城で過ごす午後。
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驚いたレンは密かに一度、胸を大きく鼓動させる。
しかし、彼はすぐに戦ったときのことを思い返して言った。
「記憶の禁書は世界の記憶。神の力が原初から刻む時の証明。そして神の力が宿る遺物、とマシェリアは言っていました」
「……世界の、記憶」
ほとんどマシェリアが口にしていた言葉をレンが口にすれば、一度眉を揺らした皇帝がまた庭園のどこか遠くへと視線を向けた。
……記憶の禁書について聞くことが、この茶会の目的?
レンは心の内でそう思うに至ったものの、それにしてはたかが騎士の子をこのような場に呼び出すだろうかと疑問に思った。
皇帝がさっき、はじめにと前置きしたことだってある。
「陛下はあの禁書について、何かご存じなのですか?」
「皆が知るようなことでしかない。どれも夢物語のようなものでしかなく、いずれも想像のようにしか思っていなかったが――――そなたの言葉で、より疑問を深めたところだ」
皇帝が一度、呼吸を挟んで告げる。
「エルフェン教もひどく気にしていた。かの書物がいまだレオメルに残されているのか、完全に世界から消え去ったのか、と」
「陛下、記憶の禁書は間違いなく消え去りました」
あのとき、炎剣アスヴァルの炎は表紙に埋まった魔石を灼き、破られたページを媒体に放たれた魔法にも勝ったのだ。
「それは余に届いた報告でも明らかなことだ。だが、記憶の禁書は一国の都市を瞬く間に滅ぼした代物。いかなる者も気にしてしまうのは無理もない。それも、聖人の右剣が気にかけるほどには」
「ミストルフォ卿が――――?」
「そう、その者も深く気にかけていた。またそなたに対し、気が変わったときはいつでも聖地を訪ねてほしいとも口にしていた」
「そ、そんなことまで……」
主神エルフェンの教えを信じる者たち、エルフェン教。
教皇の傍には世界最高の剣士にして、剣王序列第一位「聖人」が控えている。ミストルフォはその二つ名が表すように、聖人の最側近だった。
ミストルフォがクルシェラの神殿に立ち寄った際、すでに滞在中だったレンは縁あって話をする機会を得た。
その際、ミストルフォから聖宮騎士に勧誘されるという出来事があった。
(……また、あのときの話をしてたなんて)
レンはずっと前から、七英雄の伝説における惨劇の真相について考えていた。
魔王教教主の妹、イヴ。
どうしてか魔王教と行動を共にしていない彼女が、レン・アシュトンと何か意味深なことを話していた光景はいまでも忘れられない。
そのため、レンは情報収集の一環として、レンがミストルフォにイヴのことで何か知らないかと尋ねたのだが、情報提供の対価として誘われたのである。
とはいえ半ば冗談であり、レンの気持ちを探ろうとする意図のものだったのだが。
話が一段落したとみて、皇帝は用意されていた席に顔を向けた。
「そろそろ、約束していた時間を」
「約束――――」
「茶のことだ。立ち話をつづけてしまったことは余の不始末。招待した身でありながら、長話をしてしまった」
レンがそんなことはないと否定するよりも早く、ノトスが席に座るようレンを促した。
「直に会せばこそ、告げられる言葉もある」
たとえば、レンのこれまでの働きに対しての礼などがそうだ。
ノトスの立場上軽々しくできない振る舞いであり、さらにラディウスが以前に礼をしていたこともあって、やや遠回りとなった。
だが、茶を共にというのは本当だったらしい。
二人が腰を下ろしたところで、再び涼しい風が周囲に吹いた。
美しさを極めた庭園の中央に二人だけ。
沈黙を交わすことからはじまると、皇帝が茶を一口飲んだのを見てレンも喉を潤した。
美味しい。冷たくてこの季節にちょうどよかったし、爽やかな茶葉の香りと僅かな渋みが心地よかった。
「休暇を取りに行ったクルシェラで、あれほどの騒動に巻き込まれるとは思ってもみなかったであろう」
「それでも第三皇子殿下のおかげで、いままでにないひと時を過ごせました」
「ラディウスのおかげ?」
「宿に部屋をご用意くださったのです。よければご一緒にと申し上げましたが、ご公務でお時間がないとのことでしたので」
淡々とした様子で、皇帝が冷たい茶を一口嚥下して話す。
「第三皇子はすべきことが多い。そのいずれかのためであろう」
その声にレンが思い出したのは、大霊廟という場所のこと。
歴代の皇帝に加え、最深部には獅子王の墓碑も存在する。皇族であろうとみだりに足を踏み入れることはできない、ある種の聖域のようなところだ。
第三皇子ラディウスは近く、大霊廟での儀式をしなければならない。
皇太子となる彼にとっての義務とも言える儀式で、夏休みに入る以前からそのために動いているのだと彼は言っていた。
現状、皇太子になる話がまだ公になっていないから、ノトスは敢えて表現を濁していた。
――――しばらく経ち、レンにしてみれば拍子抜けするほど穏やかな時間が終わった。
ノトスはレンを階段のところまで見送ると、自身は先ほどの茶会の場へと戻った。
緩やかな風に髪を揺らしながら、彼は懐から取り出した古びた本を広げる。それはノトスにとって、記憶の禁書の話に限らず頭の中にあったもの。
古びた書物――――。
過去には禁書庫の蔵書だったものだ。
中には魔王を討伐した七英雄の旅路をはじめ、魔王軍の襲撃によりレオメルが行った作戦行動のことなど、国防に関わる重要拠点の機密も記されている。
過去の皇族が他国への情報漏洩を防ぐため、禁書庫へ並べたという代物だ。
ノトスはそれを手にして、
「ギヴェン、そなたはこれらの書物に、アシュトン家の何を見たというのだ」
いまはもう、この世界にいない貴族の名を口にした。
◇ ◇ ◇ ◇
階段の下でレンを待っていたエステルの傍には、見知らぬ男の姿があった。
「なるほど、彼が」
声の主は長躯に引き締まった筋肉を誇る男性だ。
年の頃は四十に近いくらいだろうか。
近衛騎士たちが纏う凛々しい騎士服にもよく似ていたが、その男が身を包む騎士服は見る者に対してさらに荘厳さを感じさせる。
実直や精悍という言葉に、そのまま服を着せたような騎士だった。
一方、短めに整えられた濃紺の髪と、片方の頬から目元にかけて刻まれた傷の痕が、どこか野性味も感じさせる。
「レン、この者はだな」
「ドレイク卿、その先は私が」
エステルの声につづき、男が半歩前へ。
階段を下り終えたレンもまた、距離を詰めた。
「某の名はガルレオン・ガーディ。近衛騎士団を預かっている」
「レン・アシュトンと申します。クラウゼル家に仕える騎士の子です」
一瞬、ガルレオンは間を置いて返した。
「この最初の庭において、そのような自己紹介を聞いたのははじめてだ」
ただでさえ一部の人間しか足を踏み入れることができない場所で、騎士の子ですという自己紹介は過去に例がない。
ガルレオンは微笑と驚きを交えたが、無理からぬことだ。
「レン、初対面で近衛騎士団長を驚かせるとは素晴らしい」
「別に驚かせてしまうつもりはなかったんですが……。俺が言える身分をそのまま口にしただけなので」
「違いない。しかし、この男の珍しい顔を見られて悪い気はしなかった」
「……また変なことを言って」
しかし、何故ここに近衛騎士団長が?
レンが疑問に思っている横で、ガルレオンがエステルに目配せ。
「レンのことなら気にせず話してくれ」
「ならば。先日、アルティア領周辺で魔王教徒たちと小競り合いがあった。ドレイク卿から聞いていた通り、奴らが隠れ家を用意していた」
レンは夏休みに入る前、七英雄の伝説Ⅱについて想起した。
その主人公たちともいえる七英雄の末裔たちは、夏休みに入ると仲間の親が統治する領地へと向かい、魔王教を相手に戦っていたはずだった。
だが、彼らもレンたちとクルシェラへ行くことになり、レンが知る流れを逸脱した。
それでもレンは魔王教が各地で動く可能性を危惧していたから、それまでと同じくラディウスと情報共有をしていた。
「ドレイク卿と言うが、あれらは第三皇子殿下が講じた策だぞ」
エステルが口にした言葉を掘り下げるなら、さらにレンとユリシス・イグナートの存在もあっての策だ。
「それで、結果は」
「申した通り、ただの小競り合いでしかない。派遣した戦力で対処済みだ」
やはり、これまでと同じく違いがある。
レンが知る流れではアルティア領にも魔王教の実力者、司祭の階級にある者がいたはずなのだが、七英雄の末裔たちがクルシェラを訪れたようにそれも違ったらしい。
「始末を終えたから、共有しに来てくれたわけか」
「ドレイク卿が城に来ていると聞いたからな」
「それには感謝する。それと、殿下がお帰りになられた際に話しやすいよう、より詳しい内容を聞いておきたいのだが」
「ならば、実際にアルティア領へと赴いた者に聞いてもらいたい」
「私が知っている者か?」
「知らぬはずのない相手だ」
そこまで話すと、エステルはレンを先導するように歩きはじめた。
庭園を歩きながらガルレオンは言った。
「例の塔にいる魔女殿だ」
エステルはガルレオンが去り際に残した言葉を受け、いままでレンに見せたことのない辟易した様子の表情を浮かべた。
◇ ◇ ◇ ◇
「いいこと? 物事は正しくお話しなさい」
城壁の内側、城の敷地内の片隅にそびえる塔で。
獅子聖庁の長官を前に、あくまで理路整然とした声音で話す女性がいた。彼女は窓際の席に腰を下ろし、手元の本にばかり視線を向けていた。
「私、何度も言っておりますわ。正しい言葉なくして正しい道はないと。これがどういう意味なのか、エステルにはもう理解していただけていると思っておりましたのに」
彼女がはぁ、と物憂げな嘆息を交えて。
「別に変なことは言っていなかっただろう」
「いいえ? さっきエステルは、私が魔王教の対処をするためにアルティア領へ向かったと言ったではありませんか」
「言ったが、それのどこが間違っている」
「私は確かにアルティア領へと赴きました。ですがそれは、魔王教の対処をするためではなく、アルティアの屋敷を訪ねるため。前提が大きく違っておりますわ」
「はぁ……ほとんど変わらないではないか」
「いいえ、別物です。はじめから戦うつもりで足を運んでいたら、より早く対処を済ませておりましたもの」
女性がようやく顔を上げ、どこか挑発的な視線をエステルに向けた。
「ご理解いただけましたか? 長官殿?」
ゆったりとした、豪奢な魔導衣を着こんだ佳人だ。
見た目からわかる年齢は、まだ二十代も後半程度だろうか。
髪はこの世界においても珍しい翡翠色。磨き上げられた黄金のような瞳に、窓からの柔らかな光が反射していた。
座っているからややわかりにくいが、背丈はリシアやフィオナと同程度だろう。
見た目に反して、纏った気配が老成した魔法使いのように力強い。佇まいもまるで、神殿に立つ神像のように堂々としすぎていた。
彼女は本をぱたんと閉じると、ようやく席を立ちエステルの眼前に立った。
「ところで――――」
ふと、彼女の視線がレンに向けられた。
「ご一緒の殿方はどなたですの?」
「獅子聖庁に出入りしている者と言えばわかるだろう」
「ということは、彼があのレン・アシュトン?」
「ああ」
エステルの返事を経て、いまだ女性から視線を送られていたレンが言った。
「レン・アシュトンと申します。クラウゼル家に仕える騎士の子です」
一日のうちに同じ自己紹介をするというのも珍しいが、先ほどガルレオンにしたのと一言一句たがわず口にした。
女性はそれを聞き、微笑を浮かべて優雅なカーテシーを披露する。
「アスタリテでございます。どうかこの名を、あなたのお心の片隅に」
自己紹介をしたところで、実のところレンはいまもおいてけぼりを食らっていた。
近衛騎士団長ガルレオンからは、アルティア領での詳細を聞くなら……と塔にいる魔女のことを告げられた。それからは、エステルが見せたひどく嫌そうな表情ばかり記憶に残っている。
この古びた塔を訪ねたいまも、エステルは普段見せたことのない居心地の悪さを覚えているようだし。
「大方予想できますわ。エステル一人で来るのは少し気が引けてしまったから、彼を連れてきたのでしょう?」
「うむ。相違ない」
「……まったく。開き直った返事ですのね」
でも、それが駄目というわけではないらしく、剣呑な様子はなかった。
(……この人が、近衛魔法師団長)
二人の様子を横で見ながら、レンが思った。
ここに来るまでにエステルから聞いているが、彼女たちは長い付き合いらしく、勝手知ったる仲だった。
獅子聖庁は帝国の中でも珍しい半独立機関のため、近衛魔法師団と直接的な関わりは数える程度しかない。
だが、城で顔を合わせる機会はいくらでもあるだろう。
近衛魔法師団長はエステルを言い負かせられる、数少ない人物のようである。
「それで、アルティア領でのことでしたか?」
「ああ。ガーディ卿から聞けたことは僅かだから、詳細を聞かせてほしい」
「構いませんけれど、お話しできることは少ないですわよ」
レンが考えていた魔王教司祭の影はなく、魔王教徒たちを相手にしただけだった。
「潜伏していた隠れ家については、捜索の後に私が消しております」
「教徒たちはどうした?」
「生き残りは尋問いたしました。けれど、例の刻印のせいで長くはもちませんでしたわ。それも司祭などの指揮官の指示なのでしょう。あのような場にただ潜伏していたとは思えませんし」
司祭が現れなかったことはレンも気になったが、すでに周辺の領地を含めて強力な戦力を多く派遣し、備えてもいる。
いずれも聞いていた通り、小競り合いとしか言えない内容だった。
「……本当に小競り合いだけではないか」
「だから、何度もそう言っているんですの」
ため息をついたアスタリテにエステルがもう一つ、気になっていた話を聞いた。
「アルティアの屋敷を訪ねたと言っていたが、彼らが帝都に構えている屋敷では駄目だったのか? 現当主らは普段、帝都の屋敷で過ごしていたはずだが」
「別に、当代のご当主殿とお話しするために行ったわけじゃありませんわ。前当主殿からお声がけいただいて、見つかったお品を拝見しに行ったんですもの」
「――――見つかった品?」
その声はレンの口からだった。
無意識に声を漏らしてしまったのは彼に気になることがあったからだ。
「あら、貴方もご興味が?」
「はい。アルティア家のご令嬢とは同じ学院に通ってますし、大時計台の管理でもお世話になってますから」
「でしたら貴方も是非聞いてくださいまし。そのお品ですが――――」
さっきは言い繕ったにすぎない。
もしかしてあれのことだろうか? と密かに思ったレンの推測が正しかったことと知らされるのは、その数秒後。
「何かの設計図のようにも、何かの生成法のようにも見える紙でしたわ」
それを聞き、レンはやはりと思った。




