第6話 王都への帰宅と、ミッテラン公爵家訪問
二ヶ月という冬休みの期間、あの夜の初めての経験による身体の痛みもすっかり癒え、マリアンヌは休む間もなく動き回っていた。
ここ数年、冷害に苦しむ領地で、十月までかかって収穫を終えた貴重な葡萄が、醸造されていく工程を見守る。深夜まで、お父様や領地の代官を務める叔父様と帳簿に向き合い、苦境にあえぐ領地を立て直すための方策を考える日々。
休む間もない忙しさは、皮肉にも、あの一夜の記憶――フレデリックの熱い抱擁や吐息、耳元で囁かれた甘い声を、少しずつ忘れさせてくれた。
領地では、毎日、侍女の介助を断って、一人で入浴した。
あの夜、フレデリックが残した痕は、すっかり薄れ、今ではほとんど消えていた。どこか寂しい気持ちを抱えて、その痕をそっとなぞる。
(これでいいの。私はもう、レーベン子爵家の安定のために、自分の務めを果たすだけ……)
そうして無事にワインの仕込みを終えたマリアンヌは、三学期が始まる直前、決意を新たに再び王都へと戻ってきた。
王都へ戻った彼女を待っていたのは、実家の援助と引き換えとなる結婚――先代ミッテラン公爵リチャードとの正式な顔合わせだった。
◇
両親とともに馬車で向かったミッテラン公爵邸は、格式の高さを感じさせる壮麗な建物で、足を踏み入れるだけで息を呑むほどだった。
案内された豪奢な応接間に入ると、そこにはミッテラン公爵家の主だった者たちが一堂に会していた。
「――よく来てくれたね、レーベン子爵。奥方も。そして、マリアンヌ嬢も」
穏やかで深みのある声でマリアンヌを迎えたのは、今回の結婚相手である先代公爵、リチャード・ミッテランだった。
今年で六十歳を迎えるリチャードは、整えられた白髪に髭を蓄えた人物だった。
長年、高位貴族として国の重鎮を務めてきた格式と品格を漂わせているが、その目元には優しい好々爺のような温かみが宿っている。
歳相応の皺は刻まれているものの、背筋はすっと伸びており、威厳を兼ね備えた紳士だった。
「お初にお目にかかります、ミッテラン前公爵閣下。レーベン子爵家長女、マリアンヌにございます。このたびはお心遣いをいただき、心より感謝申し上げます」
マリアンヌが淑女の礼を執ると、リチャードは満足そうに目を細めて深く頷いた。
「丁寧な挨拶をありがとう。友人であるジオン伯爵から『聡明で勤勉な娘だ』と聞いていたが、噂通りの素晴らしい令嬢のようだ。私のような老いぼれの話し相手になってもらうのは心苦しいが……どうか気負わずに過ごしておくれ」
その温かい言葉に、マリアンヌは胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
顔合わせには、現当主夫妻も同席していた。
ミッテラン公爵とその夫人は、落ち着いた雰囲気を纏った上品な人物たちだった。
自分たちよりも遥かに若いマリアンヌが、父の後妻――つまり、自分たちより遥かに年下の義母となることに対して、多少の複雑な思いはあるはずだ。しかし、彼らはそれを一切表情に出すことなく、実に誠実で柔らかな笑みを浮かべていた。さすがは歴史ある名門公爵家の当主夫妻である。
「父が領地で暮らすことになれば、何かと不便もあるだろう。だが、幸いにも我が家には余裕がある。レーベン子爵家への支援については、こちらでできる限りのことをさせてもらうつもりだ」
そこでミッテラン公爵は、両親からマリアンヌに視線を移し、優しく語りかけた。
「それに、マリアンヌ嬢の将来についても心配はいらない。父との縁がどういう形になろうとも、彼女が将来困ることのないよう、我々も責任を持って支えよう」
「ええ、どうかお義父様をよろしく頼みますね。困ったことがあれば、いつでも私たちを頼ってちょうだい」
温かい言葉をかけてくれる現当主夫妻に、マリアンヌは「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
「……ただ、一つだけ言っておこう」
それまで黙っていた先代ミッテラン公爵が、穏やかな声で口を開いた。
「私は、マリアンヌ嬢に妻という形を求めているわけではない。結婚という形式を取らずとも、私のそばにいてもらうことはできる」
そこで一度言葉を切り、先代公爵はマリアンヌをまっすぐに見つめた。
「だが……世間というものは、時に本人たちの気持ちよりも形を重んじる。君が話し相手として私のそばにいてくれるのなら、私は君が肩身の狭い思いをしたり、心ない言葉で傷つけられたりすることのないようにしたい」
私は、その言葉の持つ意味に真剣に耳を傾けていた。
「だからこそ、君の立場は、きちんと明確にしておいたほうがいいと思っている。それが君を守ることにもなるだろうからね。もちろん、決めるのは君だ。私は君に無理をさせるつもりはないよ」
レーベン子爵夫妻は、その言葉に胸を打たれていた。
困窮する自分たちの家に手を差し伸べてくれるだけではない。公爵家の当主家族が、娘の将来や世間からの評判にまで心を配り、マリアンヌが傷つかないようにと考えてくれている。その温かな心遣いが、二人には何よりありがたかった。
優しい人たちに囲まれ、マリアンヌは安堵していた。――だからこそ、あの夜のことを思い出す必要はない。
そして――最後にマリアンヌに声をかけたのは、現当主の嫡男であり、すでに学園を卒業して執務を補佐している若者だった。
「レーベン子爵令嬢、久しぶりだね。今回は、思わぬ縁を結ぶことになったね。お祖父様をよろしく頼むよ」
「……っ、ウィリアム先輩」
マリアンヌは目を見開いた。
まさか、こんなところで再会することになるなんて。
しかも――これから自分が嫁ぐ相手の、孫として。
学園にいた頃には、こんな未来など想像したこともなかった。
そこに立っていたのは、彼女の二歳上の先輩であり、学園時代に生徒会で優秀さを発揮していたウィリアム・ミッテランだった。
ウィリアムは穏やかな笑みをたたえながら、かつての学園の後輩であり、これからは『義理の祖母』という立場になるマリアンヌを優しく見つめていた。
「学園にいた頃から、君が優秀で努力家であることは知っていたよ。……レーベン子爵家の窮状もね。お祖父様も君のことをとても気に入っているようだ。我が家としても、君を温かく迎え入れよう」
「……ありがとうございます、ウィリアム先輩……いいえ、ウィリアム様」
惨めで辛い結婚を覚悟していたマリアンヌにとって、ミッテラン公爵家の人々の優しさは涙が出そうなほど温かかった。
これほどの誇り高く優しい人々のために尽くせるのなら、自分の人生を捧げる価値は十分すぎるほどにある。そう強く確信した。
(これでいい……。私の居場所は、ここになるのだから)
胸の中で、フレデリックへの未練を完全に断ち切るように自分に言い聞かせるマリアンヌだった。
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