第10話 遊び人の遅すぎた告白と、静かな拒絶
レーベン子爵邸から馬車を走らせ、ドーソン侯爵邸へと帰宅したフレデリックは、荒い息のまま足早に廊下を進み、当主の執務室へと向かった。
扉の前へたどり着くと、ノックの返事を待つことなく乱暴に扉を押し開けた。
「父上! 急ぎご相談したいことがございます!」
執務机で書類に目を落としていた父、クリスチャン・ドーソン侯爵は、髪を乱して部屋に飛び込んできた息子を静かに見上げた。
その厳格な眉根が不快そうに寄る。
「……何事だ、フレデリック。無作法だろう。侯爵家の跡取りが挨拶一つまともにできんのか」
「そんな場合ではありません! ミッテラン公爵家とレーベン子爵家の件でご相談がございます! マリアンヌ――レーベン子爵令嬢と、先代ミッテラン公爵の縁談話を至急止めていただきたいのです!」
フレデリックは執務机にしがみつくように身を乗り出し、一気に捲し立てた。
「レーベン子爵家は多額の負債を抱えており、マリアンヌ嬢はその支援と引き換えに自らを売るようにして嫁いだのです! 我が家の力があれば、子爵家の負債などいくらでも援助できます! 父上、今すぐミッテラン公爵家へ面会を申し込み、あの縁談を白紙に戻したいのです!」
常のどこか冷めた淡々とした姿とは違い、なりふり構わず叫ぶ息子を、クリスチャンは冷ややかな眼差しで見つめていた。
しばしの沈黙ののち、彼は重々しく息を吐き出すと、呆れたように低く声を漏らした。
「……落ち着け、愚か者が。騒ぎ立てるな」
「落ち着いてなどいられません!!」
「お前とレーベン子爵令嬢の……先日の交流については、家令からも報告を受けている」
クリスチャンの言葉に、フレデリックの言葉が詰まった。
「それほどまでに執着し、レーベン子爵家を救いたいと願うなら――なぜ最初からお前がその令嬢との正式な婚約を私に申し出なかった? 我がドーソン侯爵家の援助があれば、子爵家の窮状など容易く救えたはずだ。それを、ただ『遊び』だと甘く見くびり、放置した結果がこれだ」
「それは……っ」
「ミッテラン公爵家が正式に出資し、婚姻の取り決めを交わした以上、それは決定事項だ。他家が口を挟む余地など最初から存在せん。……お前とは、最初から縁がなかったということだ」
「そんな!! 相手は六十を過ぎた爺ですよ!? 十七歳のマリアンヌが嫁ぐような相手ではありません! あんな婚姻、狂っている!」
激昂したフレデリックの声が部屋に響き渡った、その瞬間――。
バシッ!!
乾いた重い音が執務室に響いた。クリスチャンが苛立ちを露わにして手元の書類を机に叩きつけたのだ。
「黙れ。それこそ、お前が口を挟むことではない」
侯爵の眼光が、射抜くような鋭さでフレデリックを捉える。
「ミッテラン公爵家には公爵家の都合があり、レーベン子爵家には子爵家の選択があったまでのこと。当事者同士が納得して結んだ契約に、何の権利もない他人が外から口を挟むなど言語道断。お前は、我がドーソン侯爵家の名を貶める気か? だとしたら、お前に後継者としての資格はないな」
「父上……っ」
「話は終わった。不快だ、下がりなさい」
冷たく言い放ち、クリスチャンは興味を失ったように再び手元の書類へと視線を戻した。
父から突きつけられた完璧な拒絶だった。
自分の思慮の浅さ、遊び人として振る舞ってきた身勝手さ、そして『ドレーク侯爵家の力』という唯一の希望すら断たれた現実。
フレデリックは拳を血が滲むほど固く握りしめ、一礼して執務室をあとにした。
◇
静まり返る自身の部屋へと戻ったフレデリックは、ポツリと一人佇んでいた。
(終わった……? 縁がなかった……だと……?)
脳裏に浮かぶのは、自分に向けられていたマリアンヌの微笑み。そして、去り際に彼女が一人で抱えていたであろう、絶望的な覚悟。
(冗談じゃない……! 俺が愚かだったから……俺が素直になれなかったから……あいつをそんな地獄へ追いやったというのか……!?)
諦めろと胸の奥で理性が囁く。
だが、それ以上に猛烈な熱量が、黒い欲望となって彼の全身の血を駆け巡った。
(認めない……。誰に何を言われようと、俺は認めない……!)
規則も、家の立場も、貴族社会のしきたりも――マリアンヌを失う恐怖と狂おしい執着の前には、何の意味もなさなかった。
「逃げられると思うなよ、マリアンヌ……。たとえミッテラン公爵家に乗り込んででも……俺の手で、お前を取り戻してやる」
フレデリックの瞳に、昏く歪んだ決意の炎が宿っていた。
◇
三学期が終わり、卒業式から数日後。一台の馬車がミッテラン公爵領の広大な車道を駆け抜けていた。乗っているのは、ドーソン侯爵家の跡取りであるフレデリック・ドーソン。
父親に冷たく突き放され、貴族社会のしきたりや道理を説かれても、彼の胸に渦巻く執着と焦りは収まらなかった。それどころか、ますます激しく燃え上がっていた。
(認めない……。俺に何も告げず、そんな年寄りのもとへ嫁ぐなんて……絶対に認めない!)
王太子の側近でありながら、自分の一方的な手紙だけで一週間の休暇を申し出た。
フレデリックは、自分でも自分がどうかしていると分かっていた。
学園一の遊び人として名を馳せ、どんな女とも深く関わらず、ただ軽薄に笑っていた自分が――たった一人の子爵令嬢に、ここまで心を支配されているなど。
数日間の旅を経て、たどり着いたミッテラン公爵領の領地の館。
フレデリックは身分を盾にして門番を押し切り、屋敷の敷地へと強引に立ち入った。
「マリアンヌ! マリアンヌ嬢に会わせてください!!」
息を荒らげ、乱れた旅姿で叫ぶフレデリックの前に、静かに屋敷の扉が開いた。
姿を現したのは――フレデリックの知る二ヶ月前のあの少女ではなかった。
上質な深い紺色のドレスを身に纏い、背筋をすっと伸ばした凛とした女性。
その佇まいには、公爵家の妻として少しずつ身につけつつある気品と覚悟が感じられた。
「……お久しぶりです、ドレーク侯爵令息様。先ぶれもなく、そんなに慌てて一体どうされたのですか?」
鈴を転がすような静かな声。
フレデリックはその姿を目にした瞬間、一瞬息をのんだ。
「マリアンヌ……っ! よかった、無事だった……!」
フレデリックは駆け寄り、彼女の華奢な腕を掴もうと手を伸ばした。
しかし、彼女の背後に控えていた初老の執事と、護衛が鋭い視線とともに一歩前へ踏み出す。
「お控えください、ドーソン侯爵令息様。当家の奥様に対して無作法な振る舞いはご遠慮願います」
「くっ……! マリアンヌ、嘘だろう!? なぜこんな……六十を過ぎた爺の妻になど……! き、君の家の負債なら俺がどうにでもした! 我が家の力を使えば、君をこんな地獄から救うことだってできたんだ!」
なりふり構わず訴えるフレデリックを、マリアンヌは静かな、けれどどこか哀しげな瞳で見つめ返した。
「……ここが地獄、ですか? いいえ、違いますわ。閣下は私を大変尊重してくださり、レーベン子爵家との約束もすべて果たしてくださいました。私は……私自身の意思で、閣下の妻になると決めたのです」
「自分の意思だって……!? 家族のために自分を犠牲にしただけじゃないか! 俺と一緒に王都へ戻ろう、マリアンヌ! 今ならまだやり直せる! 俺がミッテラン公爵家との間に入って、何としてでもこの婚姻を白紙に戻してみせるから……!」
必死に叫ぶフレデリック。かつて一度も見せたことのない、みっともないほどの乱れようだった。
「俺は……俺は、君が好きだったんだ! いや、今も愛している! 君を失いたくないんだ……!」
喉を張り裂かんばかりに吐き出された、遅すぎた愛の告白。
かつてのマリアンヌなら、涙を流して喜んだかもしれない言葉。
だが、彼女の表情はピクリとも動かなかった。
マリアンヌはゆっくりと首を振ると、柔らかく、けれど決定的な拒絶を込めて静かに微笑んだ。
「……それは、あなたが私を失ったからでしょう?」
「え……?」
「あなたが今、私を『愛している』とおっしゃるのは……私があなたの手から離れ、もう二度と手に入らないものになったからですわ」
胸を刺すような、静かな鋭さを持った一言だった。
「学園にいた頃の私は……ただの浅はかな子爵令嬢でしたわ。一生に一度の恋の真似事をして、想い出を作って満足して……勝手に去ったのは私です。フレデリック様がご自分を責める必要も、今さら私に責任を感じる必要もありませんの」
「マリアンヌ……俺は身勝手だった! 子爵家の状況を知っていたのに……っ」
「いいえ、お門違いですわ。あの夜、私をあのような愚かな真似に走らせたのは、他ならぬ私自身の我が儘。フレデリック様はただ、私の身勝手な想い出作りに付き合わされただけに過ぎません。ですから――どうかもう、私に囚われないでくださいませ」
そこで、マリアンヌはフレデリックをまっすぐに見つめた。
「今の私はもう、実家のために身を捧げた哀れな少女ではありません。……自分の人生を、自分で選んでここにおりますの」
言葉の端々に宿る、本物の強さと決意。
目の前にいるマリアンヌは、もうフレデリックの救いを必要としていない。彼の知っている『マリアンヌ・レーベン』は、すでにどこにもいなかった。
「フレデリック様。どうぞ王都へお帰りください。……そして、ご自分の背負うべき未来と、誠実に向き合ってくださいませ」
そう言うと、マリアンヌは優雅にお辞儀をし、一度も振り返ることなく扉の奥へと消えて行った。
「マリアンヌ……! マリアンヌ――ッ!!」
彼女を追おうと扉に手をかけたフレデリックの前で、静かに扉が開き、先代ミッテラン公爵その人が姿を現した。
年老いてはいるが、長年王国を支えてきた威厳に満ちた眼光が、若い侯爵令息を射抜く。
「……若いの。彼女が自らの意志で私の妻となった以上、君に彼女を連れ去る権利も、その立場もない。彼女の覚悟を、これ以上踏みにじるな」
「……あ……っ」
言葉が出なかった。
マリアンヌが手に入らなかったのではない。フレデリック自身の甘さと愚かさのせいで、手放してしまったのだ。
『彼女を愛していること』と、『彼女を幸せにできること』は、全く別なのだという厳しいな現実が、フレデリックの胸を深く抉り取った。
失意と絶望の中、フレデリックは足をもつれさせながら馬車へと戻り、数日かけて王都への帰路につくのだった。
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