第四十三話 変行|おやすみ
「名前……?」
乎鞠の素朴な問いかけに、ゼノは「んっ……」と言葉を詰まらせた。
言われてみれば、確かに出会ってからこれまで、乎鞠自身から名前を聞いた覚えはない。それなのに、出会った瞬間から、いや、心の中では最初から当たり前のように彼女を「乎鞠」と呼んでいた。
(なぜ……? え……? どうして……?)
ゼノは慌てて、乎鞠と出会った昨日の朝からの記憶を必死に遡り始めた。
いつも通りレックスとの過酷な鍛錬を終え、そのあとは本来なら自室の浴室でシャワーを浴びて汗を流す時間だった。
しかし、昨日の朝の記憶はそこから不自然にねじ曲がっている。鍛錬場からなぜか自室へは戻らず、そのまま翼を広げて空へ飛び立ち、ふと気づけば魔界の空を滑空していた。
違和感はそれだけではなかった。
ゼノが飛んでいたその先には、魔界の荒涼とした大地にはあり得ないほど、生い茂る青々とした草花が広がっていたのだ。あの方角へ真っ直ぐ進んでも、本来なら何もないはずの岩山が続いているだけなのに。
(なぜ僕は……あの方角に飛んでいたんだ……?)
さらに記憶の奥を覗き込む。
崖下に不自然なほど草花が集中している場所があり、胸騒ぎに導かれるように降り立った。そこを覆う蔓や草木を手でかき分けると、奥には隠された小さな洞穴があった。
さらに生い茂る葉をかき分けながら奥へ進むと――そこに、傷つき倒れていた少女がいた。
そして、その泥だらけの顔を見た瞬間、目と目が合ったその一瞬で、不思議なことにゼノは「この子は『乎鞠』だ」と、名前まで含めてすべてを理解していた。
(…………なんでだ……?)
自分がどうしてあの場所を知っていたのか。どうして会ったこともない少女の名前を最初から知っていたのか。
思考の海をどれだけ深く潜っても、そこには奇妙な空白と、説明のつかない強い引力のようなものしか残されていなかった。結局、答えなどどこにも見つからない。
複雑な思いを抱えたまま、ゼノは思考を切り上げようと、腕の中にいる乎鞠に目を向けた。
「あのね、乎鞠……実は、僕も――」
言いかけ、ゼノはふと口を噤んだ。 泣き疲れて、緊張の糸がプツリと切れたのだろう。ゼノの胸元に小さくしがみついたまま、乎鞠は「スースー……」と規則正しい寝息を立て、すっかり深い眠りに落ちていた。その小さな額には、まだ微かに熱の余韻が残っている。
「……ま、いっか。今は、乎鞠が無事で、こうして一緒にいられるだけで……」
謎の答えは出ないままだったが、昨晩から一睡もせず、ルシアの看護や乎鞠との緊迫したやり取りに奔走し続けていたゼノの体にも、限界が訪れていた。 限界まで張り詰めていた緊張がほどけた途端、心地よい温もりに包まれながら、ずっしりと重たい強烈な睡魔がゼノのまぶたを優しく閉ざしていく。
静まり返った部屋の中で、二人の小さな子供は互いのぬくもりを確かめ合うように、そのまま穏やかな眠りの世界へと落ちていったのだった。




