リシア・クラウゼル[Ⅰ]
光の霧が周囲を包む中、レンはリシアを抱き留めていた。
光は二人がいる周辺にばかり漂っていた。光から逃れようと歩きだしたレンを驚愕させたのは、歩けば歩くほど周囲の景色が遠ざかっていくという不可思議だ。
帝都の人たちはどうなったのだろうという疑問への答えは、見える光景そのものが教えてくれる。
ローゼス・カイタスに迷い込んだときのように周囲に人の気配は一切なく、見慣れた景色に光だけが漂う。
再びあのときのように、この世界にいるのは二人だけ。
「……この光のせいで、俺たちだけが隔絶された?」
リシアを抱き寄せたまま、レンは迷うことなくミスリルの魔剣を召喚してみせる。光に向けて一薙ぎすれば、それらは微かに光量を落とした。
道は開けたように思えたが、押し寄せる光の霧が再び輝いた。
再びミスリルの魔剣を振って光を斬り伏せてみるも、やがて同じように変わった。
「どう――――して」
レンが声を落としながら言い、すぐにリシアの手元を見て歯を食いしばる。
彼の胸はまるで自分のものではないかのように大きな鼓動を繰り返していた。極度の緊張と驚きに苛まれながら、短い呼吸を二度、三度と重ねた。
リシアの肌を染める白磁は、最初に見たときより少しだけ広がっていた。
ローゼス・カイタスで見た天使化の際にはなかった現象だが、これを別物と捉えることはレンにはできない。
あのときと似た魔力の波動を、レンは確かに感じ取っていた。
彼の腕の中ではリシアが短い呼吸を繰り返し、汗を浮かべる。
「っ……レ、ン」
離れたくなくて、レンの胸倉にしがみつく。
懸命で、痛々しい。
それがレンの胸に際限なく痛切な何かをもたらしてくる。
レンはリシアと視線を絡ませることにだけ意識を注ぎ、リシアは彼の熱を求めた。
「……おね、がい。もっと……私を――――」
「――――絶対に、離しませんから」
「なん……で……私……っ」
レンはより強くリシアを抱き寄せた。
彼女の肌の白が広がるにつれて、光の霧も濃さを増しているようだ。
そのときレンの脳裏をひどく冷たい感覚が通り過ぎると、彼はもう一度ミスリルの魔剣を振り、僅かに道を切り開く。
「俺だけを見ていてください、リシア」
辛いせいか声は出ず、リシアはこくりと小さく頷くだけ。
レンはリシアを胸の前に抱きなおし、勢いよく駆けだした。
光を斬り開けた先に見たのは、奇しくも二人が向かっていた帝国士官学院へつづく道だ。
だが、悪くなかった。
学院へ向かえば人がいるかもしれない。それに学院は帝都の中でも特に強力な魔道具が配備され、万が一には生徒を守れるように造られている。
光が恐れるべきものであれば、どちらにせよ避けて進まなければならないのだ。
不思議なことに、走りはじめてすぐにレンの呼吸が乱れだした。
……わからない。こんな短い距離なのに!
……剛剣使いを相手にしてるときより、ずっと消耗してる……!
それも光によるものだと、レンはすぐに悟った。
まるでレンそのものを浄化せしめんとしているような、触れれば触れるだけ彼の力がかき消されていく光だった。
足が重すぎるが、レンは決して止まらず走った。
人の気配を一切感じないその道を、リシアのことだけを考えて駆け抜ける。
こうしていると、村を襲ったイェルククゥが乗る馬車から逃れ、彼の馬を奪ってはじまった逃避行を思い出させられる。
駆けていきながらも、不意にレンは、腕に備えた魔剣召喚術の腕輪が微かに光を吸収する光景を見た。
リシアの身体から光を吸っているように見え、つい数秒にわたり見つめてしまった。
「……少し……胸の、中が……」
すると、リシアの呼吸が微かに落ち着きを取り戻し、さらにはレンの胸に埋めていた顔を上げ、瞳を彼に向けてみせる。
頬は涙で濡れ、苦しげな様子はいまもそのままだ。それでもさっきよりは楽になったのか、リシアの声は掠れていながらも先ほどよりはっきりしていた。
「少し、落ち着いたんですか?」
「……ええ。胸の中……ううん。魔石が少しだけ……」
「いま、俺の腕輪がリシアから光を吸い取ってたんです」
「だから……なの、かしら」
レンはイェルククゥを倒した光の魔剣の姿を想起した。
あのとき倒れた際、リシアの胸元から得た力で一度だけ顕現したあれが、どうしてなのか鮮明に思い浮かぶ。
リシアも同じだったのか、彼らは視線を交わすだけで意識もまた交わし合った。
……でも、意識しても魔力を吸えない。
……何かが、俺の力を拒絶してるみたいだ。
リシアの魔石に宿る、何かが。
正体はわからず現状維持でしかなかったが、腕輪はそれからも少しずつ光を吸い込んだ。徐々にリシアの呼吸がより落ち着きはじめ、胸が奏でる不規則な拍動も音を潜ませる。
「……白い魔力が、帝都の外から流れてきてるみたい」
レンにはよくわからなかったが、リシアに瞳を向けて耳を傾けた。
「少しずつ消えてきてる……でも、変……なの」
「ど、どういうことですか? 白い魔力が少しずつって……!」
「っ……わからない! だけど、ずっと私に声をかけてきて……っ」
リシアの肌に広がりつつある白と、意識を蝕む何か。
紛れもない天使化の兆候を目の当たりにしながら、レンはリシアの言葉を何度も頭の中で反芻した。
周囲の様子とリシアの天使化。
帝都の中でこれほどの異変が生じたことなど、七英雄の伝説でもなかった。
この時期に何かがあるのだろうか。聖骸現象があって、立太子の儀も近いこの時期でないといけない何かが。
ちぐはぐな情報ばかりだが、どこかに届きそうだった。
「なんで……こんな……っ」
レンに聞こえないくらいの呟きが、リシアの口から漏れた。
手元の白く染まりつつある肌を見て見ぬふりなどできない。いまのいままで苦しさもあったせいで注視できなかったが、落ち着いてからは嫌でも意識させられる。
悲哀を極める彼女をレンの熱が支えた。
彼を好きという気持ちを再確認するたびに魔石が強烈に痛む。彼を拒絶しろと命令されているようで、リシアにはそれがどうしてなのかわからなかった。
さらに何かを許すなと告げるような、強い敵意にも近い感情もどこからともなくリシアを襲っていた。
光の霧の中、帝国士官学院まで近づいていた。
その先は見えなかったけれど、学院に着けば――――と、レンが思ったとき。
りぃん、りぃん────
鈴の音色が鳴り響いた。
ローゼス・カイタスで聞いたときと同じ音だったけれど、これほど大きく、また鮮明に響いていたことなどない。
レンとリシアが疑問を覚えると同時に……。
光の霧の奥――――レンが駆ける先に、その男はいた。
「やはり、彼女だったのか」
霧に囲まれていたせいで、男の全貌は窺えない。いくら目を凝らそうとも、光る霧が視界を遮る。
声から男であるということはわかるが、それだけだ。
……いまの声。
どこかで聞いたことがあるように感じたのだが、それがどこなのかをレンは思い出せなかった。
「聖域の最深部を模倣するほどとは。道理で人がいないようだが、傍にいる彼はどうしてここに入れたんだ」
男はレンがよくわからない言葉を口にし、手を前方にかざした。
光に囲まれた彼の輪郭。
彼が手にしていたネックレスらしきものを握りしめて砕けば……まばゆい魔力が爆裂。
衝撃波がレンへ押し寄せ彼を吹き飛ばしかけたが、リシアがどうにか手をかざし、神聖魔法で寄せ付けなかった。
リシアはするりとレンの腕を抜けて自分の足で立ち、彼と肩を並べて彼我の敵を目視した。まだ呼吸は落ち着かず足元も頼りなかったが、レンの腕輪が少しずつ魔力を吸収した影響で、自分の足で動けるくらいには持ち直せた。
レンが彼女を庇おうとしたが、彼女はそれを拒む。
「守られるだけなんて、絶対にイヤだから」
胸の奥にある白の聖女の魔石も、止まることなく痛みを発してくる。
だけど、もうあのときとは……イェルククゥのときとは違う。レンに短剣を借りて戦ったときと違い、彼女は腰に携えていた白焉を抜き去った。
リシアの手元に残る白が視界に入るたび、レンは心をざわつかせた。
彼の心配を感じ取りながら、リシアは光の先に立つ男を見据え、
「さっきの、聖遺物だったわ」
確信した声をレンに届けた。
相手から目をそらすことなく眉根を寄せたレンは、「どうして聖遺物が」と呟き、リシアにまったく同じ感想を抱かせた。
対する男が、リシアの様子を見て迷いなく口走る。
「理解できた。白の聖女がこの日を導いていたということを」
男はリシアを見て、腑に落ちた様子で淡々と口にしたのである。
「何を言ってるの? それに貴方……誰?」
男はその言葉にすら答えず、自らの言葉だけを二人に届けた。
会話をするつもりなどはじめからなかったのだろう。話をしているようで、男はただ心の内を吐露しているにすぎない。
「君と、隣の彼」
男の姿が消えた。
と思うと、今度は二人の背後で声がした。
声は二人の胸に迫る光の刃を伴った。
それは男の面前に召喚され、答えを聞く間もなく弾丸のように二人に放たれる。
「どちらが、マシェリアと戦ったのだろう」
魔王教。
男の言葉と漂わせる魔力が、そう告げていた。
レンとリシアは瞬時に距離を取りながら剣を手にし、迫る刃を斬る。それにより雲散した魔力が紫電に変異し、さらに二人を襲う。
だが、星殺ぎがそれすらも瞬く間にかき消した。
再びのまばゆさのせいで、男の顔はやはり見えなかった。
「答えないくせに、自分は質問するのね!」
「答える理由がないからだ。しかし呼吸も落ち着かず、体内の魔力を制御しきれていない。にもかかわらず凛とした姿は、やはり白の聖女だからなのか」
冷静に見定めたその男が光の霧の先で言うと、レンは疑問を隠さず口にした。
「わからないな。魔王教は帝都に入れないはずなのに」
この光と彼らが無関係なはずがない。
魔王教は以前からレオメルばかりを標的にしていたが、何故このときなのか。
狙いは何なのかと疑問は深まるが、求めるべきは答えではない。レンにとって一番の気がかりはリシアのことで、澱のような焦燥感が胸の内に蠢きつづける。
「すぐに立ち去るとも。白の聖女さえいなくなってくれたら」
リシアには死を願われる謂われなどない。
「どうやって帝都に入ったのかは知らないけど、ここに来たのは仲間の敵討ち? それで私を狙っているのかしら」
敵討ち。
男が反応を示したのはその言葉だ。
「どうしてそんな理由で戦に来る必要がある?」
「……え? だって、貴方たちは仲間なんじゃ……」
「旅路を共にしていただけだろう。それがどうして、敵を討つということになる」
彼はまるで、
「何か特別な存在なのかと思っていたが、白の聖女も実態はただのヒトということか」
自問自答のように口にする。
「一緒にいたからといって敵に対して悪感情を抱き、その相手を見つけて命を奪う。そんなのはいままでに考えたこともない」
男がリシアの感情を評価した。
「無駄でしかない。もういない者のために命を賭して戦っても、得られるものは何もないというのに」
「……マシェリアは仲間だったんじゃないの?」
「仲間だった。しかし、もういない」
恨んでもいなく、悲しんでもいなく、悔しくもない。
男はヒトが持ち合わせる感覚への理解に乏しいどころか、そのはじまりすら理解ができないのだと暗に言った。
「大切な者が斃れれば悲しみ、家族を殺されれば怒りに駆られる。他者のために命を賭してまで、敵には刃のように感情を突き付ける」
実際、彼はマシェリアと戦ったレンとリシアに対して、怒りなどを微塵も向けていない。
「どれも、理解できない価値観だ」
彼はあくまで、彼の考えのみに基づいて白の聖女の命を奪おうとしていた。
「感情に支配され、感情に突き動かされる。不思議だよ、ヒトは」
男は懐から再び聖遺物らしき何かを取り出すと、それをもう一度砕いた。
今度は先ほどよりずっと激しい魔力が爆ぜ、二人を襲う。
「くっ!?」
リシアを庇うため立ちふさがったレンがミスリルの魔剣で受け止めるが、それでも彼を押しのけるほどの破壊力。
「レンだけじゃない……! 私だってここに――――」
リシアに支えられ、彼女の神聖魔法による強化も受けながらだったが、再び彼女に異変が。
「っ……」
聖遺物の魔力を浴びたとき、リシアは魔石が発したいままで以上の痛みで膝をつきかけた。
「リシ――――っ」
「大丈、夫……前を見てて!」
それでも懸命に、まっすぐに。
「……こんな、の!」
白の聖女は、剣聖としての一振りを放った。
光り輝く波動が空に謳う様子はさながらダイヤモンドダスト。美しい輝きを目の当たりにして、男は眉を揺らした。




