第17話 遠回りをした二人の足音
マリアンヌは、ミッテラン先代公爵から引き継いだ事業や資産の管理に追われていた。
フレデリックからの手紙は、引き出しの奥にしまわれたままだったが、無理に彼を忘れようと努力するまでもなく、マリアンヌの日常は、自分自身の未来で満たされていた。
そんな折、マリアンヌは王都の商業ギルドで、懐かしい人物の噂を耳にした。
「カーメル伯爵家が、ずいぶんと厳しい事態に追い込まれているらしい」
「ああ。前伯爵が病に倒れられての当主交代だそうだ。さぞかし、大変なことだろうな」
悪天候によって仕入れの船が相次いで沈没し、信用の回復にも苦心しているという。
若きカーメル伯爵――ノーマン。
かつて、マリアンヌが十四歳の頃に婚約していた相手だった。
あの破談は、彼自身が望んだものではなかった。
家門の事情に従いながら、最後まで申し訳なさそうに頭を下げていた姿を、マリアンヌは今も覚えている。
(あの頃、私たちは家の事情によって婚約を解消するしかなかった。けれど、ノーマン様が誠実な人だったことまで、なかったことにはならない)
今のマリアンヌには、彼の人柄だけでなく、カーメル家の商いにも価値を見いだせた。助けるのではない。互いに利益を得られる道があるのなら、手を組めばいい。
その後、ノーマンは家の命に従い、オマリオ子爵令嬢と結婚した。しかし、仕事に打ち込む彼と妻の心は通い合わず、伯爵家が経営不振に陥ると、二人は離縁することになったという。
(彼の誠実さを、今度は事業の場で確かめてみたい)
まず、カーメル伯爵家の現状を調査した。
すると、ノーマンは資金繰りに苦しんでいるものの、取引先への支払いを優先し、家門の利益だけを考えた無理な契約を拒んでいること。カーメル家の信用を回復するために奔走しているが、目先の利益を求めて長年の取引先を切り捨てることはできずにいることがわかった。
数日後、事業の建て直しのため一人書類と格闘していたノーマンのもとへ、マリアンヌからの正式な訪問要請が届いた。
◇
現れたマリアンヌは、かつての真面目だった少女ではなく、気品と圧倒的な知性を備えた『事業家・ミッテラン先代公爵夫人』であった。
「お久しぶりでございます、カーメル伯爵」
「マリアンヌ夫人……!? この度は、なぜ、我が家へ……」
驚きと申し訳なさで身をすくめるノーマンに対し、マリアンヌはふわりと穏やかな、けれど貫禄のある笑みを浮かべた。
「同情や昔の誼でお力になろうというのではございません。私は、あなたの誠実な仕事ぶりと、カーメル家が培ってきた流通網の価値を信じておりますの。……私と、対等な事業パートナーとして取引を行っていただけませんか?」
マリアンヌは、リチャードから学んだ経営の知識と、王都で築いた人脈を生かし、資金面での協力を含めた取引条件を提示した。
ノーマンは、目の前の女性を見つめた。
かつて婚約を解消した少女の面影は、確かに残っている。
けれど、今の彼女には、誰かの判断に従うだけだったあの頃にはなかった、自分の意思で道を切り開く者の落ち着きがあった。
「……ずいぶん、お変わりになられたのですね」
「ええ。私も、この五年間でいろいろなことを学びましたもの」
「……失礼ながら、私が夫人の立場であれば、もっと有利な条件を求めるでしょう。なぜ、そこまで対等であることにこだわられるのですか」
「一方だけが利益を得る取引では、長く続きませんもの。私は、あなたの家と共に利益を育てていきたいのです」
ノーマンは、差し出された契約書に目を落とした。
かつて、家門の事情によって婚約を解消した少女。その彼女が今、自分の力で築いたものを携え、対等な取引相手として目の前にいる。
「……ありがとうございます、マリアンヌ夫人。いえ、まずは契約の条件を詳しく伺わせてください」
その言葉に、マリアンヌは満足げに微笑んだ。
「ええ。では、商談を始めましょう」
二人が契約条件を詰め始めたところで、カーメル家の商会から緊急の知らせが届いた。
ノックの音と共に、一礼した家令が、来客中だというのに応接間へと慌てて入室して来た。
「旦那様! 大変です! 王都へ向かっていた船が、また消息を絶ったとの報告が!」
報告を聞いたノーマンの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「それと、もう一つご報告がございます」
家令は、ためらうようにノーマンを見た。
「消息を絶った船ですが……出航の直前、航路の変更を指示した者がいたそうです」
「何だと?」
ノーマンの顔色が変わった。
マリアンヌは、静かに二人を見比べた。
偶然の事故ではないのかもしれない。
彼女が新たな事業を始めようとした、その矢先に。
ノーマンは、しばらく言葉を失っていたが、やがてマリアンヌに向き直った。
「……申し訳ありません、マリアンヌ夫人。やはり、このお話はなかったことにしていただけませんか」
彼は、契約書をマリアンヌの前へと戻した。
「聞こえたと思いますが、また知らせが入りました。カーメル家の船が、王都へ向かう途中で消息を絶ったそうです」
「……また、ですか?」
「ええ。ですが、今回は少し妙なのです」
ノーマンは声を落とした。
「船が消息を絶った海域は、ここ数日、天候が安定していました。船長も、航路を変更する理由はなかったと言っていたそうです」
マリアンヌは、目の前の契約書に視線を落とした。
悪天候による事故。
そう聞かされていた一連の沈没に、もし別の理由があるのだとしたら。
「カーメル伯爵。その船には、何が積まれていたのですか?」
「……私たちが、これから取引するはずだった商品です」
室内に、重い沈黙が落ちた。
「でしたら、なおさらですわ」
マリアンヌは顔を上げ、ノーマンをまっすぐに見つめた。
「船が消息を絶ったからといって、契約を取りやめる理由にはなりません。まずは何が起きたのか、確かめるべきでしょう?」
「しかし、あなたに損失を負わせるわけには……」
「損失を恐れていては、事業などできませんわ。ただし、原因も分からないまま資金を投じるつもりもありません」
マリアンヌの言葉に、ノーマンは目を見開いた。
「まさか……調査なさるおつもりですか?」
「ええ。私も当事者になるのですから」
マリアンヌは、迷いのない声で告げた。
「まずは、船の行方と、これまでの沈没事故について詳しく教えてください。話は、それからですわ」
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