↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】遊び人侯爵令息が後悔した頃、『遊び慣れた女』を演じた貧乏子爵令嬢は別の男に嫁いでいく  作者: 恋せよ恋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/22

第16話 幸せを選ぶのは、私

 マリアンヌは、窓辺の椅子に腰掛け、届いた手紙に目を通していた。

 差出人は、実家の母、レーベン子爵夫人キャサリンだった。


 葡萄畑の収穫が順調であること。

 トーマスが領地の執務を覚え始めたこと。

 メリッサが社交界で新しい友人を得たこと。


 そして、最後にはいつものように、マリアンヌの体調を気遣う言葉が添えられていた。


『あなたが自分の幸せを後回しにしてしまうのではないかと、母は今でも心配しています』


 マリアンヌは、その一文を読み返した。

 そして、ふっと微笑んだ。


「……お母様ったら」


 彼女自身は、もう十分に自分の人生を歩んでいるつもりだった

 リチャードの妻として過ごした五年間は、決して無駄ではなかった。彼から学んだことは多い。


 人を信じること。

 自分の考えを言葉にすること。

 誰かのために尽くすことと、自分を犠牲にすることは、同じではないということ。


 そして、人生は、最初に思い描いた形にならなくても、豊かなものになり得るということ。


 リチャードは、彼女にそれを教えてくれた。


 彼を愛していたかと問われれば、恋愛の意味では違うと答えるだろう。けれど、彼を大切に思っていたし、とても尊敬していた。彼と過ごした日々を、心から幸福だったと思っている。


 だからこそ、フレデリックと再会した夜会でも、マリアンヌは過去に戻りたいとは思わなかった。自分でも驚くほど冷静に、挨拶を交わし、彼の妻であったエレオノーラに対しても微笑みを保てた。


 十七歳の自分は、確かに彼に恋をしていたのだと思う。

 初めての『恋の真似事』に胸を躍らせ、彼との逢瀬に一喜一憂し、彼が与える熱を何度も思い返した。


 けれど、あの恋は、あの頃の自分と共に終わったのだ。


「……もう、あの頃の私ではありませんものね」


 マリアンヌは手紙を丁寧に畳み、机の上に置いた。

 窓の外には、秋の気配が漂い始めていた。


 ◇


 それから数日後。マリアンヌのもとへ、一通の手紙が届いた。

 差出人は、フレデリック・ドーソン。封を切ると、そこには短い文章が記されていた。


-------------------------

『先日は、突然押しかけて申し訳ありませんでした。あなたのお気持ちを考えず、自分の想いばかりを押しつけたことを恥じています。もう一度会ってほしいと、お願いするつもりはありません。ただ、あなたが今、幸せに暮らしていることを願っています。どうか、お元気で。

フレデリック・ドーソン』

……………………


 マリアンヌは、最後まで読み終えると、静かに目を伏せた。


 正直、意外だった。

 彼なら、もっと強引に迫ってくるのではないかと思っていた。


 かつての彼は、いつも余裕たっぷりで、相手の反応を弄ぶように恋の駆け引きを楽しんでいるように見える人だったから。


 けれど、この手紙には、マリアンヌを引き留める言葉も、返事を求める言葉もなかった。

 ただ、謝罪と、マリアンヌの幸福を願う言葉があるだけだった。


「……今のあなたは、最後まで私の気持ちを尊重してくださるのね」


 そう呟いてから、マリアンヌは小さく首を振った。


 彼もまた、マリアンヌの知らない場所で、彼女の知らない経験を重ねてこの五年間を生きてきたのだ。


 今の彼がどんな人間なのか、マリアンヌは知らない。知らないまま、もう二度と会わないと決めつける必要もない。けれど、だからといって、彼のもとへ戻る理由にはならなかった。


 マリアンヌは手紙を封筒に戻し、机の引き出しにしまった。


 捨てることはしなかった。それは、彼の想いに応えるという意味ではなく、かつて自分が恋した人が、今もどこかで生きている。そのことを、ただ静かに受け止めただけだった。


「……さあ、私も自分のことを考えなくては」


 マリアンヌは窓辺に立ち、秋色に染まり始めた庭を見つめた。


 五年前、私は自分の恋に、卒業までの一年だけと期限をつけた。その後は、家族のために生きるのだと決めていた。


 けれど、マリアンヌの人生はまだ続いている。


 これから先、どんな人生が待っているのかは分からない。けれど、もう誰かのためだけに、自分の未来を決めるつもりはなかった。


 ◇


 静かな秋の風がそよぐ午後、マリアンヌのもとに一通の招待状が届いた。

 差出人は、かつて学園で同じクラスだった友人であり、現在はロンゲール侯爵夫人となったパオラからであった。


『マリアンヌ、久しぶりの王都はどう? 我が家の夜会に参加してくれない? あなたを心配している友人たちも、皆あなたに会いたがっているわ』


 懐かしいパオラからの誘いに、マリアンヌの胸には、学生時代の気さくなやり取りとともに、温かな喜びが広がった。


 ◇


 夜会当日、ロンゲール侯爵家の大広間は、眩い煌めきと華やかな貴族たちの熱気に包まれていた。


 誰一人として、かつてマリアンヌとフレデリックの間に秘められた初恋や過去の繋がりがあったことなど知る由もない。彼らにとってマリアンヌは、若くして多額の遺産を受け継いだ美しき『先代ミッテラン公爵夫人』でしかなかった。



「お聞きになりまして? あちらにいらっしゃるのは……」


「ええ、ドーソン侯爵家を去られた、エレオノーラ様ですわ」


 壁際に集まる貴婦人たちの視線の先には、落ち着いた紺色のドレスを身に纏い、背筋をすっと伸ばして立つエレオノーラの姿があった。



「エレオノーラ様、このたびのご災難、心よりお見舞い申し上げますわ。五年も子が得られなかったとはいえ、あまりにも不憫で……」


 寄ってきた貴婦人が、わざとらしく同情の言葉を投げかける。

 エレオノーラは穏やかな笑みを崩さず、澱みなく、その上部だけの同情の言葉に応じた。


「お心遣い、感謝いたします。ですが、お互いの未来のための円満な決断でございますので、どうかお気になさらないでくださいませ」


 隙のない完璧な答えに、面白い愚痴や恨み言の一つでも聞けるのではと期待していた貴婦人は、それ以上踏み込めず引き下がっていった。


 しかし、彼女が離れるや否や、周囲からは好奇心と同情に満ちた噂話の花が咲き始める。


 

 マリアンヌとパオラの耳にも、女たちの扇の陰では、隠した口元から、忍び笑い混じりの囁き声が漏れ聞こえてきた。


「円満な解消だなんて、体裁を取り繕っていらっしゃるだけですわ」


「まあ。どういうことですの?」


「フレデリック様といえば、学園時代は派手に遊んでいらっしゃったでしょう」


「ええ。ご結婚されてからは落ち着かれたようですけど、ねえ……」


「もしかしたら、どこかに本気の想い人がいらっしゃるのかもしれませんわね。さらに……隠し子でもいらっしゃるのかしら?」


 クスクスと不躾に笑い合う声。


 パオラが不快そうに眉をひそめ、エレオノーラを庇うように一歩前へ出ようとした。

 だが、マリアンヌはそっとパオラの袖を引いた。


 ここで何を言い返したところで、彼女たちの好奇心が満たされるだけだろう。それよりも、エレオノーラ自身がどう振る舞うのかを、静かに見守りたかった。



(皆様方は、本当のフレデリック様も、エレオノーラ様の真の気高さもご存じないのね……)


 フレデリックは、ただ身勝手な遊びのために婚姻を壊したわけではない。そしてエレオノーラもまた、捨てられた妻などではなく、己の矜持と自立のために、堂々と彼のもとを去ったのだろう。


 マリアンヌが貴婦人たちの前を通り過ぎようとしたとき、ふとエレオノーラと目が合った。


 エレオノーラは、周囲の心ない噂話など意にも介さぬ静かな瞳でマリアンヌを見つめ、ごくわずかに会釈した。


 マリアンヌもまた、心からの敬意を込めて微笑み、優雅に応じた。


 ◇


 その後、エレオノーラは、かつて婚約していたシシリー子爵家の嫡男と再婚した。

 彼は落馬による後遺症で、歩行が不自由なままだった。それでも、エレオノーラは彼のそばにいることを選んだ。


 彼女は今、子爵夫人として夫を支えながら、穏やかな日々を送っているという。

 その知らせを聞いたとき、マリアンヌは、彼女もまた自分の人生を選び直したのだと思った。


「面白かった」と思っていただけましたら、

・ブックマーク

・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて

ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。