第5話 一夜の夢と、冷たいシーツ
二学期の終業式を終え、一度レーベン子爵邸へと帰宅したマリアンヌは、明日の正午前には、馬車で五時間離れた領地に向かう予定だった。
両親の待つサロンへ向かう足取りは、後ろめたい罪悪感のせいで信じられないほど重い。
「お父様、お母様。あの……お友達からお泊まり会のお誘いを受けたの。これから出かけてもいいかしら? 明日の出発までには、絶対に帰ってくるから……」
「ああ、もちろんだとも。マリアンヌにそんなに親しいお友達がいて、お父様は安心したよ。楽しんできなさい……いつも家に気を遣わせて、苦労をかけているからね」
そこで、父は私の目を見つめて表情を固くした。
「マリアンヌ。明日、領地へ戻るお前に話しておきたいことがある」
「……何でしょう?」
父の手元には、母の実家であるジオン伯爵家から届いた手紙が置かれていた。
冷害による子爵家の困窮に対し、ジオン伯爵家からの援助にもいよいよ限界が見え始めていたのだ。
母が、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……あなたの嫁ぎ先について、打診があったのよ」
「……え?」
マリアンヌは目を瞬いた。
「ミッテラン公爵家から縁談の申し入れが届いたの。先代のミッテラン公爵……リチャード様からよ」
「……公爵家から? 私にですか?」
「ええ」
母は穏やかに頷いたが、その目には切なさが滲んでいた。
「リチャード様は六十代になられるわ。数年前に奥様を亡くされて、今はご嫡男に家督を譲り隠居されているのだけれど……『話し相手として、聡明な長女を迎えたい。レーベン家には十分な出資を約束する』とおっしゃってくださっているそうなの……」
「十分な……出資……」
マリアンヌは黙って俯いた。
弟のトーマスが『僕が大きくなって、お父様と一緒に家を支えるんだ』と笑っていた姿が、ふと脳裏をよぎった。
(私……なにを浮かれていたのかしら)
学園でのフレデリックとの甘い戯れ、恋の真似事――そんなものに夢中になっていた自分は、厳しい現実へと一気に引き戻された。
持参金すら用意できない子爵家。
将来は弟に爵位を継承させ、妹にも幸せな縁談を結んでやりたい。子爵家を助け、領民を守るためには、この縁談を受け入れることが、今の自分にできる唯一のことなのだ。
「……マリアンヌ? あなたは、大丈夫?」
母は、心配そうにマリアンヌを見つめた。
「六十代の方よ。あなたのお父様よりも随分と年上の方なのよ……。もちろん断ることもできるのよ?」
「いいえ」
マリアンヌは小さく首を振った。
「私はずっと、家のために結婚するつもりでしたから」
「……そう」
母はしばらく娘の顔を見つめ、それから涙を浮かべて微笑んだ。
「あなたには、いつも我慢をさせてしまうわね。でも、悪いご縁ではないと思うのよ……お母様は、あなたの決意を尊重します」
「ありがとうございます」
「でも、辛くなったらいつでも帰ってきていいのよ。家族で一緒に他の方法を話し合いましょう。そこだけは忘れないでちょうだい」
「……はい」
マリアンヌは微笑んだ。
お母様は、辛い話はここまでと、一度大きく手をパンッと叩き、楽しい話題に切り替えた。
「それで……今夜はお友達のお宅へ泊まるのよね?」
「ええ」
「そう。では、お友達にもよろしくお伝えしてちょうだい。それで? どちらのお宅のお嬢様かしら?」
母キャサリンの優しげな問いかけに、マリアンヌの身体はピシリと固まった。
あまりに当然の質問だったはずなのに、動揺していたせいで、咄嗟の答えを準備していなかったのだ。
「あっ、あの……ドーソン侯爵家の……」
「ん? ドーソン侯爵家といえば……名門だな。マリアンヌと同じ年のご嫡男がおられたはずだ。確か、王太子殿下の側近だと聞くが。優秀なご令息なのだろうね」
「そうね、素敵なご一家よ。あら? でも、あちらにご令嬢がいらしたかしら?」
「……えっと、あの! 他にもクラスメイトの皆さんが招待されているのよ。だから!……安心して」
「まあ、そうなのね。学園の皆さんと仲良くしていただけて、素敵なことね」
「ああ、本当だな。羽を伸ばしておいで」
両親から温かい言葉をもらえばもらうほど、胸の奥で罪悪感が黒く膨れ上がり、二人の顔をまともに見ていられなくなる。
嘘をついてまで向かう先が、フレデリックと二人きりになる場所だなんて、口が裂けても言えない。
(ごめんなさい、お父様、お母様……。これが私の、一人の娘としての最初で最後の我儘なの……)
◇
到着したドーソン侯爵邸の離れは、自宅である子爵家とは桁違いに豪華で、そして秘めやかだった。
用意されていた客室の扉が開くと、そこには普段の制服ではなく、くつろいだシャツを着たフレデリックが待っていた。
「……やあ、来たね」
案内役の侍従が去り、ふたりきりになった途端、フレデリックはどこか掠れた声で囁き、マリアンヌの手首を掴んで引き寄せた。
「っ……ふ、不躾ですわ、フレデリック様。ものには順序というものがありますのよ」
必死に指南書を頼りに、『遊び慣れた女』を演じようとするマリアンヌ。
しかし、フレデリックに抱きしめられて、耳元に熱い吐息が吹きかけられると、その強がりは一瞬で吹き飛んだ。
「順序? ……君が他の男と過ごすかもしれない冬休みの前に、俺を満足させてくれるんじゃなかったの?」
嫉妬を隠そうともしないフレデリックの瞳が、暗い熱を孕んでマリアンヌを射抜く。指先が彼女の髪をすくい、首筋から鎖骨へと優しく、けれど焦らすように辿っていく。
身体を抱きすくめられ、マリアンヌの肩口がかすかに震えた。逃れようと伸びかけた手は、けれど彼の胸元に触れたところで止まり、そのままそっとシャツを掴む。
ためらうように伏せた瞳。浅くなる呼吸。
そして、もう一度強く抱き寄せられたとき、マリアンヌは小さく息を呑みながら、力を抜いた。
いつしかドレスのリボンが静かにほどかれていく。
そのたびに胸の奥で迷いが揺れた。それでも彼女は、逃げることなく彼を受け入れた。
幾度も与えられる濃密なキス。手を引かれ、寝室へと誘われる。
(いよいよだわ……。これは、私自身が決めたこと。もう、後戻りはしない。だから……一度だけでいい。一度だけ、素敵な思い出が欲しいの。後悔なんて、しないわ……)
身体を抱きすくめられ、自然な流れでドレスが脱がされていく。
互いの体温が直接伝わるたび、マリアンヌの頭の中からは『遊び慣れた女』のふりも、『指南書』の知識も完全に消え去っていた。
フレデリックの指先が、私の左鎖骨に残る痕を優しくなぞる。
(あぁ……ダメ……。これじゃあ本当に、フレデリック様のことが……)
彼の手が背中に回り、寝台に押し倒された瞬間、マリアンヌはこぼれ落ちそうになる歓喜の涙を必死に耐えた。
逞しい胸に抱かれた温もりも、耳元で囁かれた甘い声も――すべて、いつか忘れなければならない。
だからこそマリアンヌは、自分の身体に刻み込むように、そっと彼の背中に腕を回し、その熱を受け入れたのだった。
フレデリックの過去の遊び相手は、経験豊かな令嬢や夫人ばかりだった。そのため、マリアンヌが見せた反応についても、彼は深く考えることがなかった。
その夜のフレデリックは、珍しく自分でも驚くほど夢中になっていた。
◇
翌日の早朝。
まだ薄暗い部屋に、外から鳥のさえずりが微かに聞こえ始めた頃。マリアンヌは息を殺して、そっとベッドを抜け出した。
一人でドレスを静かに整えながら、ふと昨夜のことを思い返す。
フレデリックに抱きしめられたときの温もり。耳元で囁かれた甘い声。何度も名前を呼ばれ、優しく触れられたこと。
どれも夢のように幸せで――だからこそ、マリアンヌには戸惑いがあった。
こんなにも幸せな時間を過ごしてしまったら、私はもう、この人と『恋の真似事』は続けられないわ。
視線を上げれば、ベッドで眠るフレデリックの美しい寝顔が見えた。
その穏やかな表情を見つめているうちに、胸の奥が締めつけられる。
――これは、夢ではない。
昨夜は確かに幸せだった。けれど、朝が来れば現実に戻らなければならない。
マリアンヌは、込み上げてくる感情をそっと押し込めた。
(さようなら、私の最初で最後の……素敵な思い出)
胸を刺すような痛みに耐えながら、マリアンヌは静かに部屋を後にした。
ドーソン侯爵家の侍女の案内を受け、ひっそりと用意された馬車で子爵邸へと向かった。
◇
朝日が窓から差し込み始めた頃。
ベッドで隣に寝ていたはずのマリアンヌを抱き寄せようと手を伸ばしたフレデリックの手がシーツの上を滑った。
「……ん? ……マリ……アンヌ?」
しかし、そこにあったのは冷たくなったシーツの感触だけだった。
跳ね起きるように身体を起こし、マリアンヌの姿を探し部屋を見回す。
テーブルの上には、彼女が身につけていた小さな髪留めのリボンだけがぽつんと残されていた。
「……まさか、帰ったのか? 俺を翻弄しておいて、置き去りにして」
フレデリックの瞳からいつもの軽薄な笑みが完全に消え去り、静かで恐ろしい執着の炎が揺らめいた。
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