8章のエピローグ:レン・アシュトン[Ⅰ]
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それは、いまと別の世界線において。
近くに大霊廟での儀式が迫っていた。
エルフェン教がレオメル皇家へ祝いの文と手紙を携えて訪れたのは、その頃だ。彼らはクラウゼル男爵邸へも足を運び、ある話をして去ったばかりだった。
レザードは十数分前までいた客人たちへリシアが返した言葉に触れた。
「リシアらしい返事だった」
「無礼なお返事ではなかったでしょう?」
「ああ。無下にするわけでもなく、心配りもできていたと思う」
男爵邸を訪ねた聖宮騎士の中には、聖地においても数少ない高位神官の姿もあった。聖人の右剣という二つ名を持つ騎士、ミストルフォだ。
リシアを聖宮騎士団に誘いに来た彼だったが、リシアは迷うことなく返した。
『非才な私には身に余る光栄です。ですが私はクラウゼルの人間。それに、エレンディルを離れることなど考えたことがありません』
ミストルフォたちに交渉の余地を与えぬほど、凛然とした声だった。
もちろん、クラウゼル家の人間だからというだけではない。
何よりも彼女には、レン・アシュトンの傍を離れる気がなかった。
村を襲ったシーフウルフェンにより父を失い、イェルククゥの襲撃で生まれ故郷の村がなくなりかける過去。そんな過去を持つ彼と、今日までほとんどの時間を過ごしてきた。
どこまでもまっすぐで、心優しい彼に惹かれはじめたのはいつからだろう。
彼のことを一つ知るたびに恋心を育み、気づけば、彼が傍にいないことなんて考えられないほどの存在になっていたのだ。
その彼について、
「もうすぐレンも帰ってくるだろう」
「お父様? どうしてそこでレンが出てくるのですか?」
「早く帰ってこないだろうか、とリシアがそんな表情を浮かべていたからだよ」
「っ……も、もう! そこまで見透かさなくて大丈夫ですから!」
早く帰ってこないかなと思ってしまうのも仕方ない。
純粋に早く話したいということもあるだろう。
しかし同じくらい、リシアには無視できない理由がある。
「……レンのためって、わかってるけど」
ぽつりと声が漏れた。
レンが帝都に行くのは剣の腕を磨くためだ。リシアにとって問題なのは、彼が剣を磨くために教わる師の存在だ。
あれほどの女性にレンが教われるという事実を、リシアは頼もしいと感じていた。
あれほどの女性がレンの側にいるという事実が、リシアの心を揺さぶりつづけた。
少女らしい心を律することができず唇を尖らせていたリシアの耳に、給仕が執務室の扉をノックする音が届いた。
扉を開けて姿を見せた給仕が告げる。
「お嬢様、レン様がお帰りになりましたよ」
「ありがと! じゃあお父様、失礼いたします!」
「ああ。迎えに行っておいで」
慌てて執務室を飛び出していったのも、レザードには見慣れた光景だった。
数十分前に聖宮騎士たちが去った玄関ホールに向かうと、そこにレン・アシュトンの姿はあった。
「お帰りなさい。今日はどうだった?」
「いつも通りですよ。見ての通りぼろぼろになっちゃって……まだまだですね、これじゃ」
「ううん、そんなことないわ。最近は前みたいに倒れそうって感じじゃないでしょ。ほら、こっちに来て」
神聖魔法の輝きをレン・アシュトンに届けると、彼はその温かさに頬を緩めた。
なんてことのないそんな表情が、リシアの心へと安らぎをもたらす。
「ありがとうございます。それと、リシア様もお客様たちと――――」
「……」
「あの……どうして急に不満そうになったんですか?」
「何度も言ってるけど、この前みたいに呼んでくれないの?」
夏休みが終わってから、突如訪れた出来事だった。
いつも通り通学していたと思ったら、校門をくぐってすぐのところでレンが急にリシアに様とつけずに呼んだことがある。
あまりの衝撃に、周囲を歩く生徒たちの注目も集めたほどだ。
「いきなりリシアって呼ばれたときの私の気持ち、全然わからないでしょ?」
「で、ですから! 俺は覚えてないんですってば!」
「誤魔化すつもりでも、セーラたちも覚えてるんだからね」
「え、えー……そう言われましても……」
困った様子で笑うレンを見て、リシアは「もう」と苦笑した。
彼を困らせたいわけではないのだが、そろそろ「リシア」と呼び捨ててくれてもいいのではないだろうか。
リシアは現状に不満を抱いていたが、自分がもっと積極的になれたら変わるのだろうかと思った。
「今日、あの方との訓練はどうだった?」
「少しは耐えられるようになってきましたけど、ほとんど変わってないかもしれません」
「そうなんだ……。もうレンなら同年代の子たちよりずっと強いはずなのに」
「同年代ってだけですしね。それに同年代でも、リシア様には追いつけてませんし」
汗を流してきます、と言った彼が自室へ向かう後ろ姿を見ているだけで、リシアは強く考えさせられる。
……レン、私に気を遣ってるのかな。
リシアは白の聖女として生を享けて以来、多くの賛辞を一身に浴び、それらの声を上回るほどの成果を出してきたという自負がある。
それでも傍にいる少年の成長曲線は、いつしか彼女を上回っていた。
「……きっと、私の覚悟が足りないから」
幼い頃に父を失い、生まれ故郷をほとんど失ったも同然のレンだ。
イェルククゥによる襲撃の後、クラウゼルの屋敷に引っ越してきたばかりの彼はあまりにも弱く、同い年のリシアは何度立ち合おうと負ける気がしなかった。
しかし、彼はいつも日が昇る前から騎士たちと訓練をつづけ、夜は眠る直前まで騎士たちに負けじと訓練を繰り返した。
いつからだろう。彼がリシアと剣を交わしても最後に倒れなくなったのは。
いつからだろう。彼がリシアに肉薄するほどの鋭い剣を手にしだしたのは。
彼がとある剣の流派に出会うと、血の滲むような努力はさらに強度を増した。
はじまりはイグナート侯爵がレオメルに牙をむいた頃だ。レンがとある女性と出会ったとき、彼の剣が進むべき道は定まった。
以来、リシアはレンとほとんど剣を交わしていない。
怖かった。
彼に剣の腕で先へ行かれてしまうことがではない。先を行った彼を守るという名目が消え、また彼がリシアを必要としなくなるかもしれないことが。
レンを見送りながら、リシアはその背を見たまま。
「私も、レンと同じ剣を学べたら違ったのかな」
そんなのはいまさらすぎる。
けれど、もっと幼い頃から同じ剣の才能があるとわかっていたら――――。
「……いつも、一緒に剣を磨けたのかな」
それにもし、レンがクラウゼル家の仕事を手伝うためにと特待クラスの受験を諦めていなかったら、そのときは教室でも一緒にいられたはずなのに。
しかし、それは無理な話だろう。
レンの父、ロイが亡くなってからは、襲撃により重傷を負った母もまたクラウゼル家の世話になり救われた。そのレンが、クラウゼル家の世話になるだけの道を選ぶはずがなかった。
一つか、あるいは二つ。
もしも何かが違っていたら、もっと傍にいられたのだろうか。
そんなことを考えてしまう理由にも、もう我慢なんてしたくないという気持ちの正体にだって、リシアはずっと前から気が付いている。
抑えることもできず、そうする気もない感情がそれだ。
レンの背を見ていた彼女は、
「――――レンっ!」
そのときに決めた。
だから、いまの声を聞いて振り向いた彼に。
「明日、一緒に行ってほしいところがあるの!」
◇ ◇ ◇ ◇
第一皇子が皇太子になるとか、そのための催しが帝都で開かれるとか。
どれもレオメルにとって大きな出来事に違いはなかったけれど、それ以上に大きなことがあった。リシアは大霊廟で儀式が行われる前に家の仕事を終え、獅子王大祭にも勝るその催しの中にレンと共にいた。
「しばらく体調を崩してたんですし、リシア様は無理しないでくださいね」
「もう平気だってば。昨日も念のために診てもらったし、今朝も普通に神聖魔法を使えたもの」
その返事を聞き安堵したレンは、リシアが昨日話していた言葉を思い出して尋ねた。
「一緒に行ってほしいところって、どこですか?」
リシアは不思議と緊張していなかった。
むしろ、早鐘を打ち出した胸の感覚すら心地よく感じて微笑が浮かぶ。
「学院よ」
「一応、今日は休みですよ」
「もう、そんなの知ってるってば」
疑問を抱くレンにそれ以上は答えなかったリシアは、理解が追い付いていない彼の不意を衝いて手を重ねた。
急にこれほど大胆なことをされたレンは戸惑いを募らせる。
リシアは軽い足取りで彼の手を引いた。
「ほら、ついてきて」
「い、行きますから! でも、手は別に……!」
「ふふっ。反論は受け付けてないから」
こんなにも晴れやかな気持ちになれたのは、いつ以来だろう。
そう感じていたら、
……あれ、いま――――。
リシアは不意に胸が痛んだ気がしたのだが、レンの手を握る感触がそれに勝った。どこか遠くから鈴のような音色を聞くも、この祭りのどこかで鳴らされたのだろう、と気にも留めなかった。
やがて――――学院の大講堂で。
昨年の入学式の日のことを、リシアはいまでも鮮明に思い返せた。
特待クラスに入学する者の中から、誰より成績優秀な男女が一人ずつ選ばれ壇上に上がる。学院長から祝いの言葉を受けたときのことだったが、男子生徒の代表は一般クラスに入学したレンではなかった。
二人であの場所に立ちたい。
リシアのそんな気持ちが、彼女にここを舞台に選ばせた。
壇上へ先に上ると、彼女は見上げてくるレンへ手を差し伸べる。
「レン、来て」
上がった先で、レン・アシュトンの数歩先をリシア・クラウゼルが歩いた。
白の聖女は幼馴染の少年を振り向く前に、壇上へ降り注ぐ光を見上げる。眩しく熱いくらいの光を帯びて、大きく息を吸った。
いつから好きだったのかな――――と改まって考えてみたとき、はじめて会ったときのレン・アシュトンの表情が浮かんできた。育まれた感情はもちろん、一目惚れに近い感覚だってそうだ。
「えっと……リシア様?」
どうしてここに、と疑問を抱くレン・アシュトンにリシア・クラウゼルが答えた。
「もう、伝えないなんてできないから」
振り向いて。
白の聖女の視線が、これから訪れる物語の黒幕を見つめた。見つめ返す彼に対し、彼女ははじめての勇気を絞り出す。
いま、言うから。
「リシア・クラウゼルは、レン・アシュトンのことが――――」
だが、それは言葉にできなかった。
彼女の視界が突然大きく揺らぎ、膝から頽れたせいで。
あまりに突然の異変であった。
胸の奥底で、白の聖女の魔石が前触れなく大きな拍動を繰り返す。
一度、二度と拍動するごとに白の聖女の全身を言葉にできない痛みが襲い、それは際限なく増していった。異変を感じ取り、少年が駆け寄り身体を支えてくれたけれど、止まらなかった。
「っ……どうしたんですか!?」
「……わかん、な――――急……に……」
かろうじて残されていた視界の中、嘘だろうと思った。
指先が白磁器のように染まりゆく光景。さらには、帝都の外から感じたことのない神聖な魔力を感じ取る。それは人の目に触れることもなく、ただリシアにだけ存在を主張しつづけた。
もし、リシアの身体に宿る白の聖女の魔石が、これまでに覚醒の兆しを見せていたとしたら……そのときは、かの雫がこれ以上の力を以て帝都に牙を剥いていただろう。
リシアは何かが怖くて、怖くて……。
懸命に縋ろうとレン・アシュトンの手の感触にだけ意識を向けたのだが、
『――――』
彼を拒絶しろというかのように、何かがリシア・クラウゼルへ心の中で告げてきた。
同時に、この地に迫る魔王教に、何としても終焉をもたらせとも命じてきた。
頭に響く声が恐ろしくてたまらず、彼女は力を振り絞って彼に触れる。変化した肌は指先だけだったはずが、いまでは腕にまで白が広がっていた。
「リシア様!」と案じてやまない彼の顔を見たとき、言葉を失った。
白の聖女の魔石がいままでよりずっと大きく揺れると、彼女に凄惨な光景を見せつけた。
それは彼女の想い人が無残な姿で横たわり、彼の血を浴びて立つ自分の姿。まるで、言うことを聞かなければそうなると告げている。
現に抗おうとしていたら、いつの間にか白の聖女の背中から現れた輝く翼。
まばゆい一筋の光が、
「かはっ……!?」
少年の腕を貫き弾き飛ばした。
すでに両腕は白に覆いつくされ、あまりの速度で彼女の胸元にまで侵食している。
瞬く間に全身が覆われるということを白の聖女は感じ取り、違和感と痛みに堪えながら涙を浮かべて呟いた。
「どう……して――――」
その少年に為すべきことをせよ、と白の聖女の魔石が彼女に命じていた。
さらには、帝都に迫る魔王教に剣を向けよと強制された感覚がより強く全身を駆け巡る。
何故そうしなければならないのか、何故そのようなことを命じるのか、彼女は現状への理解を深めるより先に、何より彼のことを案じた。
蹲っていた彼が顔を上げ、立ち上がろうとしたのを見て、
「……逃げ、て……レン」
声を絞り出し、背を向け無理やり足を動かし彼から離れる。
そうしている間にも、彼女の意識に逆らい翼が光を放とうとしていたけれど、彼女はそれにも耐えた。耐えるたびに魔石が強力な痛みを伴い命じてきたのだが、それにすら彼女は涙を浮かべながら逆らった。
「っ……逃げられるわけ、ないじゃないですか!」
彼は立ち上がり鉄の魔剣を召喚すると、必死に彼女に近づこうとした。
白の聖女は全身が白に覆われたとき、自分の意識が完全に失われてしまうということに気づき、同時にそれを止める術を持たないことも理解していた。
かろうじて、彼に対して攻撃が放たれることだけは防げた。
しかし翼はより強い光を纏い、光線を何度も何度も周囲に解き放つ。
大講堂が白の聖女の魔力に覆われたとき、それは神性に満ちた原初の領域へと昇華する直前だった。
もう、彼にも逃げ場はないのだと、光が彼女に告げる。
そして変貌していく身体の様子も変わらない。やはりこれも止められないということを彼女は再確認して、腰に目を向けた。
白焉。
白の聖女の代名詞とも言える名剣に目を向けたとき、彼女は安堵した。
「よかった」
これで、彼を守れる。
身体はほとんど言うことを聞いてくれなかったが、たった一振りだ。胸を貫くだけでいいのなら、残された力でもどうにかできるはず。
振り向いたとき、彼と視線がぶつかった。
いまから彼女がしようとしていることに気付き、彼は短くも強く言い放った。
「駄目だ――――リシア様!」
彼の言葉はこんなにも愛おしいのに、魔石から届く言葉がどこまでも忌々しい。
だが、自害は許さない、と白の聖女の魔石が彼女に告げ、命じていた。命じる声が高まるにつれ、彼女が手にした白焉の威容が変わりゆく。
いつだったか本で見た、神剣にも似ているように見えた。
あまりにも強烈な光の波動が大講堂を駆け巡り、中を白銀がさらに侵食していく。
それらが終わったときにはきっと、白の聖女の肌も白磁に覆われ尽くしているだろう。そのときに、彼女の意思は残っているのだろうか。
彼女は、白焉をゆっくりと持ち上げた。
……レンを傷つけるなんて、絶対に許さない。
白焉の切っ先を自らの胸に突き立てた。
彼女の胸から、白銀の波動が勢いよく放たれる。大講堂内部を侵食しつつあった光は、徐々に光の粒へ変わり消えていく。
光を見上げたとき、その中に何かの影を見て勝ち誇った。
私の勝ち、と言いたげに。肌を染める白は、染め上げる速度を著しく落とした。
彼女はそれから一瞬だけ意識を手放すことになる。一瞬に凝縮された時間の中で、彼女は様々な景色を見た。
「あぁぁぁああああああああああああああ!」
遂に光が打ち破られ、レン・アシュトンがリシア・クラウゼルに駆け寄り抱き寄せた。
彼は涙を浮かべ、懸命に「リシア様!」と呼びかけた。
その姿を見て、リシア・クラウゼルは弱々しく微笑む。
ごめんなさい、そう口にしながら神聖魔法を行使すれば、彼の傷はまたたく間に消えていく。
ふらりと壇上に倒れていきながらも、
「治せて、よかった」
白の聖女は笑った。
「っ……俺はいいから、自分に使ってください!」
「ううん、もう大丈夫」
「大丈夫って……リシア、様……!」
「うん。もう意味ないから」
リシア・クラウゼルは安堵した。
どうにか自分のまま終われるらしい。自分が自分でなくなってしまわずに済むようだ。
だが、魔石を貫ききれておらず、白焉の切っ先は背中に到達していない。
魔石が命じてくる声は希薄になっていたが、肌を侵食する白は勢いを落としただけで止まってはいなかった。
なだらかに死を迎えるか、あるいは再び魔石が妙な力を放つことになるか。
「いまから急いで外に――――ッ!」
そんな時間はないから話したい。願うことはそれだけ。
リシアは最期のわがままとして、自らを終わらせる前にさっき見た素敵な世界のことをレンに話したかった。
あと少し、残された時間をすべてそのために。
「夢を見たの。私とレンがイェルククゥに攫われてね、レンが私の魔石からすごい魔剣を召喚してた」
リシアの首筋が白く染まりはじめていた。
いま、魔石が彼女を無理やり生かそうとしている。そうでなければ、もう言葉を交わすこともできず、息絶えているだろう。
「それから私たち、一緒に獅子聖庁に行ってた。レンが一足先に剣聖になっちゃって……」
首筋から、徐々に顔へと近づいている。
「それでね、私はあの子とずっと……」
レンも、もはやできることがないと知っていた。
「……思い出した。フィオナ様はね、イグナート侯爵のご令嬢なの。私たち、ずっとレンの隣を奪い合ってて……私、そんな時間も好きになるみたい」
レンの涙が、リシアの頬に。
こくりと頷いたレンを見て、リシアはうれしそうに微笑んだ。
「ただの夢、だったのかな」
「……いいえ。それは俺がリシア様を守ることのできた……俺が弱くなかった未来です」
「じゃあ、そこでまた私と逢ってくれる?」
「はい。絶対に」
その言葉を聞けて、リシアは満たされた。
「私の魔石、もう私のものじゃないみたい。身体も言うことを聞いてくれなくなっちゃってる。――――だから、ね。レン」
告げなければ。
彼女が、彼女であるうちに。
「私を、殺して」
その願いを、彼に。
でなければ自分が消えてしまう。レンを泣かせてしまったことが、リシアの心に痛みをもたらした。
「好きだから、泣かないで」
彼の頬に手を添え、彼女は言った。
「もう、絶対に敗けませんから」
「ええ。レンならきっと大丈夫」
もし、彼が弱くない世界が来たら、そのときは――――。
「────だから……約束」
彼女の手が、レンの手を白焉へと誘った。
「私、また絶対にあなたの傍に行く。それであなたに立ち合いを求めて、きっと何度だってあなたを困らせるわ」
彼の涙が、無理に笑う彼女の頬を再び濡らした。
「――――覚悟なさい、レン・アシュトン。これ、宣戦布告だから」
世界中の何よりも儚く、切なく、そして一途な宣戦布告。
「リシア・クラウゼルの気持ちに、そして、レン・アシュトンにね」
リシアの魔石は、二人が手を添えた白焉に貫かれる。
白の聖女を覆っていた白は消え去り、彼女もまた、世界から消えた。
間もなく、大講堂の扉が開かれた。
魔王教の司祭を斃したばかりの七人が足を運び、壇上の二人を視界に収める。彼らは学院での騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。
誰もが、事切れた白の聖女を抱いた少年を見て驚愕に顔を染め上げた。
七人の視線を気にせず――――レンは決めた。
彼女の身には誰一人として触れさせない。
レンにとってリシアの死を侮辱、あるいは冒涜することと同じだから、すべての発端である白の聖女の異変に関わるすべてを、誰にも話すつもりだってなかった。
だが、何にも勝るのはリシアを見殺しにしてしまったことへの自責の念。
弱かった自分を許せず、責めつづけ、
「見てわかるだろ? 俺はいま、彼女を殺したんだ」
彼は、声を響かせた。
◇ ◇ ◇ ◇
惨劇の中心にいた少年はその姿をくらます。
勇者の末裔であるヴェインたちはその足取りを追いながらも、暗躍する魔王教に対して攻勢を強めるべく、度重なる戦いに身を投じていた。
彼らがいくつかの探索を終え、戦い終えたある日。
いまでは廃墟と化した古びた町で。
「もう、いないみたいだな」
勇者ルインの末裔、ヴェインはその声を漏らした。
周囲には乾いた風が吹き、そこには煤や草木の香りが混じっていた。その風を横顔に受けながら、ヴェインはいままさに出てきたばかりの古びた家屋を振り向く。
周りにいる六人の仲間たちと顔を見合わせ、頷き合った。
「魔王教がいたってのも何日か前の話だろ。俺たちに嗅ぎ付けられたことに気づいて、もうどこかに行っちまったんだろうな」
「あたしも同感。ネム、特に魔王教の反応もないのよね?」
「ないねー。さっきからネムの魔道具で探ってみてるけど、うんともすんとも言わないや」
ため息をついたネム・アルティアの横から、魔女のローブを身に着けたリズレッド・アーケイが口にした。
「私も探ってみてますが、何の気配もありません」
魔道具の神とも呼ばれる存在の末裔と、偉大な魔法使いの末裔が揃って言うのだ。
本当に何の気配もないのだろう、と誰もがそう思いはじめていた。
ヴェインは改めて周囲を見回してみた。
石造りの家々はことごとく半壊しているか、ただの瓦礫になっている。何年も前に魔物の襲撃で町は消え去り、生き残った住民は他の都市へと移住しているという。
曇り空なこともあって、町全体が灰色に見えた。
七人はそこに佇んでいるだけで、辺りの物寂しさを感じていた。
「一応、もう少し探索していきましょうか」
シャーロット・ロフェリアが言えば、六人が頷いた。
その際、偉大な聖者の末裔、スコール・メルデーグはこの町で亡くなった民を悼んで目を伏せた。
一行は再び探索に戻り、町の奥へと歩を進めた。瓦礫などが転がるとても歩きにくい道をゆっくりと、来たときと変わらず何か異変がないだろうかと目を凝らした。
やがて七人の前に見えたのは、半壊した神殿だ。
正面玄関の上にはステンドグラスの残骸があった。大きく割れ、ほとんど元の姿は想像できなかったのが、やはり物寂しく見えてきてならない。
かろうじて残されていた木の両扉を開けて中に入れば、外に負けじと荒れ果てている。両扉を開けたときの音が内部に響き渡った。
その瞬間、前を歩いていたヴェインが人の気配を感じ取った。
「誰が――――」
驚愕した様子の表情を浮かべ、すぐさま身構える。
腰を深く落としたのだが、ヴェインは姿勢を正すと仲間たちの前を歩いて、古びた神殿の最奥へ近づいていく。
彼らが足音を響かせている間、最奥に立っていた少年は七人に背を向けていた。
――――レン・アシュトン。
彼が半壊した建物の上を見上げれば、さっきまでと違い青空が若干広がっていた。しかし、彼の目にはそれが曇って見えた。
「あれからずっと、変わらない」
レンが声に出して苦笑する。
空の色が、世界が、こんなにも灰色に見えるようになってから、もうどれほどの時間が経ったのだろうか。
呟きは空気に溶け、彼はヴェインたちに話しかけた。
「魔王教なら、もう一人もいない」
声を発して数秒、少年はようやくヴェインに顔を向けた。
「……レン」
どこか切なげな声音のヴェインが、様々な感情に駆られた様子でその声を絞り出した。
「ねぇ! レ――――」
つづいてセーラが声を上げ、惨劇のことを問いただそうとしていた。
しかしヴェインが手を上げて制し、自分に任せろと意思を示す。
「レン、聞きたいことが何個もあるんだ」
「ここにいた魔王教徒たちなら、俺が斃したよ」
レンはヴェインたちへ淡々とした声を返す。まるで、つづく質問へと聞く耳を持たないと言っているかのようだ。
「司教を追ってるのなら、――――に行ったほうがいい」
これまでも何度かあったのだが、レンは重要な手掛かりを言い残す。どうしてそれを教えてくれるのだろう……とか、気になることは数えるときりがない。
ヴェインが考えている間にも、レンはこの場を立ち去ろうとしていた。
しかし、
「待ってくれ、レン」
ヴェインたちがただ見送るようなことはない。
「わかってるはずだ。俺たちには、もっと話してほしいことがあるってことを」
聞きたいことは山ほどある。
いまではレオメル全土にその名を知られた大犯罪者、レン・アシュトン。白の聖女を、帝国士官学院の学院長を、二人の命を奪った少年が何を考えているのか。
いま、レンが何をしようとしているのかを、聞かずにいられるわけがない。
だから、ヴェインは立ちはだかる。
勇者の末裔として、そしてレン・アシュトンの友として。同じくレン・アシュトンと親交が深かったセーラもまた立ちはだかった。
「また、こうなるかもって思ってた」
足を止めたレンが彼らと視線を交錯させると、ヴェインが言った。
「そろそろ教えてくれ! どうしてあんなことをしたんだ!」
「答えなら、前と同じだ」
「っ……! レン!」
レンは崩れ落ちた天井のそのさらに上に広がる空を見て、息を一つ吐く。
それからヴェインたちを向き直り、力強い瞳を向けた。
「俺に話すことはない」
だが、素直に受け入れられるような状況ではない。
ここで見逃してしまうようなことは、友人としても決して受け入れられない。
「話してもらえないのなら、ここは通せない」
「悪いけどレン、ちゃんと話してもらうから」
ヴェインとセーラが、肩を並べて立ちはだかった。
七英雄の末裔たちがレンを見据える。
「道を開けてくれ。はじまったところで、戦いになんてならない」
そのレンが、短く息を吐いて皆に告げた。
七人。
七英雄の末裔のみで構成された彼らを前にしての言葉であっても、いまの言葉は傲慢であるとは言えない。
ヴェインたちは誓って引こうとせず、目を反らすことなくレンを見ていた。
「アシュトン、悪いが俺たちだって譲れないぜ」
カイトの言葉が、もはや戦いは避けられないものであると確定づけた。
ふと、天井から小さな瓦礫が落ちてくる。それが石畳に到達し、大きな音を立てた――――
そのとき。
七人と一人の姿が一瞬で消え、神殿の中に轟音が響き渡った。
土埃が晴れれば、そこにはレンの一振りを受け止めたカイトの姿がある。
「っ……相変わらずだな! アシュトン!」
剣と剣、剣と盾がぶつかり合う音が途絶えることなく鳴った。
そのどれもが響き渡った中で、カイトがかろうじてレンの姿を視認し――――強張った笑みを浮かべた。
「っ……おい! この前より疾いってのかよ!」
「カイト! 彼を侮るのはやめなさい!」
「わかってんだよ! けどな! それでもアシュトンが……!」
「だったら、私の炎で!」
リズレッド・アーケイの声が響き渡り、業火が両者の間に割って入った。
しかしレンの一振りが、瞬く間に魔法をただの魔力へと還す。
「あ……あんな、一瞬で……っ!?」
魔法が魔力へと雲散させられても、ヴェインとセーラという前衛は止まることなく前へ前へ身体を押し出した。
「リズの魔法があんな簡単に――――けど!」
「それだけじゃ、あたしたちだって諦められない!」
レンを挟むようにして攻めるのは、二人……だけではない。
時が訪れるのを待っていたシャーロット・ロフェリアが放つ矢が風を貫いた。
だが、以降も見せつけられるのは桁違いの差。横一閃の剣圧が例外なく七人を押しやり、舞い上がった土埃が視界を覆い尽した。
戦いは終わった。それとも、最初から戦いとは言えなかったのかもしれない。七人が容易に膝をつかされたという結末がそれを物語る。
「またいつか、会うことがあったら」
一言、それだけを残してレンは消えた。
◇ ◇ ◇ ◇
星謳う地クルシェラ。
レオメルにおいて、特に長い歴史を持つことで知られた都市だ。
その片隅に眠る神殿は、どのような神を祀っているのか現代に残されていない、文字通り名無しの神殿だった。
長い年月を経て開かれた扉。
足を踏み入れた者が向かうのは最奥に待つ、神の朧が残る空間。
一際大きな扉を開け放てば下へとつづく階段が現れ、レンは一人でその先へ進んでいく。
神の朧とは、神々の力そのものともいわれる希少な概念。世にも珍しい魔力である。ひとたび触れれば、抵抗力のない存在は瞬く間に浄化されてしまい、世界から消えてしまう。
それを一切恐れることなく近づくレンの眼前に、先客の姿があった。
「君は――――」
彼女はそう口にして、階段を下りてくるレンを振り向く。神の朧を吸収する大きな本を開き魔力を展開させかけた。
だが、彼女はレンの目を見た瞬間に戦意を失った。
彼の目を見ただけで生を諦めさせられたからだ。
「邪魔をしないでくれたらそれでいい。禁書の持ち手と戦いたくて来たわけじゃないんだ」
「――――そう」
マシェリアは言った。
「君みたいな化け物と戦わずに済むのなら、マシェリアも助かるよ」
「素直に引いてくれるのか」
「むしろ君のほうこそ、マシェリアを殺さないでいいのかな」
「まだ、魔王教にいたのならそうしたよ」
亡国の公女はまばたきを繰り返して「驚いた」と感情のままに言った。
「知っていたんだね、マシェリアのこと」
「少しだけだ。魔王教を抜けた理由までは知らない」
「はじめから抜ける予定だっただけだよ。マシェリアは司教と約束しただけ。それが終わったから去った。ほかに理由なんてない」
もっとも、彼らは王骸を得られなかったようだけれど。
マシェリアが確信めいた様子でそう呟いたのは、白の聖女の惨劇以来、教団が静かすぎたからだ。
「魔王教の刻印の気配がないのは、そのせいか」
「うん。正解」
記憶の禁書の持ち手として、魔王教の魔力が相反していたこともあるが、そうでなかったとしても彼女は刻印を施すことをしなかっただろう。魔王教とは知識欲を満たすためだけに行動を共にしていただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
「こうして君に出会えたから、やっと考えがまとまった」
「……考え?」
「そう。あの日、エルフェンの涙が様子を変え、白の聖女に作用した。何故あのときだったんだろうってずっと考えていたんだ。あれがただ、白の聖女とエルフェンの涙が共鳴しただけだとも思えなかった」
レンは何も言わず耳を傾けた。
「白の聖女が特別な感情を強く抱き、それを君に向けたときに運命が動いた。だけど、白の聖女という力に本来備わる役割がそれを許さず、エルフェンの涙の覚醒を招いた」
「――――違う」
「違わない。さらに魔王教という存在も相まって、白の聖女は魔石に宿る力を暴走させられた」
「違う。あのとき、俺が弱かったから選べなかった」
少し前にイヴが口にしていた言葉が自然と漏れ出した。
マシェリアにはわかった。
レンはリシア・クラウゼルという存在のすべてを守り、それ以上に自分を責めている。……だが、その感情だけが、彼をいまの立場に置きつづけているわけではないとも汲み取れた。
彼は、やがてあることを知り、何かを取り戻すことだけを追い求めている。それは誰にも話すことができず、大罪人と呼ばれることを受け入れているのだろう、と。
「マシェリアは真実が好きだ」
亡国の公女は自らの過去と、眼前の大罪人のいまを重ねてしまった。
「君のアリス因子があの惨劇をもたらした。白の聖女と君はどこにいようと逃れられず、必ず同じ結末を迎えただろう。マシェリアはそう確信している」
レンはその言葉に答えずにいた。
すると、マシェリアが話を変えた。
「教えてほしいな。マシェリアをただ見逃すことに思うことはない?」
「ないとは言わない。だけど、記憶の禁書の力を解き放たれたら、クルシェラに影響が出る」
「――――あはっ」
短く笑い、
「嘘つきだね、君は」
マシェリアはレンを横切った。
ここにある神の朧はもう、記憶の禁書が必要とするまで得られている。
もう完成度が増した禁書だ。いまのレンの記憶に残る力を読み取った瞬間、それはただ事では済まされない。
「マシェリアを敵とすら認識してくれていないんだ。言葉にしてくれないけれど、いつでも殺せるって言ってるみたい」
「禁書を面倒だと思ってることは本当だ」
「けど、それだけなんでしょ? 殺すつもりなら、マシェリアはもう死んでいるもの」
階段を上って行きながら、彼女は背中越しに話しかけた。彼女が手にした記憶の禁書が朝焼けのように静かな光を帯びていた。
「ねぇ化け物、君とはいつかまた会えるらしいよ」
「どうしてそう思う?」
「記憶の禁書が、そうなるかもってさ」
「……意味がわからない」
「その感情は理解できるよ。いまの言葉だって、君が欲しくなったマシェリアの願いでしかないかもしれない。もしかしたら、アリス因子の持ち主と会えて浮かれていたのかもね」
亡国の魔女は最後に笑いかけた。
「じゃあね、化け物。別のどこかで、また」
レンが最下層の広場に足を下ろすと、神の朧が不規則に揺らぎ、瞬き、彼が立つ広場に光る文字を浮かび上がらせた。
「遊戯の神、俺は試練を受けに来た」
『――――』
「受諾するか、拒絶するか。答えを」
レンは決して怯むこともせず、答えを待っていた。
神の朧が荒々しく揺れ動き、波打つ。まるで覚悟を問われているかのようだ。レンはそう感じとると、一度目を伏せる。
辺境の村で生まれ、クラウゼルで過ごし、運命の地にやってきた。いままでのすべてが脳裏に浮かび、いまこの瞬間に抱くに至った覚悟を改めて定める。
彼は、目を開けた。
周囲に存在する神の朧へと、
「俺は約束した。だから世界に抗うんだ」
神の朧は彼の思いを受け入れる。
最下層の中でまばゆい光へとその姿を変え、極彩色を纏ってレンの周囲に踊る。それこそが神の朧の真の姿だった。
レンは足元の感覚がひどく鈍くなりながらも、周囲の光に身を任せた。
光は、その存在を以てレンに告げた。
“アリスの泉へ。試練は――――”
神の朧は消え入り、いつしかレンはその身に何かを宿せたような感覚を覚えた。
周囲の光は元のように神の朧へと姿を変え、穏やかに揺蕩う。
次に行くべき場所、すべきことを定めたレンが広場に背を向け、階段に足をかけたとき。
『行ってらっしゃい。レン君』
ふと、吹いた風の音。
レンはそこに、誰かの声を耳にした。




