013話『そして濁り水は像を結んだ』(1)
※(2026.9.5) 本文の大幅な改稿を行いました。
其は陽光すら差し込まぬ、幻創の霊櫃。
遥か水底の彼方。忘れ去られし龍の故郷。ハルモレシア。
「(ああ、なつかしい……)」
心地良い泡沫の記憶が爪弾かれる。久しく忘れていた、この浮遊感――
ハルモレシアはアルドナ内海の底にて、海神龍ハルモアラァト様の加護により拓かれた安息の地でした。
我々、翼と鱗と尾鰭を持つ眷属達は数千年前より地上人に気付かれないように、変わらぬ暮らしをひっそりと続けてきたのです。
海底都市を成立させていたのは、ハルモアラァト様の遺骸にして存在核。
『灼熔の心臓』と呼ばれる秘宝でした。
ヒトの頭蓋ほどの大きさの、黄金の宝玉……だった記憶があります。
都市の中央部に聳える半球体状の施設の奥、通称『白き祭壇』に秘宝が納められており、その傍でわたくしはずっと暮らしていました。
『灼熔の心臓』は絶えず淡い光を放っています。その力により水圧が軽減され、酸素を産み出し、また光源にもなっていたのです。
これにより海底で建物や所有物が維持され、都市の形を保てていました。
淡い光は月光の輝きにも似ており、海底でありながら独特の植物を育みます。
植物は海底に住まう者達の糧となり、独自の生態系を築き上げました。
また水棲の魔物や深海龍なども誕生し、厳しくも豊かな故郷と成り得たのです。
紫色の水仙に似た半透明の花弁は、都市を照らす街灯の如く。
独特の蔓状植物を編み合わせた家屋は、地上で云うところの天幕の如く。
一面に広がる海藻群や珊瑚礁は、色鮮やかな庭園の如く。
母なる大海とハルモアラァト様の恵みを余さず享受するべく、わたくし達は慎ましさと調和を心掛けて、この揺り籠のような世界に浸っていたのです――
[ 海底都市ハルモレシア 『白き祭壇』 ]
この日も、わたくしはハルモアラァト様の声を受け取るために、祭壇の前で目を瞑り合掌しておりました。
地上の皆さんは両膝を大地に着けて跪くのが一般的だそうですが、海底で暮らすわたくし達には脚がありませんので、ぷかぷかと水中を漂いながら祈るのです。
「(…………)」
来る日も来る日も、わたくしは一日の大半を祭壇の近くで過ごしていました。
建物内の決められた区画でしか生活を許されなかったのです。
それが巫女の役割であると幼き頃に教えられて、疑うことなく受け容れました。
起床から食事、祈りの時間に至るまで決められている生活は決して気楽なものではありませんでしたが、長年の務めによる慣れからか苦痛は感じませんでした。
或いは、苦痛という感覚すら麻痺してしまっていたのかもしれません。
毎日、顔を合わせる者といえば従者や侍従、そして都市長。
物心が付いたころから接してきた方々は、もう家族のようなものでした。
時折、傷付いた同胞達を癒すべく魔法を施すこともありましたが、外部の者達と関わる機会ともなると、本当にそれくらいだったと思います。
平穏ではありました。
窮屈でしたが、ひもじい思いをすることのない生活を送らせていただきました。
だけど、嗚呼……本当は、巫女ではなく一介の民として、一人の女として。
自由に生きてみたいという、叶わぬ願望を常に胸に秘めて生きていたのです。
「(この時のわたくしの希望はといえば、この本……だけでしたっけ)」
泡沫の記憶の中より蘇る、夢中になれた御伽噺の欠片。
数少ない娯楽として許されていたのは、読書に耽ること。
巫女としての教養を嗜むために開放されていた書庫には、魔法学や史学に混ざって古い寓話を記した書物が置かれていたのです。
書物の多くは地上から運び込まれたもので、『灼熔の心臓』の恩寵と魔法による防水処理によって大切に保管されていました。
「(書物の中の物語は、光り輝いて見えたものです)」
どこまでも続く草原。賑やかな街。険しい山脈。木漏れ日に包まれた静かな森。暖かな海。多種多様な種族が棲息する島。雪……という白く冷たい不思議なものが天より降り注ぐ北の大地。全てが別世界の出来事で、ただただ感動するばかり。
そうして勉学の傍らで、少しずつ読み進めていたのです。
自室でも励みたいと嘘を付いて、史学書といっしょに寓話の本を借りました。
「(中でもお気に入りだったのは……『翳の英雄と群青の姫君』)」
誰からも認められることなく、しかし仲間や故郷のために己の身を犠牲にして戦い続けた、とある英雄の物語です。
英雄は最後の最後に、駕篭の中でまやかしの光に照らされる"群青"という姫君と出会い、救い出したことで新たな人生を歩むことになりました。
"群青"だけが英雄の偉業と本心、そして贖罪の旅路に気付きました。
英雄だけが"群青"の孤独と渇望、そして解放の旅路に寄り添いました。
やがて二人は恋に落ちて、周囲の制止を振り切って駆け落ちするという物語。
「(嗚呼、なんて素敵で眩き結末なのでしょう)
(たとえ、その光で身を灼かれたとしても。翳に沈む未来だとしても……)」
外の世界を知らぬ、わたくしにとって二人の物語はとても惹かれるものでした。
自分自身を"群青"に重ねて。自己投影をして。詮無い空想だと理解しながらも、いつか駕篭の中より抜け出したいと願望を懐いてしまったのです。
御伽噺のように、誰かに掌を引かれて連れ出してもらいたい。
恋というものをしてみたい。一人の女として生きてみたい。
「(自分の意思で、自分の脚で、どこまでも歩いていきたい)
(そう焦がれてしまいました。たとえ偽りの脚であったとしても……)」
そんな日常が終わりを告げたのは。
皮肉にも、囚われの駕篭の中より連れ出されることになったのは。
燃え盛る業火と、濁った翡翠の呪いによって……でした。
「今代の巫女よ、約束された滅びの日は来たれり」
「 "主"と結びし約定を果たすため、汝に我等が残照を託す」
「どうか生き延びよ。願わくば霊峰の果てに届けるべし」
その"声"は直接、わたくしの脳に降りてきました。
「……ハルモアラァト様!? それはいったい、どういうことなのですか!」
祈りの日々の中では断片的な単語を賜るのが常であり、わたくしが受信したその単語を海底都市の学者達が解析して、民に伝えていました。
だというのに、この日は明確な意志として聞こえてしまったのです。
そのまま、訳が分からずに祭壇の前で立ち尽くしていると、やがてハルモアラァト様の遺骸が眩く輝き、独りでにわたくしの胸元まで漂ってきたのです。
「ああっ、なんて……温かい。でも、寒い……これはいったい?」
黄金色の宝珠。海底都市の秘法、『灼熔の心臓』。
吸い込まれるようにして、わたくしの身体の裡へと入ってきました。
まるで全身の血脈に光が流れ込むかのような感覚……だったと思います。
最初に温かな波濤が広がり、直ぐに極寒の境地の如き寂寥が押し寄せました。
抗うことはできませんでした。
ですが、これは容易く切り捨てて良いものではないとも、本能的に察しました。
まるで最初から、わたくし達はそう設計された生き物であったかのように……。
――― ド ォ ォ …… ォン。
その時でした。凄まじい振動と共に頭上の海域より爆光が迸ったのです。
気が付いた時には、わたくしの居た建物は粉々になっていました。
残骸に埋もれかけながら、どうにか意識を取り戻し……信じられない光景を目の当たりにしました。
祭壇は砕かれ、目に見える範囲で都市には轟々と炎が燃え盛っていたのです。
厳密に言えば、その時は『炎』というものをよく分かっていませんでした。
燃え盛る赤い揺らめき。海底に住む者にとって馴染みのない現象。
書物の中の、御伽噺でしか登場しない破壊と、文明の象徴。
一つだけ理解したのは、ハルモレシアが壊れかけているという事実。
あちこちで悲鳴と怒号が飛び交い、建物内に勤めていた者達も大いに混乱しているようでした。
「いったい……なにが起こっているというの……?
ハルモアラァト様! どうか、どうかご説明を……」
恐怖に肩を震わせながら掌を重ね合わせて、必死に祈りを捧げますが反応なし。
それどころか『灼熔の心臓』を受け容れてからは、ハルモアラァト様の存在を一切感じることが出来なくなっていたのです。
「ラキリエル様! 炎……が、そこまで達しております。それに呪詛も!
早く、浮上船にお逃げくださ……あぁ……ッ!!」
そんな叫び声を挙げながら、必死の形相で近寄る女性が現れました。
彼女は、わたくしの身の回りのお世話をしてくれていた侍従の一人。
背中の翼は無惨に引き千切られ、尾鰭は黒く変色して欠け落ちていました。
それだけではありません。皮膚の至る箇所より鱗とは異なる翠色の石のようなものが生えていたのです。
「なにが、なにが……起こっているのです……」
慌てて彼女の傍まで泳いで渡り、触れようとした途端。なんと全身が翠色の石で覆われ尽くしてしまったのです。
後々、地上に出てから知ったことですが、これは翡翠と呼ばれる鉱石によく似ている物質なのだと思います。
咄嗟に彼女に治癒魔法を試みようとしましたが、更なる爆光と振動が襲いかかったため、わたくしの身体は激しい水流に呑まれて吹き飛ばされてしまったのです。
海底の岩盤が砕かれ、家屋の破片が飛び散り、珊瑚や海藻類が辺り一面に乱雑に漂う。そんな絶望的な光景、破壊の渦……。
「(あれは……)」
何度か岩盤に打ち据えられた末に、頭上から迫る大きな影を目にしました。
海底に棲むクラーケンや、深海龍、或いは浅海で目撃した鯨などの巨大な生き物よりも更に大きい人工物。
わたくしが暮らしていた建物と同じくらいの大きさだったかと思います。
その人工物には正に今、海底都市に拡がる『炎』を象った紋章が描かれていました。それがラナリア皇国の国旗であることを知るのは、まだ少し先の話……。
「うぅ……」
どうにかまだ動く両腕を振るい、尾鰭を動かし、翼で水流を掻いて、その場を離れようとしました。
或いは、生きている同胞達を探して合流したいと必死に抗おうとしました。
ですが……海底都市だった場所を進むにつれて眼前に映るのは残酷な『炎』。翠色の石と化した亡骸。そして何者か達の"足音"でした。
脚を持たない海底都市の民には、決して発することの出来ない不思議な音。
まるで恐怖で早鐘を打つ、わたくしの心臓の鼓動を反映させているかのように、その音はどんどん密度を増して、近付いてきていたのです。
「まだ生き残りが居たぞ!」
「紫紺弾を構えろ! この女も結晶化させて連れ帰る」
全身を貝殻のような装具で覆った見知らぬ者達。
彼等は全員、二本の脚で海底を渡り歩いていたのです。
手にはそれぞれ、石弓や手斧のようなものを携えて、明らかにわたくしの方へ狙いを定め始めました。
逃げなければ。と頭では分かっていても身体が言うことを聞いてくれません。
「ここに居られたのですか!
ラキリエル様、なにを惚けておられるのです!」
背後より何者かの声がしたのです。勿論、ハルモアラァト様ではございません。
声の主は私に素早く近付いて腕を掴み、能う限りの力でこの場から離れました。
貝殻のような装束を纏った者達は、どうやら水の中であまり素早く動けないようでしたので逃げる分には苦労しませんでした。
「貴方は……たしか衛兵の、ツェルナーといいましたね」
「その通りです。いや、私のことは今はいい。
ご覧の通りハルモレシアは現在、甚大なる被害を受けています!
衛兵長殿も、神官長殿も戦死なされました……一刻も早く、お逃げください!」
「……そ、そんな!」
ツェルナーは、数日前に祭壇のある建物へ配属された新米の従者でした。
就任当日に挨拶をしてくれたので顔と名前を覚えていたのです。
「まだ生き残っている人達がいるのなら、私の魔法で……」
「なりません! 侵略者共は炎と破壊だけでは飽き足らず、
悍ましき呪詛を撒いて、同胞達を結晶化させているのです。
今、ラキリエル様が赴けば、御身も災厄に見舞われるのは自明の理!」
「くっ……いったい何者なのですか!?
このような非道な行いをする、彼等は!」
「地上からやって来た、ラナリア皇国の軍人達です。
信じられないことに奴等は深海まで潜る船を保有しています!
そして……それを率いているのはエルベレーゼ家の元当主」
「エルベレーゼ……?」
「私やラキリエル様がお生まれになる以前、ハルモレシアで暮らしていた者です。
過去に都市長と争い、追放されたとのこと」
「そのような御方が、ラナリア皇国の軍勢を連れて……」
「方法や目的は不明ですが、ハルモレシアを滅ぼそうとしているのは事実です。
さあ、急ぎましょう! 浮上船までご案内します!」
そうしてツェルナーは、困惑するわたくしを無理やり引っ張りながら都市唯一の船着き場まで連れて行ってくれました。
地上へ直接渡ることが出来る特殊な船に乗せられると、そこには僅か三十名ほどの衛兵や市民達だけが蹲っていたのです。
「ラキリエル様をお連れした! 直ぐに出航してくれ!」
「ま、まってください。ハルモレシアにはまだ、きっと……」
わたくしの言葉は聞き遂げられることはなく、ツェルナーの同僚と思しき者達は浮上船の錨を巻き上げて、そのまま遥か海上へと向かっていったのでした。
その道中にて、嗚呼……見てしまったのです。聞こえてしまったのです。
濁った翡翠の呪い。
降り注ぐ紫紺色の砲弾。
燃え盛る真紅の業火。
蹂躙される、淡い蒼光に包まれていた筈の静かな都市。
「熱い……痛い……」
「お母さん、お父さん、どうして何も言ってくれないの!?」
「ハルモアァト様! 巫女様! どうか、どうかお慈悲を!」
「なんだこの結晶は、どうなって……俺の尾が!」
「おのれラナリアァァ!」
「誰がこの都市の存在を漏らしたのだ?!」
「うわああああ!!」「誰か! 助けてくれ!!」
幾重にも鳴り響く同胞達の慟哭――
「あ……」
瞳に焼き付いて離れない、真紅の業火と濁った翡翠――
「ぁ……あぁ……!」
結晶化して砕かれるヒトはどこか美しくも、やはり悍ましい。
翠という色が、わたくしの心を深く蝕んでいきました――
「……ああぁぁぁっ!!?」
絶叫を上げて泣き叫んだところで、ラキリエルの悪夢は急速に遠退いた。
徐々に意識が冴えていき、在るべき現実の輪郭を整えていく……。
悪夢の代わりに視界に映し出されたのは、涙で霞んだ岩肌ばかり山道。
そして背後より心配そうに見詰める、美丈夫の整った顔。
其処は滅び逝く海底都市などではなく、ザントル山道の中腹だった。
ラキリエルはサダューインと共に、再び黒馬に乗ってザンディナム銀鉱山を目指している最中であったのだ。
【Result】




