第9話 レーベン家の穏やかな夜と、遅すぎた男の駆け込み
学園で無事に卒業証書を受け取った後、マリアンヌはレーベン子爵家へと戻り、両親と弟妹に学園の卒業を報告した。
「おめでとう、マリアンヌ。お前が学業を立派に収めた結果だね。お父様はお前を誇りに思うよ。よく頑張ったね」
そう言って優しく微笑む父の言葉に、母も感極まったように頷く。
「本当に。あなたの頑張りは私たちの誇りよ。弟妹もあなたを見習って、きっと学業に励むことでしょうね」
「姉上! ご卒業おめでとうございます! 僕も学園に通った暁には、姉上のように立派な成績を収められるよう学業に励みます!」
「お姉様! 私もお姉様のように素敵な令嬢になれるよう、頑張りますわ!」
弟と妹からの無邪気でまっすぐな祝福の言葉に、マリアンヌの胸の奥がじんわりと温かくなる。家族を守るために結んだ縁ではあったが、この愛おしい笑顔を守れたのだと思えば、今回の決断はやはり間違いではなかったと思えた。
その夜は、ささやかながら家族でお祝いの晩餐を囲んだ。
特別に豪華なご馳走があるわけではない。けれど、温かなスープと家族の笑い声に包まれ、マリアンヌがレーベン子爵家で過ごす最後の夜は穏やかに更けていった。
◇
翌朝。ミッテラン公爵家から差し向けられた豪華な馬車が、子爵家の屋敷前に停まっていた。
先代公爵リチャードはすでに王都を離れ、領地の邸宅で過ごしている。マリアンヌはその領地へ向けて、たった一人で王都を旅立つことになっていた。
「それでは。お父様、お母様、トーマス、メリッサ。みんな、どうか元気でね」
「マリアンヌ……どうか幸せにおなり。私たちは、いつもお前の幸せを祈っているよ」
涙を浮かべて手を振る家族に見送られながら、マリアンヌは馬車へと乗り込んだ。
ゆっくりと車輪が回り出し、住み慣れた屋敷と王都の街並みが遠ざかっていく。
マリアンヌは車窓から静かに外を眺めながら、自らの新しい人生へと踏み出していった。
◇
――マリアンヌを乗せた馬車がレーベン子爵家を出発してから、三時間ほど経った後のこと。
娘の旅立ちを見送った子爵家の門前に、先ぶれもなく一台の豪華な馬車が急停車した。
「マリアンヌ……っ! マリアンヌ嬢はいらっしゃいますか!」
馬車から飛び出してきたのは、慌てた様子のフレデリックだった。
息を乱し、普段の余裕な態度は消え、レーベン子爵家の門兵に伴われエントランスへと案内されたフレデリックに、レーベン子爵夫妻は困惑と戸惑いの色を隠せない様子で対峙した。
「失礼ですが……ドーソン侯爵令息様とお見受けいたします。レーベン子爵家が当主ビクターでございます。当家の娘、マリアンヌとは、どのような?」
「……っ! これは、失礼しました。ドーソン侯爵家フレデリックと申します。マリアンヌ嬢とは……学園で、クラスメイトでした」
「ああ! これは失礼いたしました。先日は、マリアンヌが泊まりがけでお邪魔しておりましたな。学園のクラスメイトの皆さんと共に過ごせるなぞ、娘と仲良くしていただきありがとうございました」
「……いや。あれは、あ……」
フレデリックは、マリアンヌがあの夜のことをどこまで正直に両親に話しているのか分からず、言葉を詰まらせた。
(マリアンヌは……ご両親に、俺のことは何も話していないのか……?)
ふしだらな関係を責められることなく、純粋な感謝を向けられたことで、胸の奥で後ろめたい罪悪感が灯った。
「それで……フレデリック様。本日はどのようなご用件でしょうか。マリアンヌをお訪ねでしたら……あいにく、マリアンヌはもうここにはおりません」
「な……っ、不在なのですか? いつ戻る予定でしょうか? 彼女はどこへ行っているのですか!」
畳み掛けるようなフレデリックの問いに、子爵夫人が静かに首を振る。
「レーベン子爵家当主の妻でキャサリンでございます。マリアンヌは、出かけているのではありませんわ。マリアンヌは本日、ミッテラン公爵領へと旅立ちました。あちらへ嫁いだ身、もうこの屋敷へ戻ることはございません」
「……つ、ミッテラン公爵領ですって! 何を言っているのですか……? なぜ、マリアンヌをそのような遠方へ……」
「マリアンヌは、先代ミッテラン公爵閣下との縁談を受け入れ、正式に嫁いだのです。三時間ほど前に、迎えの馬車に乗り王都を発ちました」
「嫁いだ……? 公爵家に……? 嘘だ……そんなはずがない! マリアンヌが、なぜそんな年寄りのもとへ……っ!」
「我が家の窮状を救うためです」
子爵の重々しい一言が、エントランスに冷たく響くと、使用人一同が暗い表情を浮かべて俯いた。
「当家が抱えていた負債をすべて肩代わりし、弟妹の学費まで保証してくださるという条件で、マリアンヌが自ら決断したのです。……他ならぬ、我が家と領民を困窮から救うために」
「――っ!?」
フレデリックの顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
彼女が『遊び慣れた女のふり』を演じていたことも、あの夜にシーツに残された痕跡が何よりも雄弁に証明していた。
それなのに――彼女はフレデリックに何も告げなかった。
フレデリックとの関係にどんな意味があったのか、どれほど大切だったのかも。子爵家のために、どれほどの覚悟で彼女自身を犠牲にするのかも。
(なぜだ!? 俺に婚約者がいないことも、ドーソン侯爵家の力ならいくらでも手を差し伸べられたことも、分かっていたはずなのに! なぜ、俺に助けを求めなかったんだ……!?)
フレデリックとの関係について、何一つ両親に打ち明けてはいなかった。
それは優しさなどではない。フレデリックを責めることすらせず、ただ彼の前から消えるという、マリアンヌなりの決定的な拒絶だった。
「もう二度と、戻らない……?」
「ええ。マリアンヌはすでに公爵家の庇護下にあり、先代公爵の夫人の立場となりました。……申し訳ございませんが、フレデリック様。これ以上の取次はいたしかねます」
「あ……ぁ……」
膝から崩れ落ちそうになるのを、フレデリックは必死で壁に手を突いて支えた。
追いかけても、もう追いつくことはできない。
どんなに言い訳を重ねたところで、彼女が自分の話を聞いてくれることはもうないのだ。
マリアンヌを失ってから初めて彼女への想いを自覚したフレデリックは、静まり返るエントランスの真ん中で、ただ呆然と深い絶望に呑み込まれていた。
この日、二人の人生は、完全に別々の道へと分かれたのだった。
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