第8話 誰にも見送られない卒業と残された男の後悔
学園長および教職員会議の承認は迅速だった。
学園上位の成績という実績に加え、何より名門ミッテラン公爵家からの身元保証書と強力な添え状があったからだ。
数日後、マリアンヌのためだけに密かに執り行われた『特別卒業試験』。
緊迫した空気のなか、彼女は黙々と答案を埋め尽くし、満点に近い成績で無事に合格を果たした。
学園長室で執り行われた卒業証書の授与は、静かな室内で、学園長と担任教師、そしてマリアンヌの三人だけでひっそりと進められた。
本来なら春の光が差し込む大講堂で、卒業生の賑やかな歓声や、在校生からの祝福に包まれて受け取るはずだったもの。
部屋に響くのは、学園長が証書を読み上げる淡々とした声と、紙が擦れる小さな音だけだった。
「……見事な成績だ、マリアンヌ君。本日をもって、君の学業修了と卒業を正式に認める」
マリアンヌは寂しさを押し殺すように一度ギュッと瞳を閉じると、静かに、深々と頭を下げた。
「大変お世話になりました」
マリアンヌが遥かに年上の先代公爵へ嫁ぐと知った担任教師の痛々しいものを見るような視線と、学園長の静かな眼差し。
祝福の花束も、友人たちと交わす別れの言葉もない。彼女はその卒業証書をぎゅっと胸に抱きしめた。
これでいい。これが自分の望んだ終わり方なのだから。
◇
放課後の賑わいが始まる前に、マリアンヌは誰にも見送られることなく、卒業証書を収めた革張りの筒一つを手に校舎を出ると、門前に用意されていたレーベン子爵家の馬車へと乗り込む。
最後に一度だけ、馬車の小窓から振り仰いだ学園の白い校舎。
胸を締め付ける甘く切ない思い出とともに、鮮明に浮かぶのはフレデリックの美しい顔だった。
(さようなら、私の初恋……フレデリック様。どうぞ、お幸せに)
マリアンヌの乗った馬車は、静かに学園の門をくぐり抜け、二度と戻ることのない決まった未来へと走り去っていった。
◇
翌日。教室の扉を乱暴に開けて入ってきたフレデリックは、真っ先にマリアンヌの席へと視線を走らせた。
――空席。
いつもなら始業前には着席し、静かに教科書を開いているはずの彼女の姿がない。
あの放課後、嘘の呼び出しで誘い出し、強引に詰め寄って以来、彼女は露骨に自分を避けていた。だが、学園を無断で欠席するような生徒ではないはずだった。
(……体調でも崩したのか?)
不吉な胸騒ぎを覚えながらホームルームを待ったが、壇上に立った担任の口から発せられたのは、思いもよらない言葉だった。
「――連絡事項だ。マリアンヌ・レーベン君だが……昨日付で『特別卒業試験』に合格し、当学園を繰り上げ卒業した。本日より本校の籍を離れることとなったので、報告しておく」
一瞬、教室全体が静まり返り、次の瞬間にはどよめきが広がった。
「えっ……繰り上げ卒業!?」
「マリアンヌ様が……? 卒業まで後一学期だけなのに?」
「卒業式にも出席されないということ?」
フレデリックの頭の中は真っ白になり、血の気が引いていくのが自分でも分かった。クラスメイトたちのざわめきが、どこか遠くの出来事のように聞こえる。
(卒業……? 俺の前から……姿を消した? もう会えないのか?)
「……ふざけるな……っ!」
ガタンッ! と激しい音を立てて椅子が倒れた。
フレデリックは担任の制止する声も耳に入らない様子で、怒号とともに教室を飛び出した。
「待て、フレデリック!」
「フレデリック様!?」
エドワード王太子やクラスメイトの呼ぶ声が響いたが、今の彼の耳には一切届かない。
彼が向かったのは、職員室ではなく――校舎の奥にある事務長室だった。
バァンッ! と扉を跳ね返すように開け放ち、中にいた男へ凄まじい剣幕で詰め寄る。
「おい……レーベン子爵令嬢の卒業とはどういうことだ!? なぜ勝手に申請を受理した!!」
「フ、フレデリック様!? なんですか突然、ノックもなしに――」
「答えろ!! 彼女はどこへ行った!? なぜ俺に何も言わずに消えたんだ!!」
そこに学園一の遊び人として、常に余裕の笑みを崩さなかったフレデリックの面影はどこにもなかった。
荒い息を吐き、血走った瞳で詰め寄る姿は、まるで狂犬そのものだ。
「お、落ち着いてください! 生徒の個人情報は保護者と学園長裁量の秘匿事項でして、ドーソン侯爵令息様といえどお教えすることは――」
「俺に『個人情報』などという戯れ言を吐くつもりか?」
フレデリックは冷ややかな声で男の言葉を遮ると、胸ぐらを掴まんばかりの至近距離で低く囁いた。
「我がドーソン侯爵家の威光を前に、そんな言い訳が通ると思っているのか? ……お前がその席に居続けられるのは誰のおかげか、胸に手を当てて考えてみろ」
「ひっ……! そ、それは……っ」
ドーソン侯爵家の権力と脅迫に青ざめた男は、ガタガタと震える手で金庫の鍵を開け、秘匿されていたマリアンヌの提出書類の一式を引っ張り出した。
「こ、これです……! レーベン子爵令嬢の繰り上げ卒業の手続き書類です……! 何よりミッテラン公爵家からの身元保証書があったため、拒否などできるはずもなく……!」
「なに? ミッテラン……公爵家……?」
その名を聞いた瞬間、フレデリックの思考が止まった。
奪い取るように書類をひったくり、そこに記載された文字に目を走らせる。
「どうか、お、落ち着いてください! 彼女の早期卒業は正規の手続きでございます! 両親の同意書も揃っておりますし、何より――」
「何より、なんだ!!」
机にドンッ! と拳を叩きつけるフレデリックの迫力に押され、事務長は引き出しからさらに一枚の書類を取り出した。
「こちらです……! ミッテラン公爵家からの強力な添え状がございます! 学園側に拒否する理由などございません!」
「……ミッテラン公爵家からの添え状だと?」
記載された添え状の文字に目を走らせる。
そこには確かに、ミッテラン公爵家の紋章が捺され、マリアンヌが学園を去る理由、そして卒業後すぐに『ミッテラン先代公爵へ嫁ぐ』旨が、整えられた書式で記載されていた。
「先代……ミッテラン公爵だと……? バカな! 六十を過ぎた爺ではないか!」
フレデリックの手の中で、添え状がクシャリと歪んだ。
飽きたから別れると言ったあの言葉も、冷たい拒絶の眼差しも――すべては、この年老いた公爵に嫁ぐために俺を遠ざける『嘘』だったのか。
「あいつ……! 俺に黙って……こんな年寄りに売られていくだと……!?」
胸の奥からせり上がるのは、猛烈な困惑と、裏切られたような痛み。
そして、自分に何も相談せず、困窮する子爵家のために一人で犠牲になろうとしているマリアンヌへの、狂おしいほどの怒りだった。
「逃がすと思うか……マリアンヌ……っ!!」
この時のフレデリックの脳裏には、王太子の婚約者である幼馴染イザベルのことなど、微塵も浮かばなかった。
握りつぶした書類を机に叩きつけ、フレデリックは執着の炎を瞳に宿して事務室をあとにした。
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