第四十八話 懐歌|身贄となりて
浴室での大騒動をどうにか乗り切り、さっぱりと綺麗になったゼノと乎鞠は、無事に部屋へと帰還した。
時計の針はすでに深夜を大きく回っており、窓の外の紫色の双月はさらに高く昇り、部屋全体を神秘的な影と光で満たしていた。
まずはと、ゼノが隔離されたベッドで眠るルシアの様子をそっと覗きに行く。
「……呼吸は安定している。熱も、これ以上は上がっていないみたいだ」
胞子の進行を抑える結界はしっかりと機能しているようで、容体に大きな変化は見られなかった。最悪の事態は免れていることに気づき、ゼノはわずかに胸をなで下ろす。
それからゼノは、先ほどまで腕に抱いていた乎鞠をリビングのソファにそっと座らせた。
「この時間だから大したものは作れないけれど、何かお腹に入れておこうね」
そう優しく微笑むと、ゼノは簡単な夜食を取りに、一度部屋を離れて厨房へと向かった。
――カチャリ、と扉が閉まる音が響く。
静まり返った部屋に取り残された乎鞠は、痛む足をかばいながらも、ゆっくりと立ち上がった。そして、心配そうに、恐る恐るルシアの寝ているベッドへと近づいていく。 近づくにつれ、ベッドの周囲に漂う不穏で澱んだ空気が肌をピリピリと刺した。
その時、苦しげに横たわっていたルシアの喉から、ぐっとくぐもったうめき声が漏れた。
「っ……!」
乎鞠は思わずビクリと肩を震わせ、その場で足がすくんだ。けれど、目の前で苦しんでいる人間を見捨てられない優しさと、かつて自分が怯えながらも耐え抜いてきた記憶が重なる。
少しでも、この人の苦しみを和らげてあげたい。そう思った乎鞠は、小さな手をそっとベッドの縁にかけ、震える声を絞り出した。
それは、かつて故郷の貧しいながらも暖かな部屋の中で、とと様が優しく頭を撫でながら歌ってくれていた子守唄だった。
「……し、しろがねの……い、糸を……つ、むぎて……おり、なせる……ころも……まといし……お、おとめごは……」
「み……みにえと、なりて……っこのよの……しずけさ……ま、まもる……こ、よ……っ……」
辿々しくも、どこか凛とした透明感のある歌声が、静かな部屋に響きわたる。 乎鞠が歌い続けるにつれて、不思議な現象が起き始めた。どこからともなく、微かな風が部屋の中に吹き抜け、ルシアのベッドを覆っていた重厚な天蓋の布が、ふわり、ふわりと大きく優しく靡き始めたのだった。




