第4話 揺らぐ距離感と、不穏な芽生え
午後の陽光が差し込む学園の渡り廊下で、マリアンヌは思いがけない人物と鉢合わせた。
カーメル伯爵家嫡男、ノーマン・カーメル。
三年前、家同士の政略によってマリアンヌの婚約者となり、今は元婚約者となった相手だ。
次期当主として厳しく育てられた彼は、実家の判断による婚約解消を静かに受け入れた。しかし、彼にとってマリアンヌが初恋の相手だったことを、彼女は知らない。
「マリアンヌ嬢。……最近、君とドーソン侯爵令息との噂を耳にしたんだが。彼には派手な噂が多い。真面目な君が遊ばれているんじゃないかと……」
今も彼女を気にかけるように眉をひそめるノーマン。
しかし、マリアンヌの心は至って冷ややかだった。
「カーメル伯爵令息様。お気にかけていただきありがとうございます。ですが、どうぞご心配なく。私も自分なりに考えておりますので」
失礼だと知りつつも、マリアンヌはノーマンの発言を途中で遮った。
彼はマリアンヌの思いのほか素っ気ない態度が余程意外だったのか、驚いた表情を浮かべて固まっている。
「本当に、ご心配には及びませんわ。もう、私のことはお気になさらず。こうして廊下で話すだけでも、新しいご婚約者様に申し訳ありませんわ」
ノーマンは先月、オマリオ子爵令嬢と新たな婚約を結んだばかりだ。
マリアンヌにとって、ノーマンは『政略上の元婚約者』でしかない。終わった関係にいつまでも囚われるほど、彼女の現実は甘くなかった。
一礼してその場を去るマリアンヌの背中を、ノーマンは寂しげに見送る。
そして――遠目からそのやり取りを目にしていたフレデリックの胸の中に、理由のない、黒く不快な苛立ちが芽生えていた。
(……元婚約者、か)
いつもの余裕ある微笑みが、ほんのわずかに陰る。
マリアンヌが自分以外の男に見せた冷淡な切り捨て方と、相手の男が残した未練がましい視線。それがなぜか、激しく彼の神経を逆撫でした。
◇
放課後の書庫の陰。
学園での秘密の逢瀬が始まって、すでに半年以上が経っていた。
幾度となく深まっていくキスと、強引に身体を抱き寄せられる甘い刺激。
着衣越しに互いの体温を感じ、指先が素肌を撫でる密やかな触れ合いに至るまで――相手が学園中の憧れであるフレデリックだからなのか、マリアンヌは拒むこともせず、されるがままにその愛撫を受け入れていた。
「……薄くなってしまったね」
ふと、フレデリックの指が、マリアンヌの左の鎖骨に残る赤紫色の痕をそっとなぞった。
「もう一度、残しておこうか」
フレデリックの唇がマリアンヌの肌を甘く吸うと、マリアンヌの身体が甘く痺れてた。
最初はただ、憧れの人と恋をしているような気分に浮かれていただけだった。
けれど、何度も顔を合わせ、キスを交わし、深く触れ合ううちに、いつしかフレデリックと過ごす時間は、マリアンヌにとってかけがえのないものになっていた。
来週からは二ヶ月の冬休みに入る。
マリアンヌの予定はすでに決まっていた。領地へ戻り、冷害から持ち直しつつあるワイン蔵の仕込みを手伝い、困窮する子爵家の帳簿を整理することだ。
(冬休みに入ると領地へ向かうことになる……。フレデリック様にはお会いできなくなるのね)
その事実が、思っていた以上に寂しいことに、マリアンヌはまだ気づかないふりをしていた。
乱れた襟元を整えていると、フレデリックにそっと手を取られた。彼の唇が指先に落とされ、その熱が伝わってくる。
(っ……!)
ドクン、と胸が跳ね上がった。
指南書に書かれていた『遊び慣れた女』の余裕など一瞬で吹き飛び、純粋な素の自分として、顔がカッと熱くなる。
(な、なに……。なんでこんなに心臓がうるさいの……っ)
『遊び慣れたふり』をするはずだった。それなのに、自分が本気で彼に惹かれ、恋に落ちつつある事実に気づき、マリアンヌは猛烈に狼狽した。
そんな彼女の動揺を知ってか知らずか、フレデリックは手を握ったまま低く問いかけてくる。
「マリアンヌ嬢は、冬休みの予定は? 次は、いつ会える?」
(え……?)
マリアンヌは思わぬ言葉に目を丸くした。冬休み中に会う気など、サラサラなかったからだ。
(なぜ? 遊ぶお相手ならたくさんいらっしゃるはずでは……? ……もしかしたら、あの指南書はそこまで優れた本だったの……)
「……私、休暇中の遊び相手には不自由してはおりませんの。それに……領地で遊び相手と過ごす予定ですので、お会いするのは無理ですわ」
動揺を隠すため、必死に指南書の記載通りに『気のない女』を演じてみせるマリアンヌ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、フレデリックの瞳の奥にスッと冷たい光が宿った。昼間見かけた元婚約者の姿と、『領地で過ごす遊び相手』という言葉が重なる。
「……わかった。それじゃ、冬休みの前にうちに遊びにきてよ。部屋を用意させる」
「……っ! は、はい……? 侯爵邸にですの……?」
思わず素の声が出そうになり、マリアンヌは慌てて口元を隠した。
未婚の令嬢が男性の邸宅に一人で泊まりがけで遊びに行くなど、淑女の嗜みとして論外である。
「冗談がお上手ですのね、フレデリック様。いくら私でも、そこまで無分別ではございませんわ。それに、先ほども申し上げました通り、休み前の準備で予定が詰まっておりますの」
「……俺が冗談を言っているように聞こえた?」
フレデリックはフッと目を細めると、逃げようとしたマリアンヌの手首をすかさず捕まえ、ぐっと書棚へと追い詰めた。至近距離で見下ろされた彼の瞳には、いつもの軽薄な余裕はなく、どこか昏い熱が宿っている。
「『遊び慣れた女』が、今さら部屋に誘われたくらいで怯えるなんて変だろう? それとも……俺の誘いは受けられない理由でもあるのかな。例えば――元婚約者との約束で忙しい、とか」
「っ……。の、ノーマン様は関係ございませんわ。それに、怯えてなど……っ」
「なら、断る理由はないよね」
耳元で囁かれる低く甘い声。彼の吐息が首筋にかかり、マリアンヌがぶるっと震える。
(う、うう……っ。『遊び慣れた女』を装っている手前、ここで本気で嫌がったら『本当は未経験なこと』がバレてしまう……)
自らが仕掛けた『遊び慣れた女』という設定が、完全に己の首を絞めていた。
「それとも……俺が君の『遊び相手』としては、不満だったかな?」
「そ、そんなことは……ございませんわ」
「じゃあ、決まりだ。二学期の最後の日の夜、子爵家に迎えを出すよ」
「……っ、わかりましたわ。そこまで仰るなら、お邪魔しますわ……」
これ以上追及されたら墓穴を掘ると悟り、マリアンヌは涙目になりながら、精いっぱいの『余裕ぶった女の笑み』を引きつらせて頷くのが精一杯だった。
(フレデリック様のお屋敷に……。でも……あと少しでもう会えなくなるのだから。素敵な『恋』の思い出が作れるかもしれないわね)
微笑んでいるはずなのに、睨みつけられているようなフレデリックの視線に、マリアンヌの心はざわめいていた。
押し寄せる不安と動揺を押し込め、マリアンヌは自分に言い聞かせるように、そっと胸元に手を当てた。
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