第18話 自分のための人生
立ち上がったばかりの提携事業において、まず着手されたのは、沈没および消息不明が続いていたカーメル伯爵家の貿易船に関する再調査であった。
「マリアンヌ夫人……本当に、私どもの船の調査にここまで力を貸していただいてよろしいのですか」
書類が山積みになった執務室で、ノーマンは恐縮と困惑が入り混じった面持ちで頭を下げた。
だが、対面に座るマリアンヌの眼差しには、一切の揺らぎもなかった。
「ええ、ノーマン様。これは同情や個人的な感情で行う支援ではありません。ミッテラン家が保有していた海路の気象データと、王都の港の流通の記録を照合した結果、カーメル家の三度の船の災難には不可解な点が多すぎます。……これは純粋な『投資』であり、事業のリスク管理ですわ」
マリアンヌの口から淀みなく突かれる経営的な指摘と、亡き夫リチャードから仕込まれた緻密なリスク分析。ノーマンはただ圧倒され、同時に彼女への深い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
(学園時代から優秀ではあったが、彼女がこれほどまでに頼もしく、聡明な事業家になられているとは……)
ノーマンの胸に宿っていたのは、甘い恋情などではなかった。
かつて家門の事情で彼女の手を放してしまった未熟な自分への反省と、目の前で自分の足で立つ一人の気高き事業家への、純粋な敬意であった。
「……承知いたしました。貴女の知恵と我が家の流通網を合わせ、必ずや船の消息と原因を突き止めて見せます」
二人はしっかりと固い握手を交わした。
マリアンヌにとって、男性との関係はもう『守られるか』『恋をするか』だけのものではなかった。互いの能力を認め合い、対等に未来を創り出す同志――それが、今の彼女が得た新しい人間関係の形だった。
◇
それから数週間後。
王都の商業ギルドの大広間では、名だたる貴族や有力商人が集う商談会が開催されていた。
その会場の片隅で、フレデリックは呆然と立ち尽くしていた。
彼の視線の先には、数人の気難しい大手商会の会長たちを前に、一切気後れすることなく商談を進めるマリアンヌの姿があった。
「今回の航路変更による損失については、こちらの記録をご覧ください。天候による影響だけでは説明のつかない点がございます」
マリアンヌが書類を差し出すと、商会長の一人が眉をひそめた。
「しかし、船の消息が途絶えた以上、これ以上の調査には相応の費用がかかるでしょう。投資に見合う成果が得られる保証はありませんな」
「ええ。ですから、調査の範囲と費用の上限を、あらかじめ契約に定めております」
彼女は少しも慌てなかった。
「損失を恐れて何も調べなければ、同じ危険が繰り返される可能性があります。原因を特定し、再発を防ぐこと。それもまた、商売を続けるうえで必要な投資だと考えておりますわ」
隣に立つノーマンが、彼女の言葉を引き継いだ。
「カーメル家の流通網を活用すれば、調査にかかる時間も短縮できる見込みです。もちろん、費用と利益の配分については、提携各社に不利益が生じないよう、明確に定めております」
二人は互いの言葉を補いながら、会長たちの疑問に一つずつ答えていった。
やがて、最初に難色を示していた会長が、手元の書類を閉じた。
「なるほど。そこまで考えておられるのでしたら、こちらも前向きに検討させていただきましょう」
「ありがとうございます」
マリアンヌは優雅に微笑んだ。
その横顔を見つめながら、フレデリックは息をすることさえ忘れていた。
(俺の知らない五年間で、彼女はこんなにも変わったのか……)
かつての自分は、彼女との再会を、失われた恋を取り戻す機会だと考えていた。
もう一度想いを伝えれば。今度こそ彼女を大切にすると誓えば。いつか、彼女も自分を選んでくれるかもしれないと。
けれど、それはすべて、自分が望む未来だった。
マリアンヌは彼の知らない時間を生き、自分自身の手で未来を切り拓いてきた。
そして今も、自らの判断で商会長と交渉し、自らの責任で事業を進めている。
彼女の人生は、彼が思い描く未来を実現するためにあるのではない。
その当たり前のことを、フレデリックはようやく理解し始めていた。
◇
商談が終わると、マリアンヌの周囲には、彼女の手腕を称賛する商人たちが集まった。
「ミッテラン夫人がこれほどの事業を手がけられるとは、驚きました」
「亡きご主人から学ばれたことを、ご自身の力に変えていらっしゃるのですな」
「恐れ入ります。まだ学ぶことばかりですわ」
マリアンヌは一人ひとりに丁寧に応じていた。
その様子を眺めながら、フレデリックは胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
彼女は、リチャードと過ごした年月を自分の人生の一部として受け入れ、その時間から得たものを糧にしている。
自分と別れたあとも、当たり前のように彼女の時間は流れていた。
彼女は、誰かに守られるのを待つだけの女性ではなかった。自分がいなくても、自らの足で立ち、彼の知らない世界で新しい未来を築いていた。
その事実が、フレデリックの胸に重くのしかかった。
ふと、こちらを向いたマリアンヌと目が合う。
彼女は驚くこともなく、穏やかに会釈した。
フレデリックも、反射的に頭を下げた。
このまま声をかけなければ、彼女は再び人々の輪に戻っていくだろう。
それで終わりだ。
もう一度、話をしたい。できることなら、彼女の隣に立ちたい。
そう願う自分が、まだここにいる。
「マリアンヌ、俺は……」
思わず声が漏れた。
だが、そのときだった。
「マリアンヌ夫人、先ほどの契約について、もう一つ確認させていただきたいのですが」
ノーマンが彼女に声をかけた。
「ええ。では、こちらでお話しいたしましょう」
マリアンヌはフレデリックにもう一度だけ会釈すると、ノーマンとともに歩き出した。
その足取りに、迷いはなかった。
彼女はフレデリックから逃げたわけではない。彼を傷つけようとしたわけでもない。
ただ、自分が進むべき道を歩いているだけだった。
フレデリックは、口を開きかけたまま立ち尽くした。
マリアンヌの背中を追いかければ、もう一度、自分の想いを伝えることはできるだろう。
もしかしたら、彼女が立ち止まり話を聞いてくれる可能性もある。だが、それは本当に彼女の望むことなのだろうか。
彼女はすでに、自分の気持ちに答えを出している。
それでもなお、もう一度振り向いてほしいと願うのは、自分の未練を彼女に背負わせることではないのか。
フレデリックは、ゆっくりと口を閉じた。
(……もう、君の人生を、俺の望みで変えようとしてはいけない)
その言葉を胸の内で繰り返すと、喉の奥がひどく苦しくなった。
彼女を愛している。
今でも、きっとこれからも。
それでも、彼女が自分を選ばなかったことを、受け入れなければならない。
フレデリックは静かに目を伏せた。
彼女の背中は、もう追わなかった。
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