013話『そして濁り水は像を結んだ』(8)
至近距離で見せ付けられた薬品は、明らかに真っ当な代物ではなかった。
皆まで言わずとも、返答を拒めばこれを投与されることになる状況に対して軍人は絶望の色合いを一層深めて震え上がった。
「ひィッ!? ……まさか、それは魔精霊薬!」
「ほう、よく知っているじゃないか。
流石は少人数で作戦を任せられていただけのことはある」
ラキリエルの位置からは見えないように、外套の裡より出現させた"腕"を伸ばして軍人の頭を取り抑え、右掌で試験管の中身を……限りなく黒に近い真紅の液体をほんの少量だけ口元へ垂らしてやる。
「ごぼっ……ごぼ……止めろ、止めてくれ! そんなものを飲ませないでくれ!」
その液体の効用を知っている軍人は顔面蒼白になりながら必死に懇願した。
属領とはいえ極秘裏の任務に従事するからには然るべき拷問に対する訓練を積んだ者である筈なのだが、サダューインが持ち出した薬品はそんな軍人の矜持をも容易く打ち砕く代物であった。
果たしてそれは、いったいどれほど邪悪な代物であるのだろうか? 背後で見守るラキリエルは、ただただ困惑せざるを得なかった。
「言う……言うから、せめてヒトとして……ヒトのまま殺してくれ……」
「俺が聞きたいのは豚の悲鳴や懇願ではない」
「……わ、我々は密命により『灰礬呪』をこの地で浸透させるよう仰せつかっていた……!
呪詛の実験と備蓄……いつか再開される再侵攻の際に……北イングレスの地へ解き放つために……」
「浸透だと? 誰かが意図的に撒こうとしているとは思っていたが……予想以上に大きな企みが裏で進められていたようだ。
本国の連中は本気で呪詛戦争でも始めようとしているのか!?」
いよいよ以て、怒気を孕み始めた声色で吐き捨てるように所感と疑問を述べる。
彼の言っていることが真実だとすれば、グレミィル半島は然るべき時に呪詛を解き放つための実験場兼戦略的貯蔵庫として利用されようとしているに等しいからだ。
「……では二つ目の質問だ。貴様達に命令を下していたのは誰だ?」
「そ、それは……」
主君への忠誠。守秘義務。軍人としての最後の矜持などにより言葉を詰まらせるものの、サダューインは容赦なく液体を垂らす素振りを見せる。
「くっ……うぅ……ぼ、ボルトディクス……提督だ……」
「ボルトディクスだと……?
ラナリア皇国海洋軍の第四艦隊の総司令で、大戦期にはグレミィル半島に攻め込もうとした人物として知られた人物だな……」
「……!!」
その名を耳にした瞬間、ラキリエルは激しく動揺を露わにして微かに身体を震わせ始めた。
「三つ目の質問だ。『灰礬呪』の発症条件は? どうやって無機物である魔具像に搭載したんだ?」
「はゅぅぅ……はひゅぅぅ……『灰礬呪』は………自然発症や他者から感染する可能性は極めて低い。
だが『負界』の影響を受けた生物には……一定の確度で発症……する」
「『負界』が呪詛の橋渡し、または苗床となっているということか」
「そうだ……紫紺の瘴気を……鉱物へ変え、結晶化させる……と説明された。これは生体だけでなく……無機物であっても例外ではなかった。
だから『負界』が湧き出た土地に赴いて……現地人と『グロシュラ……ス』を接触させることで……効率的に罹患させていく……」
「つまり『グロシュラス』は呪詛を積んだ運搬車であると同時に、『負界』に侵された者に『灰礬呪』を罹患させる触媒でもあるということか」
グレキ村で目にした紫紺色に爛れた患者の皮膚を思い出す。あの状態に陥った先に濁った翡翠の如き鉱物を手足に生やす結末を迎えるという訳である。
「貴様達はなぜザンディナム銀鉱山で『負界』が噴出したことを知っていた?
わざわざ山道を封鎖していたというからには、相当に早い段階で知り得ていなければ辻褄が合わない」
「それは……我々が『負界』を掘り当てた……からだ……。
『グロシュラス』には……『負界』を探知して意図的に掘り起こす……機能が備わって……いた……」
その言葉を聞いた瞬間、サダューインは右掌を伸ばして軍人の頭を鷲掴みにした。
「外道どもが!! ……もういい、疾く逝け」
「……ッ!? ああぁぁ……がふっ!」
ミシミシミシ……と硬いものが軋む音がした次の瞬間、常軌を逸する握力を発揮して頭蓋骨を握り潰した。恰も果実の如く人間の頭部が拉げる光景に、ラキリエルは思わず目を背けてしまう。
とはいえ約束通り一瞬にして介錯する形となったのは、せめてもの情けである。
「……見苦しい姿を晒してしまったかな」
「いえ、お気持ちはよく伝わっておりますので……」
自身が暮らす土地で数々の蛮行を繰り返されているのだ、為政者の一族であるサダューインにとって如何に忸怩たる思いであるのか察して余りある。
その胸中を汲み取りつつも、たった今 骸と化した軍人に対してラキリエルはこれまで通りに送魂の祈りを捧げた。
たとえ仇敵であったとしても、魂の救済と循環は平等に行われるべきであるとラキリエルは考えているのだ。
そんな彼女が一通りの祈祷を終えるまでの間に、サダューインは珍しく激昂した精神を落ち着かせることに専心する。
「ところでサダューイン様、先ほどからお話に挙げられていた『灰礬呪』……名前は今初めて知りましたけども。
わたくしが故郷より脱出する直前に、似たような症状に陥った同胞を大勢見ました……」
再び悪夢の一端、結晶化する同胞達の姿が脳裏に浮かび……思わず首を振って脳裏の像を掻き消そうとした。
「なんだって!? もしそれが本当なら、なんと惨い話だ……」
驚愕しつつも、どこか得心が行った面持ちを浮かべた。
幾らラナリア皇国の正規軍が襲撃したとはいえ、強大な力を有する竜人種が暮らす都市を陥落させるなど、そう容易いことではない。
少なくとも海洋軍総出で、それこそ大国を攻め滅ぼすに値する軍備や年月を費やさねば成し得ない筈なのに、サダューインの元にはそのような軍事行動を採っていたという情報は一切届いていなかった。
だが未知の呪詛を用いて効率的に海底都市の攻略を試みたのであれば話は別。充分に実現可能だったのかもしれない。
「ここ数年の間にグレミィル半島の各地で蔓延し始めている呪詛の一種でしかないと思っていたが、どうやら思った以上に広範囲で意図的で撒かれてしまっていたようだ……」
『グロシュラス』の体表より剥がれ落ちた濁った翡翠の欠片を眺めながら、深刻な声色で嘯く。
「君も直で目にしたのなら知っていると思うが、肉体に鉱物が生える……正確には肉体が鉱物に置き換わるように結晶化していくという不可解な症状を齎す呪詛だ。
解呪はおろか発祥源すら掴めず、途方に暮れかけていたが思わぬところで尻尾を掴めたな」
「肉体を鉱物に変える……なんて恐ろしい……」
「先刻の返答が真実だとすれば、前段階として意図的に『負界』を興して呪詛の苗床とする必要があるが……随分と手の込んだことをやってくれるものだよ」
ラナリキリュート大陸に於いて『負界』が湧き出ることは極めて稀とされている。
故に大陸に住む多くの者達は『負界』の存在を知る機会すらなく、その延長線上で『灰礬呪』という呪詛へ繋がるなど夢にも思わない。
「この者達に命令を下していたというボルトディクス……ラナリア皇国の公爵家の独断か、それとも軍全体が絡んでいるのか。
本国に問い質すにしても入念に準備を整えておく必要がありそうだ」
「……かなり複雑な因縁があるような気がしてまいりました」
「同感だ。ならば詳しいことはヴィートボルグに着いてから、姉上を交えて話し合うのが良いだろうね。
その席では君の持つ情報を、なるべく提供してくれると助かるよ」
「はい。わたくしがお話できる限りのことはお伝えさせていただきます。
その時までには、きっと心の整理も着いていると思いますので……」
ここで互いが断片的な情報を提供し合っていても根本的な解決には至らない。
いずれにせよグレミィル半島を統治する立場にあるノイシュリーベにも事態を周知させ、然るべく方策と決定を下してもらわなければならない。
そのためにも銀鉱山で起こった事変に関する情報を的確に掴み、持ち帰ることを優先するべきだろう。
破壊した『グロシュラス』の破片の一部を拾い上げ、魔力や呪詛を遮断する封魔布で包んだ後に雑嚢へと仕舞い込む。流石に全てを持ち帰ることは現実的ではないからだ。
軍人達の亡骸は避難所の片隅に束ねておくことにした。せめてもの情けとして獣除けの護符を添えておき野獣や魔物に死肉を食まれることだけは避けるようにする。
「こんなところか。
宿場街に着いたら警邏隊の詰め所に話を通して遺体を回収させよう。
尤も、今は負傷者への対応で人手が足りていないかもしれないけどね」
「憎しみを懐くべき方々ですが、せめてヒトとして亡骸は葬られてほしいです」
「ああ、野獣の糧となるのも自然の摂理の一端ではあるが、軍務に従事しての結末ならその軍服と共に葬られるのが筋だろうからね」
所感を零し、先に黒馬へとラキリエルを騎乗させてから自らも鞍に跨り片手で手綱を握り締め、目的地へ向けて再び山道を登り始めた。
「君を狙う悪漢達に皇国海洋軍の軍人、『灰礬呪』を撒き散らす兵器。意図的に噴出された『負界』。
……もしその裏側に全てボルトディクス家が関わっているというのなら、僅かながら糸が伸びる先が視えてきた気がするよ」
朧気ながら足元で這い寄る濁り水の輪郭は視え始めた。
然れど、所詮は末端の現象であり、元凶は既に数手 先にて企みを描いている。
その全貌を見定めることが出来ない限りは、後手に回って追い駆け続けるしかないのだとサダューインは覚悟するのであった。
・第13話の8節目をお読みくださり、ありがとうございました。
・次話では主人公の一人であるサダューインについて綴らせていただいた後に、再びノイシュリーベのパートを少し挟みたいと思います。