第14話 五年越しの求婚
亡き夫から贈られた王都の別邸で静かな朝を迎えていたマリアンヌのもとを、一人の青年が訪れていた。
十六歳となり、凛々しい面構えとなった弟のトーマスである。
「姉上」
「トーマス……! まあ、随分と背が伸びて……」
ミッテラン公爵家からの十分な支援により、レーベン子爵領の葡萄畑は見事に復興を遂げていた。
父ビクターの顔にはかつての穏やかな笑顔が戻り、幼かったトーマスとメリッサも不自由なく十分な教育を受け、今ではそれぞれ十六歳と十四歳になり、立派に成長していた。
「姉上がご自分の人生と引き換えにしてまで守ってくださったこの家と領地を、今度は僕が立派に継いでみせます。……だから姉上、これからはどうか、ご自身の幸せのためだけに生きてください」
弟のまっすぐな瞳と言葉に、マリアンヌの胸に温かいものが込み上げる。
自分が過ごしたあの五年間は、決して無駄ではなかった。しっかりと実を結び、大切な家族を未来へと繋いだのだ。
もう、誰かのために自分の幸せを諦める必要はない。
そう思えるようになったことが、マリアンヌにとって何よりの喜びだった。
トーマスを見送った後、マリアンヌは自室の机の引き出しを開けた。
その奥底に静かに眠っていたのは、十七歳の頃、夢中で読んでいた『魅力的な女の指南書』であった。
いずれくるであろう『家のための婚姻』という辛い未来のために、最初で最後の恋をしたいと足掻いていた無垢な少女だった自分。
本の表紙をそっと撫でながら、マリアンヌは当時を愛おしむように静かに目を閉じた。
◇
そして数ヶ月後――。
あらゆる手続きと両家への説得を終え、正式にエレオノーラとの婚姻を解消したフレデリックは、一人の男としてマリアンヌの王都の邸を訪れていた。
応接間に現れたマリアンヌは、喪服を脱ぎ、淡い色の軽やかなドレスを身に纏っていた。そこには元先代公爵夫人という重圧からも解き放たれた、一人の大人の女性としての気品と美しさがあった。
「フレデリック様……」
マリアンヌの口から自然とこぼれ出たのは、家名ではなくフレデリックの名だった。
「……マリアンヌ。急な訪問を許してほしい」
フレデリックもマリアンヌの名を呼び、深く頭を下げた後、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「私はかつて、愚かにも君の手を掴み損ねた。そして我が妻エレオノーラとも、誠意を持って向き合おうとしながらも、本当の心を偽り続けていた……。だが、もう自分の気持ちに嘘はつけない」
フレデリックは膝をつき、胸に手を当てて静かに問いかけた。
「君がどれほどの苦難を乗り越え、自分の人生を築いてきたのか、今の俺には分かっているつもりだ。俺の家柄も財産も、君が俺を選ぶ理由にはならない」
フレデリックは、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「それでも、俺は君を愛している。一人の男として、君にもう一度、向き合う機会をいただきたい」
かつての若さゆえの愚かしさも、政略の打算もない。
ただ一人の男としての、深く熟成された求婚であった。
「ミッテラン先代公爵夫人としてではなく、誰の妻でもない……一人の女性としてのマリアンヌに、私の残りの人生を捧げたい。……私と共に、新しい人生を始めてはいただけないだろうか」
マリアンヌは静かにフレデリックを見つめた。
かつて恋を知りたいと願い、実際に切ない体験をして傷つき、それぞれに年月を重ねてきた二人。だが、遠回りをしたからこそ、互いの成熟と本当の尊さに気づくことができた。
マリアンヌはふわりと優雅に微笑むと、そっと手を差し伸べた。
「はい、フレデリック様。喜んで……」
差し出されたその手を、フレデリックは愛おしそうに、けれど二度と離さぬ強い力で包み込もうとした……その時。
「……とでも、言うとお思いになりましたか?」
マリアンヌは、美しく微笑むと、フレデリックのその手を跳ね上げた。
フレデリックは、何が起こったのか分からず、呆然とした顔でマリアンヌを見つめる。
「私たちは、五年前のあの日に終わったのですわ。あの頃の私は、あなたに恋をしておりました。でも、今の私は、あの日の私ではございません」
「……マリアンヌ」
「あなたを待ち続けていたわけではございませんの。私は私の人生を歩み、今の私があるのです。あなたが後悔なさったからといって、私まで過去に戻ることはできませんわ」
マリアンヌの声には、呆れの感情が滲んでいた。
「それに、奥様と離縁されたとか。私には関わりのない事でございます。フレデリック様、過去は過去。終わったものは、美しく見えるのでしょうね? でも、それは手に入らなかったからこそ美しいのですわ。私に、あなたと共に生きる未来はございませんわ。お引き取りください」
「そんな! マリアンヌ! 俺は君を愛しているんだ!」
「……フレデリック様。もう、遅すぎますわ。そのお気持ちは、十七歳だったあの日にお聞きしたかったですわ……」
マリアンヌは、どこか遠い目をしていた。
「それはっ! だが、今こうして君とやり直す機会を得たんだ! 俺は君を手放したくない!」
「フレデリック様。……あなた、そんな方でしたかしら?」
「ああ。学園時代の俺は、軽薄で誰にも本気にならない遊び人だった。だが、そんな俺がこの五年間、ずっと後悔して生きてきたんだ。一度は諦めたんだ! 今度は間違わない!」
フレデリックは、差し出した手を引っ込めることもできず、マリアンヌを見上げていた。
「頼む、マリアンヌ! 俺の手を取ってくれ! 頼む!」
必死に自分を求めるフレデリックの姿を見下ろしながら、マリアンヌの心は不思議なほど落ち着いていた。
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