第3話 遊び人と『ただのクラスメイト』の甘い放課後
教室でのふたりは、これまでとなんら変わらない。
挨拶以外の余計な言葉は交わさず、マリアンヌは徹底してフレデリックに視線を向けなかった。これまで通り、優等生として机に向かい、真面目にノートを取る姿はいつも通りだ。
しかし、変化が生じたのはフレデリックの側だった。
(……本当に、視線ひとつ寄せてこないな)
ふと気づけば、ペンを動かす彼女の指先や、微風に揺れる栗色の髪を目で追っている自分がいる。
数日前の四阿で見せた、あのちぐはぐで妖しい微笑みが頭から離れない。
学園中の令嬢が自分に媚びを売る中で、彼女だけが『約束通り』に素っ気なく振る舞っていた。
そして訪れた、放課後の図書室。
奥まった人目のつかない書庫の陰が、ふたりだけの秘密の逢瀬の場所だった。
「お待たせいたしましたわ、フレデリック様」
帰り支度をしたマリアンヌが本棚の陰に入った瞬間、彼女は仕草を一変させた。
指南書に書いてあった通り、ほんの少し首をかしげ、気怠げな笑みを浮かべて見上げる。
しかし次の瞬間、フレデリックの手がしなやかに彼女の腰へ回り、ぐっと自分の身体へと引き寄せられた。
「……ッ!?」
不意をつかれ、息が詰まるマリアンヌ。
密着した胸元から彼の体温が直接伝わってくる。
変な声を上げそうになるのを必死に抑え込み、彼女は引きつりそうな唇で必死に『遊び慣れた女』を演じた。
「あら……さすがは手慣れていらっしゃること。挨拶代わりに抱き寄せるなんて、噂通りの手早さですのね」
「……君が約束を破って来ないかと思ってね。やっと会えたんだ、逃げられないように捕まえただけさ」
フレデリックが壁に手を突き、彼女の逃げ道を完全に塞ぐ。息が触れ合う距離で視線を交わした。
一瞬、マリアンヌの肩がピクリと跳ねた。心臓がうるさいほど脈打ち、頭の中の指南書がパラパラと音を立ててめくられていく。
(第二章『唇を許すのは、気まぐれな戯れのように』……っ! 動揺してはダメ、私は遊び慣れた女……!)
マリアンヌはゆっくりと目を閉じ、そっと顎を上げた。
心細さから、薄目を開けそうになるのを我慢して、ギュッと目を閉じる。
触れ合ったのは、羽毛が掠めるような微かなキス。
ほんの数秒の出来事だったが、マリアンヌにとっては永遠のようだった。内心の動揺を必死に押し殺し、わずかに目を開けると、あえてフッと不敵に微笑んでみせる。
「……ふふ、まあまあですわね。このような自由な関係も、悪くありませんわ」
強がるマリアンヌの耳は、やはり隠しきれずに真っ赤に染まっていた。そんな彼女の可憐さに、フレデリックの胸が妙に熱くなる。
(無垢なふりをしているだけなのか? これも駆け引きの一つだとしたら......面白いな)
遊び慣れた女を演じようと必死なマリアンヌの仕草には、ふとした瞬間に隠しきれない初々しさが滲んだ。堂に入った言葉や仕草と、隠しきれない初々しさ。そのちぐはぐさが、かえってフレデリックには魅力的に映った。
「あら?」
マリアンヌの視線が、フレデリックの上着の袖口にとまる。
「袖口のボタンが取れかけていますわね。一度、脱いでください」
「あ? ああ。家に帰ったら侍女に渡すよ」
「……でも、すぐに済みますわ」
そう言うやいなや、マリアンヌは自前の裁縫道具を鞄から取り出した。
「さあ、上着をお脱ぎくださいな」
「……じゃあ、まあ、ほら」
差し出された上着を受け取り、マリアンヌは、慣れた手つきで針に糸を通した。
先ほどまでの『遊び慣れた女』の面影はすっかり消え、そこにあるのは、物を大切にする心優しく真面目な少女の素顔だった。
「子爵家の令嬢が、裁縫道具を持ち歩いてるのか?」
「我が家には幼い弟や妹がおりますから。ボタンの付け直しや補修くらい、日常茶飯事ですの……あっ」
口を滑らせたことに気づき、マリアンヌはハッと口を噤んだ。指先を小刻みに動かしながら、気まずそうに咳払いをする。
「……こ、コホン。いいえ、ただの気まぐれですわ。男の身だしなみを整えるのも、女の嗜みでしょう?」
慌てて指南書の付録『失敗したときの切り返し』に書かれていた、『失敗したときこそ、堂々と。女は動揺を見せてはいけない』を実践するマリアンヌ。
しかし、丁寧に縫い合わされていく糸と、弟妹を語ったときの柔らかな瞳を見れば、彼女がどんなに家族思いで温かい人間かなど一目瞭然だった。
「……できましたわ。さあ、どうぞ」
手渡された上着を受け取りながら、フレデリックは自分の胸の奥がざわつくのを感じていた。
言葉や仕草でどれだけ『遊び慣れた女』を演じようとしても、溢れ出てしまう優しさ。
(なんなんだよ、本当に……)
これまでに出会ってきたどの女性とも違うマリアンヌ・レーベンという存在が、フレデリックの心を、少しずつ、確実に溶かし始めていた。
◇
翌日の午後、講義が終わり、学園内に設えられた王族専用の特別閲覧室には、三人の若者が集っていた。
豪奢な彫刻が施された円卓には、この国の次期国王たるエドワード王太子。
黄金の髪と理知的な瑠璃色の瞳を持つ彼は、若くしてすでに王者たる威厳と洞察力を備えている。
その隣で、歴史書を読んでいるのは公爵令嬢イザベル・ヴァルモント。
気品あふれる美しい佇まいと高い教養を兼ね備え、誰もが認めるエドワード王太子の理想の婚約者だ。
そして、ふたりの向かいでどこか気だるげに書籍を眺めているのが、彼らの幼馴染であり側近でもある侯爵令息フレデリックだった。
「フレデリック。最近、放課後になるとさっさと帰るようだな」
書籍から目を離さず、エドワードが声をかけた。その言葉に、フレデリックは肩を竦めた。
「別に。なにしろ俺は人気者だからな」
「ふふ、本当にね。フレデリックの隣は令嬢達の争奪戦がすごいものね」
イザベルが朗らかに微笑み、フレデリックに温かな視線を向ける。
彼女の瞳に宿る柔らかな輝きを目にした瞬間、フレデリックの胸がわずかに痛んだ。
(……相変わらず、綺麗だな)
幼い頃から共に過ごしてきた三人。
イザベル・ヴァルモント。
親友であり、己が一生をかけて仕えるべき王太子エドワードの婚約者。
彼女の隣に立つのはエドワードであり、自分はただの『幼馴染』で、『側近』でしかない。その境界線を越えることは決して許されない。
だからこそフレデリックは、誰とも深く付き合わず、来るもの拒まず去る者追わずの『遊び人』という仮面を被り続けてきたのだ。
けれど――。
(マリアンヌ……)
最近、脳裏に浮かぶのは、『遊び慣れた女』のようでもあり、それでいて昨日自分の上着のボタンを丁寧に縫い直してくれた、あの令嬢の姿だった。
イザベルへの片想いに苦しんできたフレデリックの胸に、マリアンヌへの新たな感情が、少しずつ芽生え始めていた。
「なんだよ。何か気になることでもあったか? エドワード」
「いや。ただ、いつものお前の表情とは少し違うように見えただけだ」
エドワードは、ページ捲る指を止め、瑠璃色の瞳でじっとフレデリックを見つめていた。
鋭い王太子の観察眼は、フレデリックの僅かな変化を見逃していなかった。
「お前が何かに執着するような目をしているのは、幼少期以来だな」
「……気にしすぎだぜ、王太子殿下」
フレデリックはいつもの軽薄な笑みを貼り付け、立ち上がった。
「そろそろ時間だ。俺は予定があるから、お先に失礼するよ」
軽く手を振って閲覧室を去っていくフレデリックの背中を、エドワードは静かに見送る。
「……『傷』を埋める何かを見つけたのなら、それに越したことはないか」
エドワードから小さな呟きが漏れた。
「え? 何かおっしゃいましたか?」
「......いや、なんでもないよ。イザベル」
去っていく友の背中に、エドワードはどこか面白がりつつも、温かな眼差しを向けていた。
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