↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】遊び人侯爵令息が後悔した頃、『遊び慣れた女』を演じた貧乏子爵令嬢は別の男に嫁いでいく  作者: 恋せよ恋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/22

第21話 過去ではなく未来へ

 王都に、冬の気配が漂い始めていた。

 マリアンヌは執務机に向かい、新しい事業の契約書に目を通していた。


 カーメル伯爵家との共同事業も、少しずつ軌道に乗り始めていた。


 航路変更を巡る不審な契約については、商業組合による調査が進み、不当な手数料の請求も見直されることになった。失われた船の行方はいまだ分からないものの、カーメル伯爵家は取引先との関係を一つずつ立て直しつつある。


 ノーマンも、以前より落ち着いた表情で商談に臨めるようになっていた。


 街道沿いの倉庫の確保、輸送業者との契約、各地の商人との取引条件。確認すべき項目はまだ残っているが、計画は順調に進んでいる。



「うーん……今日も忙しい一日だったわね」


 マリアンヌは椅子の背にもたれ、両腕を頭上に伸ばした。


 誰かに頼まれたからではない。家族のために仕方なく引き受けた仕事でもない。自分がやりたいと思ったから、取り組んでいる。


 そのことが、マリアンヌには新鮮だった。



「奥様、お客様がお見えです」


 侍女の声に、マリアンヌは顔を上げた。


「どなたかしら?」


「フレデリック・ドーソン様でございます」


 その返答に、ペンを持つ手が、ほんの一瞬止まった。


 フレデリック。その名を聞いても、かつてのように胸が高鳴ることはなかった。

 それでも、懐かしさが胸の奥をかすめた。彼は、マリアンヌが初めて恋をした人だった。忘れようとして忘れられるような、軽い思い出ではない。


 マリアンヌは机の上の書類を整え、静かに息を吐いた。


「応接室にお通しして」


 ◇


 応接室に入ると、フレデリックは窓辺に立っていた。


 彼はマリアンヌの姿を認めると、ゆっくりと振り返った。


「急に訪ねて申し訳ない。忙しいと聞いていたから、迷ったんだが……どうしても、もう一度話をしておきたかった」


「お久しぶりです、フレデリック様」


 マリアンヌは穏やかに微笑んだ。


「お掛けになってください」


 二人は向かい合って腰を下ろした。


 (十七歳の私は、フレデリック様と逢瀬を重ねるたびに、胸の高鳴りを抑えるのに苦労したものね……)


 マリアンヌの心に、かつての少女の想いが蘇った。


 あの頃は、そんな自分を、彼に知られたくなかった。

 だから、遊び慣れた女性を演じた。本当は何も知らないのに、指南書を丸暗記して、何でも知っているような顔をした。


 彼の隣にいるためなら、少しくらい無理をしても構わないと思っていた。今となっては、懐かしい記憶だった。



「君が新しい事業を始めると聞いた」


 フレデリックの声に、意識が現実に引き戻される。


「……ええ。まだ準備の段階ですが」


「カーメル家の件も、君が中心になって解決へ導いたそうだね」


「ノーマン様の協力があったからこそです。私一人では、できることにも限りがありますから」


 フレデリックは、彼女の顔を見つめた。

 落ち着いた口調も、相手の功績をきちんと認めるところも、以前のマリアンヌと変わらない。


 けれど、何かが違っていた。

 マリアンヌの顔を見ていると、フレデリックは、胸の奥が締めつけられるような気持ちになった。


「マリアンヌ……夫人」


 気づけば、彼は彼女の名を呼んでいた。


「はい」


「……謝りたかったんだ」


 マリアンヌは、わずかに目を見開いた。


「君が『遊び慣れた女性』を演じながらも、俺を好きでいてくれたことに、俺は甘えていたのだと思う」


 フレデリックは、自分の手元に視線を落とした。


「君は、俺の前ではいつも頬を染めていた。だから、君も俺と同じように、二人の時間を楽しんでいるのだと思っていた」


 それは、嘘ではなかった。

 マリアンヌは確かに、彼と過ごす時間を幸せに思っていた。


 ただ、その幸せを守るために、どれほどの気持ちを隠していたのか。

 フレデリックは知らなかった。


「君が何を望んでいるのか、俺は真剣に考えたことがなかった。君がいつか俺の前からいなくなるなんて、想像もしていなかったんだ」


 フレデリックは、小さく息を吐いた。


「君が去ってから、ようやく気づいた。俺は、君と過ごした時間を遊びの延長だと思っていたくせに、その時間が永遠に続くような気でいたんだ」


 応接室に、静かな沈黙が落ち、窓の外から、風に揺れる木々の音が聞こえた。


「もっと早く、君の気持ちを考えるべきだった。君が何を望んでいるのか、何を不安に思っているのか、きちんと尋ねるべきだった」


 フレデリックは顔を上げた。


「今さら、こんなことを言っても遅いのは分かっている。それでも、一度きちんと謝りたかった。すまなかった、マリアンヌ」


 マリアンヌは、すぐには答えなかった。

 彼の言葉を聞きながら、遠い日の自分を思い出していた。


 彼に相手をしてもらうために、必死で遊び慣れた女を演じていた少女。

 好きだと言いたいのに、言えなかった少女。

 いつかこの『恋の真似事』が終わると分かっていながら、その日が来ることを恐れていた少女。


 ただ一つ確かなのは、あの一年間が、マリアンヌにとってかけがえのない時間だったということだ。


「ありがとうございます、フレデリック様」


 マリアンヌは、静かに口を開いた。


「あなたがそう思ってくださったことは、嬉しいです」


「マリアンヌ……」


「私も、あなたをお慕いしていました」


 フレデリックの表情が揺れた。


「卒業までの一年間。あの頃の私は、あなたと過ごせる時間が何よりも大切でした。いつか終わると分かっていても、あなたと一緒にいられることが嬉しかったのです」


 マリアンヌは、少しだけ微笑んだ。


「だから、あの恋を後悔してはいません」


 その言葉を聞いたフレデリックは、唇を結んだ。


 彼女の言葉は優しかった。けれど、その優しさが、二人の過去をもう一度始めるためのものではないことも分かっていた。


「でも……」


 マリアンヌは、窓の外へと目を向けた。


「私は、もうあの頃の私ではありません」


 彼女の声は穏やかだった。


「あなたと別れたあと、私は結婚しました。リチャード様と過ごした五年間は、私にとって大切な時間です。彼から学んだことも、彼と一緒に経験したことも、今の私を支えてくれています」


 リチャードの名を口にしても、彼女の心に罪悪感はなかった。

 フレデリックを愛したことも、リチャードと人生を共にしたことも、どちらも彼女の人生の一部だった。


 片方を否定しなければ、もう片方を大切にできないわけではない。


「私は、あなたに恋していた頃の自分も、リチャード様と過ごした時間も、どちらも大切に思っています。けれど、学園時代に戻りたいとは思いません」


 マリアンヌは、再びフレデリックを見つめた。


「今の私には、今の私の人生がありますから」


 フレデリックは、何も言えなかった。

 彼女が自分を責めているわけではないことは分かった。かつての恋を否定しているわけでもない。ただ、彼女は前を向いている。自分と過ごした一年間を、彼女の人生の一部として、受け入れているのだ。


 できることなら、もう一度やり直したかった。

 今なら、彼女の話に耳を傾け、何を望んでいるのかを知ろうとするだろう。けれど、それはもう叶わない。マリアンヌは、かつての恋を大切な思い出として受け入れ、その先に自分の人生を築いている。


 フレデリックは、膝の上で握りしめた手を、ゆっくりとほどいた。

 それが、彼女の答えだった。


「……そうか」


 フレデリックは、かすかに笑った。

 笑顔を作るのが、こんなにも難しいとは思わなかった。


「君らしいな……話を聞いてくれて、ありがとう」


「こちらこそ、来てくださってありがとうございました」


 マリアンヌは立ち上がった。


 フレデリックも立ち上がり、彼女に一礼した。


(さようなら、私の初恋。あなたに恋した日々も、私の大切な人生の一部だわ)



 フレデリックは扉の前で足を止めた。


「マリアンヌ」


「はい?」


「君のこれからが、幸せなものであるように願っている」


 マリアンヌは、少し驚いたように彼を見つめた。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます。フレデリック様も」


 それが、二人の最後の言葉になった。


 ◇


 フレデリックが帰ったあと、マリアンヌはしばらく応接室に立っていた。

 窓の外では、風に揺れた木の葉が一枚、石畳の上に落ちた。


 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


 不思議なことではない。どれほど時間が経っても、かつて大切だった人との別れに、何も感じなくなるわけではないのだろう。


 マリアンヌは、ゆっくりと息を吐いた。

 長い間、心の片隅に置いていたものが、ようやく静かな場所に収まったような気がした。


 初恋は、終わった。


 けれど、それは彼女の人生が終わるということではない。


 ◇


 翌朝。マリアンヌは、執務机に新しい契約書を広げていた。

 陸路の流通事業について、商人との最終的な合意が成立したのだ。


 運営に関する権限も、利益の配分も、彼女が求めた条件がきちんと盛り込まれている。


 これから忙しくなるだろう。


 リチャードと過ごした日々がなければ、今の自分はなかったかもしれない。

 マリアンヌは、胸の中で静かに彼の名を呼んだ。


 ――リチャード様。私は、これからも自分の人生を歩んでいきます。


 それは、誰かに許しを求める言葉ではなかった。

 彼から受け取ったものを胸に、自分の足で進んでいくという決意だった。


 彼女はペンを走らせた。


 マリアンヌ・ミッテラン。


 署名を終えると、彼女は契約書を揃え、窓辺へと歩み寄った。

 陽の光が、冬枯れの庭木を照らしている。


 かつて、マリアンヌは初恋に期限をつけた。

 卒業までの一年間。その後は、家族のために生きるのだと決めていた。


 初恋を失い、リチャードと人生を共にし、そして彼を見送った。

 思い描いていた未来とは違っていたけれど、その一つひとつが今の自分を形作ってくれた。だからこそ、これから先の人生も、自分の意思で選んでいきたい。



 彼女は、これから始まる新しい一日へと、静かに歩き出した。


 ――過去ではなく、未来へ。


 マリアンヌの人生は、これからも続いていく。


 ハッピーエンド


「面白かった」と思っていただけましたら、

・ブックマーク

・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて

ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。