宣戦布告。
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レンがエレンディルに着いた頃には日が暮れていた。
この日の出来事を事細かに思い返しながらだったからか、いつもより時間の流れが早かったように思えてしまう。
日中のうだるような暑さもこの時間になると消え、目抜き通りにも涼しい風が吹いていた。
レンは橙色の西日に照らされるエレンディルの町中を歩き、いつものように屋敷の門をくぐった。
「レン様、お帰りなさいませ。帝城ではいかがでしたか……?」
給仕がレンを案じて話しかけてくると、レンは「普通に話してきただけですよ」と平然とした様子で返した。
「こ、皇帝陛下と普通にですか?」
「はい。気になることがないわけではないんですが、いまのところ普通としか言えなくて」
給仕はかしこまりました、と返す代わりに微笑を浮かべていた。
案ずるようなことがなかったのならそれでいい。むしろそれ以上のことは彼女にも想像できなかったから、帰ったばかりのレンを労った。
「帝都もとても暑かったと聞いております。まずは中でお休みください」
話をしていると、そこへ。
「少年! 帰ったか!」
クラウゼル家の騎士たちを束ねる老騎士、ヴァイスが声を上げながら姿を見せた。
「ヴァイス様? そんなに大きな声でどうしたんですか?」
「どうしたも何も……! やれやれ。その様子では、本当にただ茶を飲んできただけなのだな」
「心配しすぎですよ。別に、皇帝陛下はお茶を飲もうってご招待くださっただけですし」
「それが普通ではないから気にしていたのだろうに」
レンだってそんなことは承知の上だったが、いつも通りに振る舞うことに努めていた。
いつからか、皆の周囲に漂うのはいつもと変わらない穏やかな雰囲気だった。
遠巻きに様子を見ていた使用人や騎士たちも、彼らが密かに抱いていた緊張を消していく。
「ヴァイス様、そろそろレン様にはお身体を休めていただかないと」
「む……そうだったな。すまない少年、つい呼び止めてしまった」
「いえいえ、気遣っていただけて嬉しかったです」
レンの足は屋敷の中へ向かうのではなく、方向を変え庭園に向けられた。
「――――やっぱり少しだけ、外で頭を落ち着けてきます」
レンはそう言うと、微笑を残してヴァイスと給仕の前を去った。
残された二人はレンの背を見ながら、また一段と凛々しくなったような、頼もしい気配をそこから感じ取る。
二人とも、優しげな表情を浮かべてみせた。
「いつもそうだ。少年は少し見ないうちに、あっという間に成長してしまう」
「ええ。レン様も……それにお嬢様も」
「しかし、変わっていないところもあるのだろうな」
それは? と給仕がヴァイスの顔を見上げた。
「二人が一緒にいる姿を見るだけで、あの村で二人が出会ったときを何度も思い出す」
「言われてみれば、お二人とも変わらないところもたくさんありますものね。このまま庭園に行かれたことも、だからなのかもしれません」
「む? いまの話と庭園に何か関係が?」
「だって、いま庭園には――――」
◇ ◇ ◇ ◇
芝を踏む微かな音と、庭園の木々から聞こえてくる葉擦れ。
屋敷の中で頭を落ち着けるのに、庭園以上に向いている場所はあまり考えられない。
慣れた足取りでレンは一人、その先にある庭園へと歩を進めながらふと考えた。
「あのときも、夕方だったっけ」
忘れられるはずもない。
あれはクルシェラからエレンディルに帰る途中の魔導船の中でのこと。彼女が、レンの部屋を訪れてきた際の出来事だった。
エレンディルに帰ってからは互いに忙しくて落ち着いて話せていないこともある。
今日だって彼女はクルシェラの騒動ですべきことが重なっていたから、朝に軽く顔を合わせただけだった。
そうしたことが、余計にレンの心に存在感を植え付けていたのかもしれない。
声に出すことなく歩きながら……何度も考えて、思い出して。
庭園に足を踏み入れると同時に、夏の夕方を象徴するような鮮やかな茜色がレンの視界いっぱいに広がった。
「夕方だから頭に浮かんでたのかな」
あのときのことを考えて、感情のままに言葉を漏らした。
すると、レンが足を踏み入れた庭園の先から、
「それ、あのときのことかしら?」
彼女の声。
透明感に溢れる美声が風に乗り、レンの耳へと届けられた。
レンは声の主に身体を向け、ゆっくりと歩いて距離を近づけた。
彼はいまの問いに敢えて問いを返す。
「いつ帰ってきたんですか?」
「少し前よ。でも残念。私が空中庭園で待ってたら、一緒に帰れたのに。……そんなことより、さっきのって魔導船の中でのこと?」
違うなんて言えるはずもなく、レンは苦笑を浮かべて首肯を返す。
彼らしい反応を見て、彼女は誇らしげに笑った。
「私、あのときも言ったけど」
先ほど、給仕がヴァイスに含みを持たせたのもわかる。
「あれ、宣戦布告だから」
ここには、リシアがいたから。
白の聖女の自信に満ちた可憐な姿が、レンの視線を瞬く間に奪った。
◇ ◇ ◇ ◇
幾日か前。
クルシェラからの帰路の途中、彼らが乗る魔導船が漂う天空の中。
レン・アシュトンの部屋を少女が訪ねた。
「……レン?」
何度声をかけても彼の返事がなかったから、心配になって彼の部屋へと足を踏み入れた。窓際で眠る彼の姿を見たとき、彼女は思わず声を漏らした。
「……疲れて寝ちゃってたのね」
彼女は安堵の声を漏らしながら彼に近寄っていき、そっと声に出してみせた。
「あのね、私が剣聖になれたのって、やっぱりレンが関係してたみたい」
はじめて出会ったときに覚えた気持ち、彼に並び立つために必要なことのすべて。
それらが彼女を剣聖に至らせるためのきっかけで、彼女は謳うに至った。
だが、それを彼らに話すことはできなかった。いま、彼女が僅かに頬を赤くしたことがその理由を物語っている。
慈愛と愛慕の念に満ちた双眸を、まっすぐと彼に向けた。
「だから、内緒って言ったんだからね」
リシア・クラウゼル。
白銀に紫水晶を溶かし入れたような髪は陽光を帯びて淡く輝き、蒼玉に似た瞳は凛と気品に満ち溢れていた。
華奢な身体つきが織りなす曲線美は、美麗な彫像のよう。
妖精や天使をも嫉妬させる美貌と可憐さが、白の聖女の名にこれ以上ないほどふさわしい。
そんな彼女が、神聖魔法でレンを癒やすために彼の手に触れれば、
『――――から、ね。レン』
『も――――これで』
彼女は頭の中に時々響くようになった、自分の声を聴いた。
すると、不思議なことにいままで以上に強い気持ちを抱けた。言いようのない切なさに苛まれたし、どうしてか、より強く彼の隣にいたいと思わされた。
だからなのだろうか。
「もっと勇気を出さないと」
彼女は自らに言い聞かせるかのように口に出して、気持ちを確かめた。
彼女は決めた。
隣にいるレン・アシュトンに対して、そしてリシア・クラウゼルに対して。
少しだけ先へと進むことを――――それを宣言することを。
「あれ……リシア?」
「勝手に入ってごめんなさい。その……返事がなかったから、心配になっちゃって」
「っと、すみません。部屋に戻ってすぐ寝ちゃってたみたいです」
「ううん、いいの。疲れてるのにごめんなさい」
目を覚ました彼へとそう告げ、神聖魔法の光を消す。
立ち上がろうとしていた彼の姿を見たとき、彼女は自分の胸がいままでになく早鐘を打っていたことに気づいた。
それすらもいまは心地よかった。こんなにも強い気持ちを自分が持てたことが誇らしくて、うれしくて、幸せだった。
緊張せずに彼の傍にいられたのは、それらの感覚が彼女を満たしていたからだ。
「あっ、見て」
白の聖女が窓の外を指させば、彼はすぐにその方角を見た。
「えっと、何か外にありました?」
「ほら、あっちのほう」
「あっちって、ただ空があるだけのような……」
だが、何も見つけられなかった。
彼が結局、彼女に顔を向けなおそうとしたとき。
白の聖女は可憐すぎる微笑を浮かべ――――唇を動かした。
勇気はいらなかった。
意識せずとも身体が動いたから。
「嘘。あるのはこっち」
レン・アシュトンの頬に触れた、温かな感触。
リシア・クラウゼルの唇が、一瞬だけ。
離れていくリシアの動きがコマ送りのようにゆっくりで、甘い花の香りと一緒に少しずつ遠ざかっていった。
「ね」
艶やかな銀の髪がふわりと揺れ、それが収まると彼女は彼を見下ろす。
「こっちにあったでしょ?」
この事態に驚く彼に向けられていたのは、いままでで一番可憐な白の聖女の微笑だった。
愛慕の想いに満ちたその声を響かせながら、夕暮れに照らされた彼女のシルエットが神々しくてたまらない。
これほどまでに、愛くるしさを極めていたときがいままでにあっただろうか。
「リシア……いまの」
「何も言わないでいいから、レンはいままで通りでいて。そうじゃないと、レンに私を見てって言えなくなっちゃうでしょ?」
そうでなければ、先へと進むなんて口が裂けても言えない。
彼女の微笑は、その心の現れだった。
「――――覚悟なさい、レン・アシュトン。これ、宣戦布告だから」
告げた言葉と、告げられた言葉。
リシア・クラウゼルと、レン・アシュトンの間で。
「せ……宣戦布告……?」
「ええ。宣戦布告」
彼女は心のままに、その言葉を想い人に言い放つ。
じっと見つめ返す彼の胸元に、リシア・クラウゼルは指先で触れた。
むき出しの感情がレン・アシュトンを貫く。リシア・クラウゼルの姿はあまりにも可憐で、そして美しかった。
「リシア・クラウゼルの気持ちに、そして、レン・アシュトンにね」
それは世界中の何よりも聖く、美しい。
そして、一途な宣戦布告。




