終わるまで干渉しないという意味である。
こんな夜明け前に来店して二人部屋を所望したのだから、不審には思わないまでも下世話な想像の一つくらいは掻き立てられるのも致し方ない。
「(放蕩貴族が、愛人なり娼婦なりを連れて密会を楽しもうとしている……)
(きっと従業員の目には、そのように映っていたのだろうな)」
ともあれ追手からラキリエルを遠ざけたい男性にとっては都合の良さそうな勘繰りだったので、そのまま話を合わせておいた。
「さて、すっかり申し遅れてしまったが、まずは名乗らせていただこう」
聞き耳を立てる者が居ないことを確認した後に部屋の扉を閉めると、男性は装束の一部である被衣を脱いで素顔を露わにした。
「俺の名はサダューイン・エヌウィグス・エデルギス。
このグレミィル半島を治めるエデルギウス家の一員で、現大領主の弟に当たる」
「っ! エデルギウス家の、サダューイン……様」
「君の従者、ツェルナー殿といったかな?
彼から保護の要請を旨とする嘆願書が届き、救援に馳せ参じた」
男性の正体と、黒尽くめの装束の奥に秘匿されていた容姿を検め、ラキリエルは思わず息を呑んだ。
サダューインは、一メッテと九十トルメッテ近くの長身に、真珠の如き銀輝の髪が特徴の美丈夫といって良い風貌である。
左目は宝石のような美しき緑色の瞳に対して、右目は黄金色で爬虫類のような瞳孔を持つ不思議な瞳をしていた。
「(御姿もそうですが、一つ一つの所作からも教養の高さが伝わってまいります)
(エデルギウス家の一員というのは、本当のことなのでしょう)」
「残念ながら追手の戦力が予想以上だったために、彼を救うことは出来なかった。
……改めて、力不足をお詫びしたい」
深々と首を垂れて、謝罪の意を示す。
「いいえ、サダューイン様! どうかお顔を上げてください。
ツェルナーのことは耐え難い悲しみではありますが、
彼はわたくし達が故郷を発った、あの日から覚悟を決めておりました」
いずれ正式な弔いの機会を設けたいと思う気持ちはあるが、それは今ではない。
それくらいの分別はラキリエルとて持ち合わせていた。
彼女の言葉を受けて、一拍置いてからサダューインが顔を上げる。
「今は危険を顧みずに救援に赴いてくださった貴方様と、
街道を駆け抜けて来られた騎士様方に心より感謝するばかりです」
眼前で両掌を重ねて、恭しくお辞儀をした。
これが、彼女の故郷での最上位の感謝を示す作法なのだろう。
「こちらこそ申し遅れました。
わたくしはラキリエル……ラキリエル・ミーレル・ファルシアムと申します。
力無き我々を救い、自らご足労いただいたことに深く痛み入ります」
視線をサダューインの瞳に合わせるべく、めいっぱい顔を上げる。
かなりの身長差があるために少しだけ首が痛い。
「既にツェルナーからの手紙を読まれたのなら、ご存じかと思いますが
この地より東の方角に位置します、アルドナ内海の遥か水の底。
海底都市ハルモレシアより参りました」
その内海は、グレミィル半島の隣の南イングレス領を跨いだ先に位置する。
大陸中央部から南部に掛けて大きく広がる湾へと繋がる、太古の海域である。
「(仮に陸路で直線的に向かったとしても、二ヶ月以上はかかる距離だ)
(海路での逃亡生活ともなれば、相当の日数を耐え忍んできたのだろうな……)」
「故郷では、海神龍ハルモアラァト様の声を届ける巫女として生きてきました。
ですが、ある日ラナリア皇国の艦が海底を訪れて、警告なく襲ってきたのです」
滅び逝く故郷の凄惨な光景を思い出し、ラキリエルの表情が大いに曇る。
「一晩のうちにハルモレシア中に呪詛と炎が蔓延し、地獄絵図と化しました。
数多の犠牲と引き換えに、わたくしと少数の従者だけが辛うじて脱出に成功して
恥ずかしくも生き延びてしまったというわけです……うっ、うぅ……」
「……辛い境遇であることは承知しているが、どうか気を強く保ってほしい。
生き延びることが出来たということは、何らかの導きがあったのだろうね」
瞳に涙を浮かべ始めたラキリエルの眼前へ一歩踏み出し、自然な所作で両腕を広げながら抱き締めた。
一見すると細身に見えるが、極限まで鍛え上げられた肉体による胸板は分厚く、抱擁により伝播する熱に包まれた彼女の悲しみは、一時的に和らげられていく。
このサダューインという美丈夫は、ヒトを安堵させる"熱"を宿していた。
「我々を頼って亡命を決意してくれたからには、奴等の好き勝手はさせない。
君の身柄と尊厳は、俺達が必ず守る!」
「サダューイン様……」
偽りなき言葉と抱擁を受けて、思わずラキリエルは頬を朱色に染める。
辛い逃亡生活の果てに辿り着いた陽だまりのような温かさが、彼女の心に得難き安らぎを与えていったのだ。
「ラキリエル、君だけでも救うことが出来て良かった」
そうして彼女が落ち着くのを待ってから、サダューインは抱擁を解いた。
「それにしても海神龍を奉る海底都市の巫女……か。非常に興味深い話だ」
「お伝えしておいて、こう言うのも変かもしれませんけど
サダューイン様は、ハルモアラァト様のことを信じてくださるのですか?」
「ああ、にわかには信じ難い存在だと感じるがね。
遥か太古の時代では、そういった存在が地上や海を席巻していたのだと
母上の生家に遺されていた書物で目にしたことがあったんだ」
嘗て、地上世界には神々と呼ばれる上位存在だった者達が君臨していた。
しかし長き歴史の中で進化を繰り返した人類により淘汰された。
今となっては、その存在を識る者すら極めて稀となってしまった。
だからこそヒトは、自分達の脚だけで歩いて行かなければならないのだ。
「(神々という力無き存在は、大きく数を減らして地上から姿を消したそうだが)
(ラキリエルが信奉していた海神龍は、例外的に生き延びた個体なのだろう)」
いずれにせよ彼女が歩んできた人生を尊重するのであれば、海神龍ハルモアラァトへの言及は慎重に行うべきだとサダューインは弁える。
一方でラキリエルは、あっさりと受け入れてくれたサダューインの博識ぶりに驚いていた。
「(書物で目にしたとおっしゃっておられますが)
(そのような本が、そう滅多に遺されているものとは思えません)
(サダューイン様は大層な読書家で努力家、そして探究心がお有りなのですね)」
もしサダューインがここまで博識でなかったとしたら、従者ツェルナーが伝えた亡命の要望など絵空事だと一笑に付していたことであろう。
救援に駆け付けることすら検討されなかった可能性は高い。
ラキリエル達はグレミィル半島に辿り着く前にも北イングレスと呼ばれる地で逃げ隠れしていたのだが、亡命を受け入れてくれる者は誰一人として現れなかった。
「ラキリエル殿、先ずはグレミィル半島へようこそ!
貴殿達に嗾けられた追手の正体は非常に気掛かりではあるが、
我らエデルギウスの者が、この家名と紋章に懸けて貴殿の身の安全を保証する」
黒尽くめの装束の一部に刻印された、大樹と剣をモチーフとした紋章を示す。
これこそがエデルギウス家の家紋なのだろう。
「謹んで貴家の温情と保護に縋らせていただきます。
サダューイン様は、あの者達について心当たりがお有りだったのですか?」
「ああ、奴等は最上位の冒険者ギルド『ベルガンクス』の一員だ……。
悪名高く、善悪問わずに興味を懐いた依頼を率先して熟そうとする自由人達。
その分、腕は確かなんだが 凄まじく高額な依頼料を要求することで有名だ」
「まあ……!
道理で高価な魔具や武器を使っていたわけですね」
悪漢達が、それぞれ持っていた魔具製の提燈。
そして「お頭」と呼ばれていた巨漢の男、バランガロンが振るっていた大戦斧も一目で逸品であることが判る素晴らしい代物であった。
「奴等が興味を示す依頼は、世界的に希少な秘宝が絡むことが多い。
……何か心当たりはあるかな?」
「……ッ!? そ、それは」
明らかにラキリエルが動揺し始める。恐らくは海底都市に纏わる重大な代物を持ち出して来たのではないか……とサダューインは瞬時に察した。
「ふっ、まあ追々にでも話してくれれば良いさ。
ともあれ奴等を雇用できるだけの資金力を持った人物が背後に居るのだろうな」
『ベルガンクス』は油断ならぬ難敵だが、大局的には尖兵に過ぎない。
警戒すべきはその雇い主と、海底都市に襲い掛かったラナリア皇国の艦である。
「ありがとうございます……いずれ必ず、全てお話いたします……」
「ラキリエル殿の状況が落ち着いてからでかまわないさ。
とりあえず今日のところは、この宿で充分な睡眠を取った方が良い。
察するに、長らく船での逃亡生活が続いていたのだろうしね」
「そのお言葉に甘えさせていただきます。ですがその前に……、
わたくしのことは、ただのラキリエルと呼んでいただけないでしょうか」
故郷を失い、奉るべき海神龍の遺骸も海の藻屑と化した。
その現実を受け入れるためにも巫女ではなく、貴人でもなく、只の個人として、今後の人生を自らの脚で歩んでいくためにも敬称で呼ばれることを拒んだ。
「ふむ、ではラキリエル。
俺は暫くそこの机で伝文を綴っているから、君は先に休むと良い。
他には誰も、この部屋に入れる心算はない」
部屋内に備え付けられた簡素な机と、それなりに上等な造りの寝台を指差す。
厳しい逃亡生活で疲弊した彼女を安心させるために、サダューインは極めて優しい声色を心掛けて諭した。
「そうして君の身体の調子が戻ってきたのなら、
グラニアム地方の城塞都市ヴィートボルグへ向けて発とうと思う。
そうでなければ、もう二~三日くらいは様子を見て滞在しよう」
「何から何まで本当にありがとうございます。
……それでは、失礼……いたします………」
既に疲労が極限まで達していたのか、安堵と共に急激に微睡始めた。
羽織っていた白い法衣だけ脱いで行儀よく畳むと、寝台の脇に置いてから清潔な布団に倒れ込むようにして深い眠りへと落ちていった……。
数秒と経たないうちに、静かで安らかな微かな寝息が等間隔で響き始める。
「もう少し警戒されるとも思っていたが……」
救援に駆け付けた者とはいえ、仮にも異性との相部屋だ。
然るべき非難は覚悟しての申し出であったが、予想以上にあっさりと状況を受け入れた彼女に対して、拍子抜けすると同時に憐憫の情を懐いた。
「スー……スー……」
「本当に過酷な旅路だったのだろうな、不憫な娘だ」
美女の面貌には疲労の相が色濃く滲んではいたが、それでも彼女が持って生まれた無垢なる輝き……貴人としての質は聊かも損なわれてはいなかった。
正直なところ、サダューインは草地の茂みに潜伏しながら、悪漢達より逃げ惑う彼女の姿を一目見た時より見惚れていた。
彼と深い関係にある者の中には、ラキリエルに酷似した容姿の女性が存在するのだが、その者とは別種の存在感を放っており、故に目を離す事が出来なくなった。
己とは異なる世界で生きて来た貴人。
そしてこれからも、本質的に交わることは許されない無垢なる女性。
サダューインが抱える数多の"腕"を伸ばしても、掴み獲れない遠い遠い存在。
だからこそ、これまで関わってきた如何なる女性達よりも純粋に惹かれるのだ。
「俺のような穢れた存在には、彼女は眩し過ぎる……」
椅子に腰掛けながら左腕の袖を捲り上げると、そこには魔具製の包帯で厳重に巻かれた腕が垣間見えた。そしてゆっくりと、その包帯を解いていく。
定期的に交換しなければならないと直属の部下から忠告を受けているからだ。
「今の内に全ての包帯を換えておいた方が良いな」
包帯が解かれた彼の左腕は、ヒトのものではなかった……。
肘から下には痛々しい縫合痕が刻まれており、その先は真紅の鱗で覆われた亜人種の腕と掌が備わっている。
識者が検分すれば、竜人種の前腕を移植したのだと分析することだろう。
それだけではない、上腕部は濁った翡翠の如き結晶体で覆われていたのだ。
「……まだ動いてくれよ。これからが大変な時期となるのだから」
己の腕を浸食する濁った翡翠に向けて厳しい眼差しを注いだ。
この結晶体こそが、現在のグレミィル半島を影から蝕む謎の呪詛の一端。
サダューインやノイシュリーベの両親は、この悍ましき呪詛によって完全なる結晶体へと姿を変え、粉々に砕かれた末に焼却されるという非業の死を遂げたのだ。
そして息子である彼の左腕もまた同種の呪詛によって侵され始めていた……。
それから半刻の時が経過した。
包帯の交換を済ませてから、暫し机に向かって伝文を綴っていたサダューインは、ふとラキリエルが安らかに寝入ったかどうか気になり椅子から立ち上がった。
彼女が横たわる寝台の傍へと赴いて寝姿を見詰めていると、彼女の身体の周囲より静かに漂う深い魔力と、常時展開している魔法の痕跡に気付いたのである。
「珍しい魔力の波長だな、これは……もしや古代の……?
アルダイン魔導帝国時代に編み出された存在置換の魔法、なのか」
持ち前の博識さで、彼女の身体に施された秘法を検分する。
「成程、興味深い。俺が今 視ている彼女の肉体は、
古代魔法によって換えられた偽りの姿というわけか」
視界に映るラキリエルの容姿は、純人種の女性そのものであった。
しかし海の底で海神龍と共に暮らしてきた以上は純人種である筈はないのだ。
そして海底都市の住人が本来の姿のまま陸に上がって生活することは出来ない。ましてや追手から逃亡し続けなければならない状況ならば尚更に。
必然的に何等かの手管を用いて地上の環境に適応する必要があったのだろう。
「(擬態というよりは地上で暮らすための、もう一つの姿といったところか)
(だからこそ彼女から感じるこの無垢な輝きだけは、偽りではないのだろう)」
そして海底に潜伏したまま難を避けることが許されなかったからこそ、地上のグレミィル半島まで逃れなければならなかったのだろう。
海底都市で起こった惨事が如何に凄惨であったのかを改めて感じさせられた。
詳しい事情までは従者の手紙には記されていなかった。
であれば折を見て直接、彼女が持ち出したという海底都市の秘宝と合わせて、聞かせて貰うより他に知る術は無いのだろう。
「我が両親や、俺の左腕を蝕むこの呪詛……『灰礬呪』の浸透が
看過できなくなりつつある時期に、海底都市の竜の巫女が現れた。
これは偶然か? それとも……誰かが仕組んだ戯曲なのか?」
願わくば前者であって欲しいと零しながら、安らかな寝息を立てるラキリエルの美しき面貌を暫く眺めていた。
斯くして大領主の弟であるサダューインの不吉な予感は、遠くない未来に於いて的中していくことになるのである。
【Result】
・第2話を読んで下さり、誠にありがとうございました。
次なる第3話はエペ街道で交戦した悪漢達のシーンを挟む予定をしております。
そしてサダューインとラキリエルのお話の続きは第6話からの予定となっておりますので、どうぞ ご期待ください!




