8章のエピローグ:レン・アシュトン[Ⅱ]
レンがミセルの試練を受けてから、間もなく。
祈りの町エレンディル。そこはレザード・クラウゼル男爵が預かる領地の一つであり、帝都にほど近い重要都市である。
少し前までその町にあった賑わいが、いまではなくなってしまっている。
朝、そして夕方に目抜き通りを歩いていた少年と少女の姿はもうない。二人の存在がこれほどまでにエレンディルに影響を与えていた事実は、決して大げさではなかった。
特に影響を受けていたのは、クラウゼル男爵邸だろう。その門前に、一人の給仕と商人の姿があった。
「いつもありがとうございます。あら、今日もすごく新鮮ですね」
給仕は笑みを浮かべてそう言ったが、先ほど、食材を届けたばかりの商人は彼女を案じて声をかけようとした。
けれど、彼女がそれを察して切なげな笑みを浮かべ、
「いけない! 仕事に戻らないと! では、またお願いいたします!」
明らかに誤魔化しているとわかるというのに、そう言って商人に背を向けた。
給仕が屋敷の中に戻り玄関ホールを歩いていたら、ヴァイスが声をかけてくる。
「ご当主様のご様子なのだが、今朝はどうだったろうか」
「……それでしたら、いつも通りです」
「……そうか」
とヴァイスは吐息のように声を落とした。
「執務室の窓からじっと外を眺めておいででした。最近は執務をなさっているとき以外はほとんどそうしていらっしゃるようで、お食事の量も減っています」
「……心配だな」
「それを仰いますと、ヴァイス様のご様子もですからね」
「お互い様だろう。皆も、私も」
「……ですがヴァイス様、レン様は……」
言い終える前に、ヴァイスが給仕の肩に手を置いて。
その老騎士はすれ違いざまに言った。
「人々の言葉などどうでもよい。自らの心と、共に過ごした時間を信じるのだ」
「……はい。それ以外のことは考えておりません」
「それでよい。さて、私も仕事だ」
給仕は玄関ホールでヴァイスと別れ、いつものように屋敷の仕事をした。掃除など、給仕がすべきことを数時間……昼になる頃まで務めた。
仕事をしていると余計なことを考えずに済む。
皆が同じ気持ちなのだろう。二人がいた頃よりも仕事ばかりしている姿が見られるようになった。
彼女は午後になると、リシアの部屋を訪ねた。
今日は風が気持ちいい。せっかくだから、リシアの部屋の窓を開けてあげてあげたくて足を運んだのだ。
「失礼いたします」
扉をノックしてから声をかけたが、返事はない。
だから……嫌いだ。リシアがもういないという事実を、これ以上ないほど告げられた気にさせられるから。
だが、ドアを開けたとき――――。
給仕はリシアの部屋から、穏やかな風が吹いてきたことを不思議に感じた。
窓が開いていたらこうなることも理解できるが、リシアの部屋の窓はいつも閉じている。もしも誰かが勝手に開けて、そのままにしていたのなら強く叱責しなければ。
それらのことを考えながら窓の傍へと向かったのだが……何かが、いつもと違っていた。
窓の傍にあるリシアの机の様子が、どこか変だ。
「お嬢――――様?」
いないはず。
それなのに、彼女が座っていたような気がした。
あり得ないし彼女の姿もなかったのだが、椅子が少し手前に引いてあった。
誰かが座っていたような、その名残のような。リシアが、レンが、二人がいた頃の空気があるような……。
ふと、柔らかな風が給仕の頬を撫でた。
「私、どうしてこんな……」
言い終える前に、彼女が机の端に見つけたもの。
手紙だ。
いままでなかったはずなのに、どうしてここに。
彼女は自身の胸が鼓動する音をこんなにも鮮明に聞いたことはなかった。震える指先。瞼に涙が浮かびはじめた。
やがて、手紙を手に取ったとき、
「っ――――!」
給仕はリシアの部屋を飛び出していた。
レザードは執務室にいなかった。
急な仕事のために屋敷を出たばかりで、いまから馬車に乗ろうとしていた。給仕は屋敷の車寄せにその姿を見て「ご当主様!」と声を上げた。
失意の中にあったレザードが、このときばかりは驚きに心を満たされた。
彼の傍に控えていたヴァイスも負けじと驚いていたが、給仕は気にせず言い放つ。
「ご当主様! これがリシア様のお部屋に!」
「落ち着いてくれ。リシアの部屋にいったい何が――――」
給仕が持ってきた品を見て、レザードが目を見開く。
「それ……は……」
彼が感情を大きく露わにするのはいつぶりだろう。
以前がいつなのかわからない日々がつづいていたが、屋敷に色が僅かに戻ろうとしていた。
風が全員の間を吹き抜けた。
穏やかで暖かく、抱き留めてくれるようなそれがまるでリシアのよう。
指先が思うように動かず、レザードはヴァイスの手を借りて手紙を取り出す。心を無理やり落ち着けながら開き……数秒。
レザードは笑った。
それは、レンとリシアがいなくなる前のような笑みだった。
「……連絡が遅いぞ、レン」
紛れもなくレンが書いた字だった。
繰り返しの謝罪と、近況などがいくつも認められている。
それらの文言を簡単に口にすることはできない。そこには様々な思いが複雑に絡み合っていたからこそ、レザードは自分の口から多くを語ることを避けた。
「少年からなのですか!? いったい何と書かれているのです!」
「ヴァイスたちも読むといい。……まったく、しかしこの様子ではいきなり帰ってきて、いきなり行ってしまったようだな」
「私たちの迷惑にならないように……ということかと。本当に、レン様らしいです」
「ああ。本当に」
レザードは手紙をヴァイスたちに手渡す前に、ある一文をもう一度読んだ。
『まだ、この剣とだけは一緒にいさせてほしいんです』
リシアの剣、白焉のこと。
返さなくてもいいと思った。リシアもそれを望んでいるはずだ。
思えばレンにはずっと息子のように接してきた。そのレンの気持ちと考えのすべてが伝わってきた。
それだけで――――世界が違って見えた。
◇ ◇ ◇ ◇
エレンディルを離れて、伝説の吟遊詩人ミューディの隠れ家がある森の中。
隠れ家がある広場で待っていたラグナたちの元にレンが戻ると、彼を見てすぐに老紳士が微笑を浮かべた。
「少し表情が変わりましたね」
老紳士の名をエドガー。ユリシス・イグナート侯爵に仕えていた剣士だ。
フィオナを失い、バルドル山脈で主君を失ってからは各地を旅していたが、レンと出会ってからは行動を共にしていた。
そのエドガーの声にレンが疑問を返す。
「俺がですか? 自分ではそんな感じはしないんですが」
「確かに違っておりますよ。そうですよね、ラグナ殿」
「かもな。朝より幾分か柔らかくなったように見える」
レンは笑みを浮かべた。
自分がどんな表情を浮かべているのかはわからないけれど、心の内に宿る感情はどれもそう悪くない。
「――――はい。それならよかったです」
広場に舞い降りた陽光すら、いつもより輝いて見えた。レンは久しぶりに、この世界に彩を感じつつあった。
やがて、降り注ぐ光の中心へと歩を進めたレン。
彼の気配を感じ取り、
「レン」
短く。
レンが進む先に立っていた女性が、振り向くことなく声を発した。
どこまでも澄みきったその声の主は、剣王序列第五位。
「もう、いいのですか?」
白龍姫、ルトレーシェ。
穢けがれなき銀髪が軽やかに揺れ、深く透き通った双眸が美しい。神秘的な美貌を湛えた、高貴な姫君のような女性だった。
彼女は振り向きざまに銀の長髪をふわりと広げ、レンを見た。
「ああ。伝えたいことは全部伝えてきたから」
「本当に?」
「本当だよ。だからまた剣を磨いて先を目指さないと。いままでみたいに、ルトレーシェに教わりながらね」
「私を超える日は、もう間もなくだと思いますが」
「あはは……本当にそうなれたらいいけどね」
「……どうやら、真に受けてくれる気はなさそうですね」
本心を語ったつもりのルトレーシェ。
彼女の目の前で晴れやかな表情を浮かべたレンだったが、彼はまだ不安定に見えた。
どうかお忘れなく、と彼女は前置きをして言った。
「私は貴方の剣だ。たとえこの身が朽ち果てようとも、貴方に届くすべてをねじ伏せます」
ルトレーシェはそれだけをレンに告げ、歩きはじめた。
彼女の言葉にレンは心の中で深く感謝を告げ、ラグナとエドガーへと視線を向けてから歩きだす。
もう、行かないと。
ゆっくりしていたら、再び過去の思い出に浸りそうになってしまうから。
――――歩きだしてすぐ、レンは空から降りる陽光の眩しさに思わず足を止めた。
手を伸ばし空を掴もうと指を広げているうちに、歌うように声が溢れ出る。その手に白の聖女の手が重なって見えたのは、きっと勘違いじゃない。
空を白い鳥の群れが飛び去れば、白銀の羽がひとつ舞った。
「―――今日って、こんなに綺麗な空だったんだ」
彼の傍で、白焉は揺らぐ。
白の聖女がそうであったように、彼に寄り添うかのように。
8章も最後までご覧いただきありがとうございました!
また、少しお知らせを……。
■原作8巻、11月17日発売
■コミックス9巻、10月23日発売
来月発売の原作8巻では、数万文字の加筆と改稿を重ねております。ぜひぜひお手に取っていただけましたら嬉しいです!
また近日中に、SSの更新と次章についてもお知らせに参ります!
これからのレンたちの物語も、どうか見守っていただけましたら幸いです!
改めまして、8章もご覧いただきありがとうございました!




