音色は告げる。
原作、コミックスの最新刊が予約受付中です!
■原作8巻 11月17日発売
■コミックス9巻 10月23日発売
書籍版もどうぞよろしくお願いいたします……!
早朝の帝都。
薄明が地平線の彼方から夜を溶かしはじめた頃、第三皇子がミレイを伴って帝立図書館を訪ねた。
事前に連絡を受けていたとあって館長も準備はできていた。館長に裏口で迎えられたラディウスはすぐさま図書館に入り、普段は歩くことのない回廊を進む。
「この先だったか」
「はっ。以前、第三皇子殿下がこの回廊を進まれたのは確か……」
「しばらく前に一度だけだ。それも、父の供をして扉の前までだけ。当時、私にはこの先にある書庫に足を踏み入れる権利がなかったが故だった」
その回廊には、窓すら一つもない。
「私ですら年に数度の管理で足を運ぶ程度でございますよ、殿下」
壁や床、天井のどこを見ても魔道具がある様子はない。しかし、この空間そのものが魔道具であり、常軌を逸するほど高度な術式が数多く敷かれていた。
一つ一つの魔道具が、ここを歩く者のすべてを見透かさんと動作する。
それらを破ることは不可能だ。
魔道具の神、ミリム・アルティア本人か、大霊廟や城の防衛装置を打ち破れるほどの力の存在がいなくては太刀打ちもできない。
最奥。
高さ十数メイルほどもある巨大な扉。
両開きのそれに施された、複雑で精巧な文様を見つめたラディウス。彼は注意深く目を細め、館長に声をかける。
「開けてくれ」
開錠するためには、いくつもの複雑な手順が待つ。
ミレイは隣に立つラディウスが扉の先、禁書庫に意識を向ける姿をその目に焼き付けた。
淡い光に照らされた螺旋階段が地下につづく。
中央には直径三十メイルほどもある円筒状の吹き抜けがあって、沿うように作られた階段も相まって壮大な地下空間が広がっていた。
同行していたミレイにとってもはじめての景色だが、彼女は気を奪われすぎることもなく、ラディウスの背に声をかけた。
「私はここで待ってますニャ、殿下」
「ああ。なるべく早く戻る」
一段、足を下ろす。
ラディウスはいま、生まれてはじめて禁書庫へと足を踏み入れた。
――――時間は過ぎ、昼に近づいていた頃。
帰城したラディウスが向かったのは自室ではなく、城にある書庫のうちの一つだった。
足を踏み入れると、そこに置かれたソファに横になった男の姿があった。
鞄の旅人ラグナ。
純粋な人間より長い寿命を誇るシェルガド人の血を引く男で、小柄ながらその身に特筆すべき英知を宿す。
彼はラディウスが来ると身体を起こし、足を組んで座りなおした。
「相変わらずの姿だな、旅人気取り」
「気取ってなどいない。純然たる事実だ」
軽口を交え、ラディウスが窓の前に立ってラグナに背を向けた。
「朝早くから城を出ていたと聞いたが、どこに行っていたのか想像はできている。どうせ禁書庫だろう? 立太子の儀はまだだが、帝国法においてはすでに皇太子の身だしな」
ここは二人が教師と生徒になった場所だった。
ラディウスが待ち合わせの場所にここを選んだのもきっと何かの縁だろう。彼自身、根底にその自覚がある。
「今日は最後まで話す。何があってもだ」
「俺もそのつもりで来ている。俺たちだけで答え合わせをするためにな。……ただまぁ、皇帝も何か調べているようだが。レン個人についてか、アシュトン家についてなのかはわからないが」
「知っている。それを私にも隠しているということもな」
「それもあって、禁書庫か」
ラディウスが振り向き、ラグナを見た。
二人の視線が交錯したとき、エウペハイムでのつづきがはじまる。
「何を見つけ出した、ラグナ」
「答える前に聞かせてくれ」
「っ――――ラグナ! この期に及んではぐらかすなど!」
「はぐらかしてなどいない。俺はいま、お前の覚悟を問うている」
ラグナは過去、何度かいまのような眼をラディウスに向けたことがある。
彼らがはじめて会ったときにもそうだった。ラディウスがどれほど物事に対して本気なのかと問いかけてくるとき、ラグナはいつも心の奥底を見透かそうとしてくる。
しかし、この日はさらに力強い眼をしていた。
もし仮に、鞄の旅人が納得する答えを口にできなかったら……。
「答えられないか」
「いいや、答えられるさ」
「なら言ってみろ。俺から目をそらすことなくな」
ラディウスは迷うことなく、力強く言った。
「もう一度言う。何を見つけ出したのか、いまここで聞かせてもらう」
ラグナは見定めた。元教え子がどれほど強い気持ちを持っているのかを、いまの言葉が誠であるのかどうかを。
そのどれもが正しく、強く、どこまでも本気であると確信できたところで、ラグナは言った。
「セシル・アシュトンと思しき存在の影を追いつづけた。レオメル各地においてもそれらしい存在が確認され、口伝も聞けた。あるところには感謝を綴った石碑もあった」
しかし、それだけでセシル・アシュトンと断定はできなかった。
石碑や口伝に名前が残されていればよかったのだが、それすらもなかったのだ。
「口伝や石碑に残されていた僅かな情報を参考に、セシル・アシュトンが足を運んだと思われる地の古い文献も馬鹿みたいに読み漁った」
「知っている。先日私が帝立図書館に足を運んだところ、関連しているであろう古い資料の多くが貸し出されていたことも聞けた。道理であれだけの書物を借りていたのだな」
「なんだ、館長も口が軽いな」
「館長の名誉のために言っておくが、特記事項付きという以上のことは聞けていない。私自身、皇族の強権を用いて尋ねてもいないと誓える」
「ならいいが。よく俺が気にしたのと同じ地方に目を向けられたな」
「……私が気づけたのは、ラグナにしばらく遅れてのことだ」
ラグナは自身の足を使って各地を巡ってみたこともあるが、ラディウスは膨大な量の書物や古い手紙など、関係していそうなものは例外なく目を通していた。
「だとしてもだ。元先生として誇らしい」
元先生、という言葉を強調したラグナがつづける。
「セシル・アシュトンに関する話が残る地には、多くの場合で類似点がある」
「――――魔王の軍勢に襲撃された地か」
「ああ。当時、いくらでも存在したうちのいくつかだった」
大抵の場合復興を遂げているものの、長い年月を経て地図から消えた辺境も少なくない。
だが、襲撃を受けた地域の被害は軽微であったと記録にある。
「ただ、レオメルの軍だけが魔王の軍勢を相手にしたわけではなかった」
軍が派遣されておらず戦力が足りていなかった地でも、魔王軍による被害は軽微だった。
「セシル・アシュトンとは別で、魔王の軍勢の動きを先読みしていた者がいる。軍を動かせる権限を持つ人物だ」
「ラグナも知っているだろうが、そうした人物の記録はなかった。記録が残されていない――――いいや、意図的に削除されていたようだった」
「だが、すべてではない」
ラディウスもその可能性を考えたことがあったから驚きはないが、胸は大きく鼓動した。
「唯一の記録はミューディの隠れ家にあった。ある人物がレオメルのため、セシル・アシュトンに協力を仰いだという話が書かれた手紙が残されていた。その手紙は、とても珍しい場所から送られてきていたようだ」
「それが――――ジェノ院」
「ああ。レンが俺の地図を持って出向き、扉を開けたあの場所だ」
ラグナがレンを連れてミューディの隠れ家に足を踏み入れた日、彼が何より気にして手に取った木箱がある確信へと導いた。
「セシル・アシュトンの手紙を思えば、ジェノ院長と蝕み姫のこともこれではっきりしたと言える。彼らの繋がりは誠のものだ」
木箱に隠されていたのは、それらの門外不出の手紙など。
かの吟遊詩人ミューディをも介して、それらのやり取りがあった。
セシル・アシュトンがそうだったように、徹底して一連の動きの多くは意図的に歴史から消されていた。
これにより、ジェノ院長がそれだけのことを為せる人物であったことが証明づけられる。また彼が、軍を動かすことを許された人物であったこともそう。
ジェノ院長の素性すべてがわかったわけではないが、
「蝕み姫が幽閉されていた理由も、他に隠されていた手紙で確証を得られた」
ラグナが真相へ近づく。
「彼女は生まれ持った力を制御できず、あげくの果てには底なし沼の如く毒をまき散らし、自分以外の多くを蝕んだ。例の、御伽噺にあった通りに」
「それで、一族からいない者として扱われたのか?」
「もしかしたら、当時存在した魔王も関係していたのかもしれないがな」
仮に魔王に呪われた子であると吹聴されでもすれば、たとえ事実に反していたとしても影響が大きかっただろう。
もちろんそんなのは、ラディウスも以前考えたことがあったのだが。
「しかし、蝕み姫が普通の少女として生きられなかったのは魔王のせいなんかじゃない」
それからもラグナは淡々と。
「彼女は、偉大な先祖の力を色濃く受け継ぎすぎてしまっていた」
普通の少女として生きられるようになったとき、彼女は真の意味で家名を捨てたのだろう。
消された歴史の中の存在でありながら、誰より偉大な先祖の血を色濃く受け継ぎすぎてしまった少女、蝕み姫。
彼女が普通の少女になれた日は、七英雄の時代に訪れた。
◇ ◇ ◇ ◇
時刻はしばらく遡り、朝を迎えたエレンディルを涼やかな風が撫でていた。
レンとリシアにとって十五回目の夏がもうすぐ過ぎ去ろうとしていたその日、屋敷の執務室ではレザード・クラウゼル子爵がペンを置いた。
クラウゼル家の証の封を施し終えると、彼は傍に控える騎士のヴァイスに話しかけた。
「気が付けば、随分と遠いところに来てしまったな」
「おや。どうなさったのですか、急に」
「昔を思い返していた。まだリシアがアシュトン家の村に通っていた頃にも、こうしてイグナート侯爵とやり取りをしていただろう」
当時はシーフウルフェンの素材の取引に関してやり取りを重ねた。いまでは別の仕事のことで連絡を取り合い、その仕事も少しだけ落ち着こうとしている。
レザードが認めた手紙の横には、一冊の本としてまとめられた資料がある。
表題には『クラウゼルへの魔導船関連施設の建造に関して』と記載があった。
「そちらの件、お心が決まったのですか?」
「ああ。クラウゼルに魔導船乗り場を建てる」
昔、レザードは魔導船乗り場の管理や維持に関わる費用や仕事量の多さから、それは安易に決めるべきではないと強く言っていた。
しかし、空中庭園があるエレンディルを預かるうちに機運が高まり、財力も比例して高まったいまはその覚悟を持つことができている。
「なんと感慨深い。クラウゼルが遂にそれほどの都市に」
「そうだな。数年前には想像することすらなかったというのに」
レザードがふぅ、と息を吐きながら笑った。
「レンにも、改めて礼をしなくては」
クラウゼル家の隆盛にはレンの存在が限りなく大きい。
彼がもたらした影響はもうずっと前から無視できないほどで、昨今ではレン個人に対して興味を抱く貴族も決して少なくなかった。
「少年ならそろそろ来ると思いますが」
「休みの日にまで私の仕事に付き合わせてしまうんだ。私も見送りに行かなければな」
「では、私もご一緒に」
窓から入る陽光が、この日はいつになく晴れやかだった。
同じ頃、リシアは私室で身支度を終え、鏡の前を離れたばかりだった。
学院は休みだったのだが、それでも制服に身を包みボタンを留めた。
クラウゼル家の仕事を手伝う際には、学生らしく正装として着るときが度々ある。今日はさらに大切なこともあるから、制服でなければならなかったのだ。
リシアは銀の髪をふわりと揺らして、凛と可憐な振る舞いのままに部屋を出る。
ちょうど近くを歩いていた給仕が彼女を見かけ、二人は朝の挨拶を交わした。
「おはよ。昨日も話したけど、今日は帝都に行ってくるから!」
「はい。ご当主様の名代とのこと、どうかお気を付けて行ってらっしゃいませ」
「大丈夫よ。別に帝都なんて何度も――――」
ふと、リシアの視界に異変が訪れた。
視界が揺れたように感じたのは一瞬で、しかし耳鳴りを覚えた。
どこかで、
りぃん、りぃん────
鈴の音が鳴っていた。
以前、聞いたことのある音色。
以前、彼女と彼を導いた音色。
けれど耳鳴りのせいでリシアは聞き取れなかったし、そもそも給仕には一切聞こえていない。
その間、リシアはまばたきを何度か繰り返すだけで何も言わなかった。
「……お嬢様? どうかなさいましたか?」
「ううん、何でもない。寝起きに張りきって準備しちゃったから、目眩がしたのかも」
「はぁ……レン様もご一緒ですからって、昨日はあまり寝られていないとかではございませんよね?」
「べ、別に少しくらいいいじゃない! ダメなの!?」
つんとそっぽを向いたリシアに給仕はくすりと笑い、少女の横顔を見る。
「本日もとても可愛らしいですよ、お嬢様」
「……ありがと。勇気出た」
それじゃあね、と。
照れくささから解放されたリシアがその場を離れた。
軽い足取りで歩いていくと、彼女は窓の外に顔を向ける。
「今日って、こんなに綺麗な空だったのね」
天球を覆いつくした紺碧に声を。
まばゆい陽光に目を細めながら手で目元を覆ったとき、彼女の指先が瞬きの間だけ微かに白に染まっていた。
その刹那に触れる瞳は、一つもない。
◇ ◇ ◇ ◇
リオハルド英爵邸は帝都でも有数の大豪邸である。
レンがこれまで見た中で最もその規模に気を取られたのは、エウペハイムにあるイグナート侯爵邸だろうか。
リオハルド英爵邸はユリシスの屋敷には劣るも、小城ともいうべき壮大さを誇っていた。
この日、レザードの名代として足を運んだリシアの供を務めていたレンだったが、いまはもう屋敷を出て、門へ向かう途中の庭園を歩きながら話している。
彼の傍にはリシアとセーラの姿があった。
「――――っていう感じだから、あたしたちも頑張ってるとこ」
セーラが話していたのは、やはり魔王教を相手にした事柄だった。
もしレンが知る通りの出来事が訪れるとすれば、セーラたちはもうすぐ魔王教の司祭を相手に戦うはず。
立太子の儀が行われる日に、場所は帝都近郊で。
七英雄の伝説Ⅱにおける大きな事件の一つと、時期を同じくしてだ。
……俺が知る通りなら……っていうのは、何年も前からいまさらだけど。
いくつもの死闘を乗り越えるたびに物語は変わった。
けれど、それは乗り越えてきた証でもある。
レンが誰かを守れたことによる物語の変化は肯定すべきだろう。
変化が生じる中でも、レンはできる限りを尽くして情報の共有や先回りをしてきた。それでも対応できないことはどうしても生じてしまうのだが、だからといって何もしないわけにはいかない。
「今日もこれからみんなで集まってギルドに行ったり、帝都の外で話を聞いてくるつもり。国の調査も大事だけど、七大英爵家も協力しなくちゃ」
言い終えたセーラがリシアとレンの顔を交互に見た。
「ごめんなさい。こんなことより言わないといけないことがあったわね」
「言わないといけないことって?」
「お祝いよ。おめでと、これでリシアの故郷にも行きやすくなるわね」
クラウゼルに魔導船乗り場を建造する件には、イグナート家に限らずリオハルド英爵家も関わりがあった。
派閥の違う三家が顔を揃えれば、余計な口出しをする者も声を潜ませよう。
「ありがと。でも、開通するのって私たちが卒業してからよ?」
「簡単なのだったらすぐ行き来できるでしょ? ローゼス・カイタスのときに造った簡単な乗り場とかもそうだったじゃない。あとは特別な資材も運ばないといけないだろうし」
「それも早くて来年みたい。手続きとかもあるから」
「あー……ああいうのって時間かかるものね……」
「ふふっ。それもだけど、この話が決まったのも最近だもの」
気が早いセーラにリシアが笑みを交えて告げる。
リシアはレンに穏やかな眼差しを向けてから、再びセーラに顔を向けた。
「だけどレンってば、クラウゼルで直接できる仕事もあるから久しぶりに帰ろう、って言ってて」
「いいんじゃない? 前に帰ろうとしたときは途中でやめちゃったんだし。確か、エウペハイムに巨神の使いが現れたときだったかしら」
「それで合ってるけど、セーラが領地に帰るときとは事情が違うんだってば」
クラウゼルに向かう魔導船の直行便がないことが何より大きい。
レンとリシアはエレンディルに引っ越してくるまで、毎回、魔導船乗り場がある別の領地の町まで馬で向かっていたのだ。
「そっか、魔導船以外の移動で時間がかかるんだもんね」
「ええ。だいたい片道十日くらいかしら」
さらに魔導船に乗ってからもエレンディルに到着するまでほぼ丸一日を要する。往復で二十日と少々を要するため、クラウゼルに一日滞在するだけでもおよそひと月の旅だったのだ。
「レンもずっと村に帰ってないわよね?」
「そうですね、もう四年くらいになると思います」
前に帰ったのは、エレンディルに引っ越す前にまで遡る。
考えてみるとそれなりの年月だ。手紙のやり取りは毎月のようにしているが、いま、村はどうなっているのだろう。
もっとも、村ではなくクラウゼルへの里帰りを検討した理由は故郷恋しさではなく、気がかりなあの事件のことがあってだ。
しかし、たかが帝都を離れるくらいでは意味がないだろう、ともレンは考えていた。
「でも、いま帰ると立太子の儀のお祭りに来れなくなっちゃうのね、レンもリシアも」
「……そうなります」
「お祭りより、殿下のお祝いができないほうが問題でしょ。私と違って、レンは殿下と懇意なんだし」
「そうよねー、里帰りなら時期をずらしたほうがいいかも」
話しているうちにも三人はリオハルド英爵邸の門の前にやってきていた。
門を出た三人は、それぞれ向かう場所へ歩を進めた。




