天と星が見つめる先に。
レンにはクルシェラの戦いを終えてから、何度も考えていることがあった。
きっかけは、マシェリアがレンにある光景を見せつけたことだ。彼女が口にしていたすべての言葉と、レンの心に湧き立った不思議な感情が頭にこびりついて離れなかった。
自室で夜を過ごすレンの頭を、あのとき見せつけられた光景が駆け巡る。
『ミセル、お前の試練を受ける』
レンも赴いた場所――――遊戯の神ミセルの神殿の最下層へ、レン・アシュトンも足を運んでいたかのようだった。
『だから俺は────』
試練とはいったい。
レンはエレンディルに帰ってからミセルについて多くを調べた。
巨大な図書館にも蔵書量が劣らない、学院の図書館へも何度か足を運んでいる。創世神話から入ると、関係していそうな本ならどんな本でも読んで情報を求めた。
しかし、ミセルの試練に関わる情報は見当たらなかった。
……わからない。その試練で、何を手に入れようとしたんだ。
何度も考えたことだが相変わらず答えは出ず、ベッドに身体を倒して目を伏せた。
そうしていても、あの光景を見せつけられた後に響いた声も思い出し、謎を深める。
『────から、ね。レン』
『も────これで』
白の聖女が発していた声を思い出すと、レンはやはり泣きたくなるような気持ちにさせられた。その感情の根底にあるものが何なのかレンは想像が及ばず、押し潰されそうな重みを心のうちに生じさせる。
この感情の正体は、根源はいったい。
『────だから……約束』
レンは息を吐いた。
「……約束」
彼らは、どんな約束を交わしたのだろう。
いつしかレンは寝入って、それが夢なのかよくわからない場所に立っていた。
果てのない緑。
どこまでも流れる空。
そこに立っていたのは、彼がよく知る亡国の魔女。
菫色の髪、眼鏡の下に備えた妖しい泣きぼくろもそのままに、彼女は何度かレンと会ったときと変わらず穏やかな様子で佇んでいた。
『誰より化け物なのは……君のほうだ!』
あのときレンにこう告げたマシェリアが、いま目の前にいる。
これが現実なら相応の反応を示しただろうが、ここは夢の中だ。レンはそれがはっきりとわかっていた。
「やっぱり君は、マシェリアによく似ている」
「――――俺が?」
「自覚はなかった? 一冊の本を読むためにすべてを懸けたマシェリアと、何が何でも未来を得ようとした君。手段と向かう先は違っていても、マシェリアたちはすごく似ていたよ」
彼女はレンに微笑みかけると、胸の前に抱いた記憶の禁書をそっと撫でた。
「レン・アシュトン、だから君は化け物なんだ」
「お前はいつもはぐらかすだけだ。俺に何を見たのか、それだけは絶対に言わない」
「今回ははっきり言ったじゃないか。君は化け物だってことを」
その不可思議な世界で、マシェリアはつづけた。
あのとき、神殿で相対したときのように。
「マシェリアは君を肯定した。すべてに抗い、認めず、存在を懸けた君のことを。諦めることを知らない姿を、マシェリアは尊く思えてやまない」
「お前に肯定されても、思うことなんてない」
「うん。君がそういう反応をするってことも識っていたよ」
「ただの想像だ」
「そんな不確定なものじゃない。私はマシェリア、記憶の禁書の持ち手だ」
世界が、白んでいく。
「神に嫌われたっていう本が、俺のことまで教えてくれるのか」
「そうだよ。けれど、君がどう受け止めるかは好きにすればいい」
次にレンが口を開くより先に亡国の公女は最後に人差し指を立て、自身の唇に押し当てた。
「もう話はおしまい、レン・アシュトン」
消えていく。
マシェリアが、この世界が。
すべてがレンにとって前触れのない出来事だった。
会話を終えてから、どれくらいの時間が経ったのかわからない。レンは目を開くとベッドの上でがばっと身体を起こした。
「っ――――まだ話は!」
もう、マシェリアとあの世界の名残は少しもない。
神の朧の中に絶えたマシェリアは、いまなおレンに呪いのように印象を残していたのだろうか。
夢にしてははっきりしすぎた感覚が付きまとっていたし、マシェリアの温度がいまも傍にあるかのような錯覚が漂う。
「……まだ、こんな時間」
夜と朝の境界がひどく朧げだ。
レンは脱力するように身体を倒すと、大きく息を吐いた。
◇ ◇ ◇ ◇
星空は彼方へと消し去られ、薄明の中に朝の爽やかな風が吹いていた。
リシアはいつもより早く目を覚まし、熱いシャワーを浴びてから着替えて鏡の前に立った。
胸に手を当て一呼吸。
鏡に映る自分を見て、白金の羽の髪飾りに目を向ける。クラウゼルで暮らしていたとき、レンが誕生日にくれたものだ。
「大丈夫」
胸はうるさいくらい早鐘を打ちつづける。
起きてすぐも、身体に今日の服を当てて迷っていたときも、シャワーを終えて髪を梳かしていたときもそうだった。
緊張によるものではなく、リシアの心を急かしている。
されどいまのリシアには今日を無難に過ごそうとか、控えめな服にしようとか、そんな言葉は一切頭にない。特別な日を迎えてもリシアはどこまでもリシアで、彼女の変わらぬ気高さがそこにあった。
やがて――――。
門と屋敷を繋ぐ庭園を進んだ先の門柱を背にして、白の聖女は立っていた。
夏の紺碧よりも美しいワンピースと、陽光を帯びた銀の髪。際立った可憐さは彼女自身が淡く輝いて見えるほど。
「そろそろレンも――――」
足先をとんっ、とんっ、と軽く遊ばせながら、前髪を指先で弄ぶ。
鏡の前で前髪の束を毛先まで整えたつもりだったけれど、もっと可愛くできないだろうかと気にしてしまう。
そうしていたリシアの耳に、屋敷の扉が開く音が届く。
「っ……すみません! お待たせしました!」
レンはリシアを網膜に捉えると同時に、彼女の傍に駆け寄った。
「まだ約束の時間じゃないってば」
「だとしても、リシアを待たせたことは変わりませんから」
「別に、私は待っていたかっただけよ」
手を下ろし、後ろ手を組むように自然な姿を取り戻すと、リシアは上機嫌に微笑んだ。門柱から背を離し、軽い足取りでレンの目の前へ。
彼がいま自分を見てどう思ってくれたのか、彼がそれを口にするより先にリシアは聞いた。
似合う? とは聞かない。
十分に似合っているという自信は、はじめから持ち合わせている。
だけどレンの声が聞きたくて、誇らしげに、自信に満ちた自分を見せつけた。
「似合ってるでしょ?」
胸が早鐘を打つことの心地よさを、彼女は知っている。
◇ ◇ ◇ ◇
祈りの町は冴え返った陽光に照らされた。
せき止めることのできない人の流れがエレンディルの目抜き通りを覆っている。
例年、夏になるとエレンディルは帝都に劣らずその時期特有の賑わいを見せていた。
リシアが行きかう人とぶつかりかけると、レンに手を引かれて距離が近づいた。
「――――ありがと」
「いえ、今日は人が多いですから」
「そうね。こんなに人がたくさんいるエレンディル、久しぶりに見たわ」
「もしかしたら、今日は帝都より混んでるかもしれませんね」
だったらそれを、免罪符にしてしまえばいい。
「ええ、そうかも」
リシアはさらにそっとレンに近寄ると、口元をより一層綻ばせた。
「迷子にならないようにしなくちゃね」
くすりと得意げに。
いたずらっ子のようにレンを見上げた。
「片手がお留守みたいだけど、何か思わない?」
「それって――――」
「けど、わがままを言うだけなのは嫌。だから私がこうしてあげる」
この日のエスコートをしてほしくて、構ってほしくてたまらずに。
レンの手に、白く華奢な指先を絡ませた。
空いていた手をそのままになんてさせてやらない。白の聖女は彼女らしさのすべてをさらけ出し、いまの自分の魅力を余すことなく見せつける。
「一応、さっきはぐれかけたのはリシアですよ」
「そう? 私から見たらはぐれそうなのはレンだった気もするけど」
愛くるしくも気高く、いまの彼女は誰よりも可憐だった。
「それとも、嫌?」
聞いておきながら、リシアはその答えに確信があった。
ころころと表情を変えるリシアに、レンは会話のリズムを委ねる。
苦笑で答えたレンに、リシアは勝ち誇るのだ。
「今日は昨日より涼しいから、歩きやすいわね」
「少し風もありますしね」
「ええ。あっ、でも暑くなっちゃったら言ってね」
もっとも、彼女がリシアという事実は変わらない。
「私が手を離すかどうかは別だけど」
いくつもの店を見て、時々カフェに行って休憩を挟むこともあった。
惜しかったのは、今日が瞬く間に過ぎ去っていこうとしていたことだけ。日差しは昼に近づくにつれて、エレンディルをより明るく照らしだす。
しかし、あっという間に日が傾きゆくと、空の端の色が少しずつ変わりはじめる。
そんな折に、エレンディルの端に位置した大時計台の広場にある二人の姿と、魔法にかけられたように素敵な景色。
そこは通りに比べて遥かに穏やかで、静けさに包まれている。
リシアは橙色の光に照らされた大時計台を見上げても、文字盤は意図的に視界から外していた。
時計の針を見て、この日の終わりが近づくことを知りたくなかったのだ。
大時計台の広場から少し歩いて。
せせらぎの音を耳にできるそこは、人とすれ違うことのほうが珍しい静かなところだ。日中の火照りは徐々に消え去り、自然公園に差した橙色の木漏れ日に熱はほとんどない。
そこで、
「そういえば」
水を見ていたリシアが、ふと思い出す。
「帝都にある大商会が忙しくなりはじめてるって話、聞いた?」
「いえ、はじめて聞きました」
何故だろうかと疑問を思い浮かべたレンだったが、この時期ということと、親友の様子から想像できたことが一つある。
「そっか。ラディウスの話が進んだんですね」
「ええ。立太子の儀式と一緒に、帝都で大々的にお祝いするんだと思う」
立太子の儀、またその際に大霊廟ですべき儀式がラディウスを待つ。
「夏休みが終わってからですよね、きっと」
「そうだと思う。正式にお知らせが来るまでもう少しかしら」
ラディウスも以前から早ければそのくらいの時期と言っていたし、レンにも無関係とはいえない記憶が残されている。
七英雄の伝説Ⅱでもほぼ同一の期間が存在していた。立太子の儀を前に、帝都を舞台に数日にわたっての盛大な祝いがあったはずだ。
ほぼ同一というのは、皇太子になったのが第三皇子ではないからだ。
あの世界線においてのラディウスは、バルドル山脈で命を落としている。
深く考えたレンの顔を、白の聖女が横から覗いた。
「その……疲れちゃった?」
「そんなことないですよ。親友が正式に皇太子になるから、いろいろ考えちゃってただけなんです」
「それならいいんだけど……。でも、レンと第三皇子殿下は別に変わらなさそう。いままでみたいにご飯に行ったりしてる気がする」
いつしか空を星々が満たしはじめ、ついに夜の到来を二人に知らせる。
光に彩られた公園を歩いていると、この日の終わりが近づいていたことをより強く実感する。
「残念。もうこんな時間なのね」
リシアがそう口にして、はにかんだとき。
「だからレン、また――――」
彼女がつづく言葉を口にする前に、遠くの空が一瞬光った。
炸裂したような、迸ったような光だったことくらいしかわからないのだが……。
「いまの、何かしら」
「すごい光でしたけど……もう消えてますね」
流れ星でも落ちたのだろうか。一瞬だったからいまとなってはもうわからなくて、二人は不思議そうに思いながら再び歩を進めた。
「聖骸現象からすぐだし、何か関係あるのかしら」
「そうですね。念のためにあとで聞いておかないと」
二人が疑念を抱いていたら―――
ふらりと突然、リシアが唐突にレンへしなだれかかった。
「……あ、あれ?」
身体から力が抜け落ちたような、不可思議な感覚だった。
何の前兆もなかったから、彼女自身それがおかしくてたまらなかった。だが、レンが案じた表情を向けたのを見て、彼女は慌てて言った
「ご、ごめんなさい! ちょっと足がもつれちゃって!」
「いえ。しばらく外にいましたし、俺のほうが気付かなくてすみません」
すると、日中とは違い今度はレンのほうからリシアの手を取る。
「あ……っ」
「屋敷に帰るまでこうさせてください」
彼はいつもより強引に彼女に寄り添うと、歩幅を狭め、ゆっくり歩きはじめた。
そのとき、リシアはレンに触れた肌がチクリと痛んだような感覚に見舞われた。
まばたき数回よりも短い時間だったからあまり気にならなかったが、どうしてだろうという疑問はあった。
だが、そんな疑問はすぐに忘れ、時の女神へ向けて、
……ローゼス・カイタスのことは許してあげる。
……だからこのまま、少しだけ時間を止めて。
リシアは自分でも驚くほど乙女のような言葉を思い浮かべ、くすりと笑った。
彼女の吐息を感じたレンが顔を向け、「どうしました?」と聞いてくる。
「気になる?」
リシアが声を弾ませてじゃれついた。
「急に笑ってたので、何か思い出したとかですか?」
「ううん。違うの」
「じゃあえっと……どうしてです?」
「……あのね」
リシアがつま先立ちになり、レンの耳に顔を寄せた。
これは二人が屋敷に帰る前、リシアが体調を崩す数十分前のこと。
「どうすればもっと甘えられるかしら、って考えてたの」
天球に青白く流れる星の海。
天が見つめる先に、リシア・クラウゼルとレン・アシュトンはいた。




