第15話 彼女の歩んだ五年間
「フレデリック様。お顔をお上げくださいませ」
マリアンヌの静かな声に、フレデリックはゆっくりと顔を上げた。
「私は、あなたを憎んではおりません」
「……ならば」
「けれど、もう恋してもおりませんわ」
フレデリックの表情が凍りついた。
「そんな……」
「あなたに恋していた頃の私は、もういないのです。あの恋は、私の中で大切な思い出になりました。けれど、思い出をもう一度、現実にするつもりはございません」
「俺が、もっと早く……」
「ええ。もっと早く、あなたのお気持ちを聞けていたなら。私たちの未来も、違っていたのかもしれませんわね」
マリアンヌは、穏やかな微笑みを浮かべた。
「でも、それはもう、過ぎたことなのです」
「フレデリック様。あなたは、私がこの五年間、どのように生きてきたか、ご存じですか?」
マリアンヌは続けた。
「私は、リチャード様と過ごした日々を後悔しておりません。あの方は、私に多くのことを教えてくださいました。私はあの方を尊敬し、妻として、できる限りのことをしてまいりました」
「……分かっている」
「いいえ。きっと、分かってはいらっしゃいませんわ」
マリアンヌは、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ静かに微笑んだ。
「あなたにとって、この五年間は、私を失ったことを悔やむ時間だったのでしょう。けれど、私にとっては、私自身の人生を築くための時間だったのです」
「……俺は、君を幸せにしたいんだ」
「ありがとうございます」
「だから、もう一度だけ……」
「フレデリック様」
マリアンヌは、彼の言葉を遮った。
「私の幸せを願ってくださるのでしたら、どうか、私の選択を尊重してくださいませ」
フレデリックは、息を呑んだ。
「……君の選択を」
「はい。私は、もう自分の人生を歩き始めております。あなたに恋をしていた頃の私に戻ることはできません」
長い沈黙が落ちた。
やがて、フレデリックはゆっくりと立ち上がった。
「……分かった」
その声は、かすかに震えていた。
「君を愛している。今でも、どうしようもないほどに。だが……君が望まないのなら、これ以上、君を困らせることはしない」
彼は、マリアンヌに向かって深く頭を下げた。
「ミッテラン先代公爵夫人。突然押しかけてしまい、申し訳ございませんでした。……失礼いたします」
そう言って背を向けた彼の姿を、マリアンヌは静かに見送った。
◇
マリアンヌに拒絶された後、フレデリックは馬車の中で、しばらく身じろぎひとつできなかった。
つい先ほどまで、彼女の前に跪いていた。
五年越しの想いを告げ、残された人生のすべてを捧げたいと願った。彼女が望むなら、どんなことでもすると。
けれど、マリアンヌは微笑みながら、フレデリックの手を振り払った。
『そのお気持ちは、十七歳だったあの日にお聞きしたかったですわ』
その言葉が、何度も脳裏によみがえる。
「……遅すぎた、ということか」
フレデリックは目を閉じた。
自分はずっと、彼女を失ったことばかりを悔やんできた。けれど、マリアンヌは、自分を待っていたわけではなかった。彼女は彼のいない場所で、自分の人生を歩んでいたのだ。
今になってようやく彼女の人生を知りたいと思った。自分が知らない五年間を。自分の知らない、今のマリアンヌを。
◇
翌朝。フレデリックは、父であるドーソン侯爵の執務室を訪れた。
「父上。ミッテラン公爵家について、改めて教えていただきたいことがあります」
書類から顔を上げた侯爵は、執務机の正面に立つ息子の表情を見て、わずかに眉を動かした。
「……なんだ? マリアンヌ夫人のことか?」
「はい」
隠すつもりはなかった。
もう、彼女への想いを恥じるつもりもない。たとえ、それが今さら叶わない恋だったとしても。
侯爵はペンを置くと、静かに息を吐いた。
「お前は、彼女のことをどれほど知っている?」
「……学園にいた頃の彼女なら」
「そうか。では、ほとんど知らないのと同じだな」
厳しい言葉だったが、フレデリックは反論できなかった。
「リチャード閣下は、先代から受け継いだ領地をさらに発展させたと聞く。領民の生活改善にずいぶんと尽力された方だ。だが、あの方が亡くなるまでの五年間、実際に領地の運営を支えていたのは、マリアンヌ夫人だったと聞いている」
「彼女が……?」
「ああ。もちろん、家令や領地の者たちの助けもあっただろう。だが、帳簿を読み、収支を見直し、領民の話を聞き、必要な事業を選び取ったのは彼女だそうだ」
フレデリックは息を呑んだ。
学園時代のマリアンヌは、成績優秀な生徒だった。その頃から彼女には、困難に直面しても逃げずに考え抜く強さがあったのに、その強さを、フレデリックは理解していなかった。
「リチャード閣下は、彼女の能力を高く評価しておられた。単に妻として可愛がっていたわけではない。領地を共に支える、信頼できる相手として扱っていたらしい」
「……そう、ですか」
「マリアンヌ夫人が嫁いだことで、レーベン子爵家も救われた。葡萄畑の再建にも、ミッテラン公爵家から十分な援助があったと聞いている。今では、以前のような収穫量を取り戻しているそうだ」
フレデリックは、立ったままで拳を握った。
彼女が家族のために結婚したことは知っていた。けれど、その選択によって何が救われ、彼女自身が何を成し遂げたのか。自分は何も知らなかったのだ。
「……彼女は、幸せだったのでしょうか」
気づけば、そんな問いが口をついて出ていた。
侯爵はすぐには答えなかった。
「それは、本人にしか分からんだろう」
そして、息子を真っ直ぐに見つめた。
「だが、少なくともリチャード閣下は、彼女を不幸にするような扱いはしなかったと聞いている。あの方は、マリアンヌ夫人をひとりの人間として尊重していたそうだ」
フレデリックの胸が、ひどく痛んだ。
彼女が十七歳だった頃。
自分は、彼女のどこかちぐはぐな『遊び慣れた』雰囲気を、扱いやすいと気楽に考えていた。ときには、からかいながら。ときには、余裕のある男を演じながら。彼女が自分に向ける視線の意味を、深く考えようともしなかった。
彼女がどんな覚悟で、自分との時間を過ごしていたのか。どうして卒業前に、自分と一夜を過ごし、そして自分の前から姿を消したのか。
その答えを知ったのは、すべてが終わったあとだった。
「……俺は、彼女のことを何も分かっていなかったのですね」
フレデリックが呟くと、侯爵は否定しなかった。
「お前が今、彼女を愛していることは分かった。だが、愛しているという気持ちだけで、相手の人生に踏み込んでいいわけではない」
「……はい」
「彼女には彼女の人生がある。お前が悔やんでいる五年間も、彼女にとっては、かけがえのない人生の一部だ。そして、お前は、エレオノーラの人生の責任も負っていたのだぞ。そこを忘れるな」
フレデリックは深く頭を下げた。
分かっている。今度こそ、分からなければならない。
マリアンヌの心を取り戻すことばかり考えていては、また同じ過ちを繰り返す。
彼女が望まないのなら、手を伸ばしてはいけない。
彼女が拒むのなら、受け入れなければならない。
もう一度だけ、彼女と話したかった。
けれど、今度は自分の想いを伝えるためではない。彼女が何を望み、どんな人生を歩んできたのか。まずは、それを知ることから始めなければならない。
たとえ、その先に自分の望む未来が待っていなかったとしても。
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