エピローグ 六十歳の初恋
マリアンヌ・ミッテランが六十歳を迎えた年、彼女のもとに、思いがけない客が訪れた。
フレデリック・ドーソン。
かつて、学園一の遊び人と呼ばれた男も、今ではすっかり落ち着いた紳士となっていた。
彼は二十七歳で再婚し、十歳年下の伯爵令嬢を妻に迎えた。
彼女を妻として大切にし、思いやりを持って接した。二人の息子にも恵まれ、ドーソン侯爵家の後継者問題も解決し、家門は安泰となった。
だが、五年前。
妻は流行病に倒れ、四十五歳という若さで帰らぬ人となった。
息子たちはすでにそれぞれ伴侶を得ている。父親として、侯爵家の当主としての責務も、彼は果たし終えていた。
一方、マリアンヌは再婚することなく、ミッテランの名を守りながら、自らの事業を育て続けていた。
両親はすでに鬼籍に入ったが、生前は子爵家の安定を見届け、穏やかな晩年を過ごした。
弟のトーマスはレーベン子爵家を継ぎ、葡萄畑を拡大。領地経営も大きく発展させた。その背景には、姉の助言と、彼女が築いた財産からの支援があった。
妹のメリッサも、学園時代の同級生だったジャッカス伯爵家の嫡男に嫁ぎ、幸せな家庭を築いている。
二人の子供は、それぞれ三男二女。どちらも子沢山であった。
マリアンヌは甥や姪たちから『マリー叔母様』と慕われ、誰かしらが屋敷に泊まりに来ては、賑やかな声が響き渡る日々を過ごしていた。
彼女は、決して孤独ではなかった。
そして、フレデリックの別れた妻であるエレオノーラもまた、かつての婚約者と再婚し、幸せな人生を歩んでいた。落馬の後遺症で歩行が不自由になった夫を支えながら、奇跡的に子供にも恵まれたのだという。
それぞれが、それぞれの人生を選んだ。
そうして長い年月が流れた今、フレデリックは再びマリアンヌの前に立っていた。
◇
「……それで?」
向かい合って座るマリアンヌは、目の前の男を見つめた。
「私に、何かお話があるのでしょう?」
「ああ」
フレデリックは少し照れくさそうに笑った。
「マリアンヌ。君に、もう一度プロポーズしたい」
「……まあ」
彼女は目を丸くしたあと、呆れたように笑った。
「あなた、六十歳にもなって、まだそんなことをおっしゃるの?」
「六十歳だからこそ、だよ」
彼は穏やかな眼差しで彼女を見つめた。
「もう、家のために結婚する必要もない。誰かの期待に応えるために、人生を決める必要もない。残された時間を、誰と過ごしたいのか。今度こそ、自分の意思で選びたいんだ」
「……そう」
「もちろん、君が望まないのなら、無理強いはしない。これまでどおり、友人として付き合ってくれるだけでも、私は十分に幸せだから」
若い頃の彼なら、こんな言葉を口にすることはなかっただろう。
相手の気持ちを確かめることもなく、自分が憧れの対象であることを当然のように思っていた、あの頃。
けれど、今の彼は違う。
マリアンヌの答えを待つその姿に、かつての傲慢さはなかった。
彼女は、しばらく彼を見つめて、小さく息を吐いた。
「私は、六十歳の旦那様と結婚する運命なのかしらね……」
「ぷっ! ははは。そうかもしれないね」
フレデリックは、心底嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、マリアンヌもつられて微笑む。
「でも……」
彼女は、ふと思い出したように続けた。
「でも……誰かと手を繋いで、その日にあったことをあれこれ話しながら眠る。そんな暮らしには憧れるわね」
「……マリアンヌ」
「ふふ。六十歳になってから、初めて経験することもあるのね」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
「これからが楽しみだわ、フレデリック様」
フレデリックは、彼女の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと微笑んだ。
「ああ。私もだよ」
フレデリックは、少し迷ったあと、口を開いた。
「マリアンヌ、それは……リチャード閣下とは」
「ええ」
マリアンヌは、懐かしそうに目を細めた。
「リチャード様は、私を話し相手として大切にしてくださったわ。たくさんのことを教え、導いてくださったの。私の意見にも耳を傾けてくださったし、私が自分の人生を選ぶことを、いつも尊重してくださった」
彼女は窓の外へと視線を向けた。
そこには、穏やかな午後の日差しが降り注いでいた。
「私は、リチャード様のもとへ嫁いで、本当に幸運だったと思うわ」
「……そうか」
フレデリックは静かに頷き、向かいのソファから立ち上がると、マリアンヌの隣へ移動した。
友人として長年付き合う中で、彼は彼女が自分の人生を切り拓いていく姿を見守ってきた。リチャード閣下と過ごした年月も、夫を失った悲しみも、そこから立ち上がり、自らの力で人生を築いてきた日々も。すべてが、今のマリアンヌを形作っている。
嫉妬がなかったわけではない。それでも、彼女が歩んできた人生を否定したり、誰かと比べたりするつもりはなかった。
若い頃のような激しい恋心だけではない。
今の彼が望むのは、彼女の歩んできた人生を丸ごと受け入れ、残された時間を隣で共に過ごすことだった。
「……マリアンヌ」
「なあに?」
「これからは、私に君の隣にいることを許してほしい」
彼女は微笑んだ。
「ええ。よろしくね、フレデリック様」
六十歳になった二人は、ようやく新たな一歩を踏み出した。
それは、若い頃の恋の続きを始めるということではなかった。それぞれが歩んできた人生を抱きしめたまま、これからの時間を共に生きること。
初恋は、決して戻らないけれど、人生には、思いがけない形で新しい恋が訪れることもある。
マリアンヌは、隣に座る男の手に、そっと自分の手を重ねた。
かつては、彼の手を取ることができなかった。
今は、自分の意思で、その手を取ることができる。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
過去は過去のまま、変わらない。
それでも、二人の未来は、まだここから始まるのだった。
みんなまとめて、ハッピーエンド
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