013話『そして濁り水は像を結んだ』(1)
そこは本来、光すら差し込まぬアルドナ内海の底の果て。
忘れ去られし竜人種の里……海底都市ハルモレシア。
海神龍ハルモアラァトの加護によって拓かれた安息の地にして優しき揺り駕篭の裡には、翼と鱗と尾鰭を持つ眷属達が静かな日々を慎ましく暮らしていた。
海底都市の中央部に聳える半球体状の施設の奥、通称『白き祭壇』。
海神龍の遺骸にして存在核たる宝珠『灼熔の心臓』が納められており、この宝珠の力によって光無き水底に淡い光を齎し、水圧の影響を緩和し、ヒトが棲める環境を築いていたのだ。
淡い光は月光の輝きにも似ており、海底でありながら独特の植物が自生するための光源となる。これにより竜人族の食糧が賄われていた。
中でも水仙に似た半透明の紫色の花弁は、都市を照らす光と相まって幻想的な光景を醸し出していたことであろう。
竜人の棲み処は、独特の蔓状の植物を編み合わせて設えた簡素なものが多く、地上人の感覚で例えるなら天幕が近しい。
恰も海底に生え渡る海藻群や珊瑚礁の如く、景観を崩すことなく、母なる大海との調和を最大の美徳としていたのだ。
海神龍の神託を得て民に伝える役目を担うラキリエルは、その日も普段と変わらず白き祭壇の前で跪き、祈りを捧げていた。
変わらぬ日常の一部。巫女としての生活は決して気楽なものではなかったものの、長年の務めによる慣れからか苦痛は感じなかった。
むしろ適度な緊張感と充実感のようなものも感じないわけではない。顔を合わせる同胞達は皆、物心が付いたころから接してきた家族のようなものである。
然れど、嗚呼……適うことならば、巫女ではなく一人の女性として、一介の民として、生きてみたいという願いを秘めてしまう。
巫女とは選ばれし存在であり、海底に棲む全ての竜人種にとって無二の栄誉。
その代償として海神龍の神託を授かる宿命と能力を後世に遺していくために、産まれた時より番となる者すら決められているのだ。
海底都市の中では最上級の衣食住を与えられ、何不自由のない暮らしを約束されているが、逆にいえば何一つとして本当の意味で自分のものにはならない。
娯楽ですらも人から与えられる。巫女ならば、そうあれかしと人々に希われた人格と人望を維持しなければならないのだ。
そんなラキリエルの数少ない、心よりの楽しみはといえば海底都市の図書施設に収められている地上の書物を読み耽ることだった。
書物に記された物語は光輝いていた。
どこまでも続く草原。賑やかな街。険しい山脈。木漏れ日に包まれた静かな森。暖かな海。多種多様な種族が棲息する島。雪……という白く冷たい不思議なものが天より降り注ぐ北の大地。
全てが別世界の信じられぬ光景であり、総てが書物の中にだけ存在する幻創であった。少なくとも、この時のラキリエルにとっては……。
つまるところ書物に記されていた煌びやかな地上人達の生活様式や文化、或いは物語に憧れを懐いてしまったのだ。
中でも特にお気に入りの書物は、『翳の英雄と群青の姫君』という御伽噺。
其は誰からも認められない、だが仲間や大陸の平和のために己が身を犠牲にして戦い続けた英雄の物語。
最後の最後に、駕篭の中でまやかしの光に照らされる"群青"という銘の姫君を救い出したことで、唯一 彼女だけが英雄の偉業と本心に気付いてお互いに恋に落ち、そして結ばれるという御話だ。
英雄にとって"群青"は、贖い続けるしかない贖罪の旅路の中で見出した唯一無二の救済であり光。
"群青"にとって英雄は、閉ざされた永劫の世界を抉じ開けて己を連れ出してくれた希望であり翳。
両者は一目で互いに惚れ込み、両想いとなるものの産まれた環境が、与えられし宿命が、人並みの恋愛模様を描くことを許さず幾許かの試練を架せられる。
しかし最後には真実の絆が二人を結び、永遠の愛で満たされるのだ。
ラキリエルは度々"群青"に己の姿を重ねていた。いつか英雄がやって来て、外の世界へと連れ出してくれるという空想に浸る日もあった。
外の世界……即ち地上へ赴く日のために、地上人の肉体に己を変容させる秘術すらも容易く習得してしまうほどに、焦がれていた。
この御伽噺のように、己も誰かの手で連れ出された先で、恋というものをしてみたい。一人の女として生きてみたい。
自分の意思で、自分の足でどこまでも歩いていきたい。そう、焦がれてしまったのだ。
そんな日常が終わりを告げたのは、皮肉にも囚われの駕篭の中より連れ出されることになったのは、燃え盛る業火と濁った翡翠の呪いにて……。
普段のように白き祭壇で祈りを捧げて神託を待っていた時のことであった。
海底都市全域に凄まじい轟音とともに地鳴りが響き、次いで同胞達の悲鳴が其処彼処より木霊したのだ。
思わず立ち上がって狼狽えるラキリエルの脳内に、海神龍ハルモアラァトの"声"が届く。
《 今代の巫女よ、約束された滅びの日は来たれり 》
《 "主"と結びし約定を果たすために、汝に我が存在核を託す 》
《 どうか生き延びよ。願わくば霊峰の果てに届けるべし―― 》
「……ハルモアラァト様! それはいったい、どういうことなのですか!?」
普段の神託とはまるで異なる"声"の在り方に更なる動揺を重ねるラキリエル。
わけが分からず、その場で立ち尽くしていると眼前の空間に黄金色の光粒が集まり出し、やがて宝珠の形状を象った。
両掌を伸ばしてみると、宝珠はラキリエルの身体に溶け込むかのようにして消えていく……。
「なんて温かい光、これがハルモアラァト様の『灼熔の心臓』……いえ、ですがこれを持ち出したら都市に棲む人々が……」
海底都市を維持していた秘宝が如何なる代物であるかを熟知する巫女であるからこそ、海神龍がそれを託すことの意味を理解する。
即ち、どうあっても海底都市ハルモレシアは潰える宿命であり、不可避の現実。故に竜人種の生活の場を維持する必要がなくなったと告げられたのだ。
――― ド ォ ォ …… ォン。
その時だった。白き祭壇の直ぐ傍で爆発が起こる。施設内で勤務する者達からも怒号が飛び交い、いよいよ以て混乱の坩堝と化した。
「いったい……なにが起こっているというの……」
恐怖に肩を震わせるも、『灼熔の心臓』を受け容れてからは海神龍の"声"はもう聞こえてこなかった。
代わりに、ラキリエルが立ち尽くしている祭壇の間に一人の女性が慌てた様子で駆けこんで来る。
「ラキリエル様! 火の手がそこまで達しております、お早く!浮上船にお逃げくださ……」
施設に勤める侍従だった。彼女が必死の形相で叫びながら避難を促そうとした矢先、なんと身体が尾鰭から順に結晶化していく。
濁った翡翠にも似た不気味な鉱物のような症状。海底都市の至る箇所で散見されることになる無慈悲な亡骸がまた一つ出来上がった。
「……っ!! これは、これはなんなのですか!?」
巫女の職務の一環として磨き上げた治癒魔法を施そうとしたが、侍従の身体に顕れた症状はそう容易く元に戻ることを許さなかった。
或いは時間を掛けて根気よく続けていけば活路が見出せるかもしれなかったが、生憎とそのような時間は与えられない。
彼女が口にしていた通り都市に放たれた炎が、海中であるにも関わらず白き祭壇にまで燃え広がろうとしていたのだ。
「ここに居られたのですか! ラキリエル様、なにを惚けておられるのです!」
「貴方は……たしかツェルナーといいましたね」
「その通りです。いや、私のことは今はいい。そこの女性のように身体を結晶化させる者がハルモレシア中で続出しております!
更に家屋には、海中でも燃え盛る悍ましき火が放たれ、この施設以外は既に……ですので一刻も早くお逃げください」
侍従を救えぬ己の無力さを痛感し、その場で項垂れていると衛兵の衣装を着込んだ男性……ツェルナーが通路から姿を現し、ラキリエルの腕を引いて強引に祭壇から船着き場まで連れていく。
「信じがたいことですが、ラナリア皇国軍が攻めてまいりました」
「……なんですって」
「住民を結晶化させた呪詛を撒いたのも奴等の仕業……都市長や元老院のお歴々は真っ先に犠牲となりました。
残念ですが生存が確認された者は、もはや三十名にも届きません」
船着き場まで連れていかれる最中に、ふと頭上を見上げればラナリア皇国の国章と皇国海洋軍の紋章が刻まれた軍艦が潜水してきており、海底都市へ向けて紫紺色の砲弾を繰り返し放つ光景が視界に映った。
既に都市内には紺色の軍服を纏う軍人達が上陸を果たしており、結晶化した同胞達を粉砕して回る者や、海中でも消えぬ炎を撒き散らす者が散見される。
地獄絵図とは正にこのことであった。
「……あの軍艦を操っているのは我々の同胞だったボルトディクス家の者です。
ハルモレシアの正確な位置や、海神龍様の存在を知悉しているとはいえ海の中に潜れる艦が存在するとは……今は生き延びることを優先しましょう。
そして地上に住む者達に保護と援助を求めるのです!」
眼前の惨状を受け入れることを脳が拒むあまり茫然自失となっていたラキリエルに対して真摯な面貌でツェルナーが熱弁する。
その昔、ボルトディクスという家門が存在したことは、ラキリエルも先代の巫女より教わっていた。
慎ましさと閉塞感に覆われた海底都市ハルモレシアの在り方を改革しようとクーデターを起こしたものの後一歩のところで鎮圧され、家門ごと追放。
その後の行方は誰も知らず、やがて時の流れの中で忘れ去られようとしていた……しかしボルトディクス家の長は、着実に牙を研いで還って来たのだ。
そうして彼に促されるまま浮上船へと乗り込まされると、船内には先に到着して待機していたであろう僅かな数の従者や他の衛兵達の姿が在った。
「さあ、こちらにお掛けください。直ぐにでも出航させます!」
促されるままにラキリエルが席に座り込むと同時に。浮上船が緊急発進。故郷が潰える光景を船窓より目の当たりとすることになる。
濁った翡翠の呪い。
降り注ぐ紫紺色の砲弾。
燃え盛る真紅の業火。
蹂躙される、淡い蒼光に包まれていた筈の静かな都市。
「熱い……痛い……」
「お母さん、お父さん、どうしちゃったの?
どうして何も言ってくれないの!?」
「ハルモアァト様! 巫女様! どうか、どうかお慈悲を!」
「なんだこの結晶は、どうなって……俺の尾が!」
「おのれラナリアァァ!」
「誰がこの都市の存在を漏らしたのだ?!」
「うわああああ!!」「誰か! 助けてくれ!!」
同胞達の悲鳴と怒号が幾重にも鳴り響き――
「あ……」
瞳に焼き付いて離れない、真紅の業火と濁った翡翠――
「ぁ……あぁ……!」
結晶化して砕かれるヒトはどこか美しくも、やはり悍ましい。翠という色が、ラキリエルの精神を深く蝕むことになる。
「……ああぁぁぁっ!!?」
絶叫を挙げて泣き叫んだところでラキリエルの悪夢は急速に遠退いていく。
徐々に意識が冴えていき、在るべき現実の輪郭を整えていく……。
悪夢の代わりに視界に映り出したものはといえば、寝起きの眼と涙で霞んだ岩肌ばかり山道の景色。そして背後より心配そうに見詰める美丈夫の面貌。
ここは燃え逝く海底都市などではなく、ザントル山道の中腹。
ラキリエルは、サダューインとともに再び黒馬に乗ってザンディナム銀鉱山を目指す最中であった。