第13話 ドーソン侯爵家の夜と、真実の想い
あの夜会から数日が経っても、フレデリックの心は止まったままだった。
執務机で書類を開いても、何度も同じ行を追っては冒頭へ戻ることを繰り返していた。
まるで仕事など手につかない。脳裏に浮かぶのは、あの夜、黒いドレスを身に纏い、気高く微笑むマリアンヌの姿ばかりだった。
もう自分の手は届かない。そう思い知らされるたび、静かな部屋に深く切ないため息が落ちた。
手に入らないと分かっていながら、抑えきれない狂おしいほどの熱。
その心の葛藤を、共に暮らす妻が見逃すはずもなかった。
夕食の後、フレデリックは、書斎のソファで一人ワイングラスを傾けていた。
扉を叩く微かなノックに応じると、エレオノーラが静かに姿を現した。
「フレデリック様。少し、お話がございますの」
彼女はいつもの穏やかな立ち振る舞いで、フレデリックの対面に腰を下ろした。
「……エレオノーラか。珍しいね。どうかした?」
「単刀直入に申し上げますわ。……あなたは、ミッテラン先代公爵夫人――マリアンヌ様をお慕いしていらっしゃるのでしょう?」
突然突きつけられた、静かで揺るぎない確信。フレデリックは息をのんだ。隠し通せていたはずの未練を見破られ、グラスを持つ手がわずかに揺れる。
「……何を言い出すのだ、エレオノーラ。彼女とはただ学園の――」
「嘘をおつきにならないで」
エレオノーラはクスリと小さく笑った。
そこに怒りや嫉妬のの色は一切なく、ただどこまでも冷静で、すべてを見透かすような瞳だった。
「先日の夜会で、あなたが私の背に添えた手……あんなにも震えていたこと、私が気づかないとお思いでしたの? この五年間、穏やかで誠実な夫であったあなたが、一度も見せたことのない眼差し……。あれは、ただの同級生に向けるものではありませんわ」
「……っ」
フレデリックは、何も言い返せなかった。
五年間、必死に隠し通してきたつもりの閉じ込めたはずの想いが、暴かれていく。
フレデリックは深く息を吐き、頭を下げた。
「……すまない、エレオノーラ。君を傷つけるつもりはなかった。俺は……侯爵家の夫として、君との誓いを破るつもりはない。彼女に近付くつもりも――」
「いいえ、フレデリック様。誤解なさらないでください。私は怒っても、傷ついてもおりませんの」
エレオノーラは静かに首を振ると、手元を見つめながら、声を落として言葉を続けた。
「……むしろ、私の方から貴方に告白しなければならないことがございます」
「告白……?」
「ええ。……私がなぜ、この五年間、貴方との間に『子』を作ろうとしなかったのかを」
フレデリックは目を見開いた。
跡継ぎが生まれないことは、ドーソン侯爵家にとってもドリオン伯爵家にとっても重要な懸念事項であった。フレデリックは、ただ『授かりものだから』と周囲に言い聞かせ、エレオノーラを責めたことは一度もなかったのだ。
「私は……貴方を不快に思っていたわけではありません。貴方は常に私を尊重し、優しく、夫として完璧でした。……ですが、私たちの間にあったのは『愛』ではなく、ただの責任と諦めでしたでしょう?」
エレオノーラはフレデリックの目を真っ直ぐに見つめた。
「私は……愛していない男性との間に子を産み育てることだけは、どうしても出来なかったのです。……私には、今も忘れられぬ男性がおります。ですから五年経ち、子が授からなければ離縁となっても構わない――そう決めておりました。意図して貴方との間に子を作らぬよう避けておりましたこと、どうぞお許しくださいませ」
「エレオノーラ……君は……っ」
フレデリックは言葉を失った。
五年間、彼は妻を尊重してきた。彼女が自分に不満を抱いている様子もなく、穏やかに夫婦生活を送っていることに安堵していた。
だが、その穏やかさの裏で、彼女もまた、自分と同じように心の奥に別の誰かを抱えていたのだ。自分だけが、叶わなかった恋を引きずっているのだと思っていた。それなのに――。
「……君も、ずっと苦しんでいたのか」
エレオノーラは、ほんのわずかに目を伏せた。
「その方とは、かつて婚約しておりました。……事情があって、結婚には至りませんでしたけれど」
フレデリックは、結婚前から知っていた妻の過去を、初めて本人の口から聞かされた。
「あなたがマリアンヌ様を忘れられなかったように、私もまた、過去に置いてきた恋を忘れられずにいたのですわ」
フレデリックは、何も言えなかった。
この決断に至るまで、エレオノーラがどれほど長く考え続けてきたことか。彼を憎んでいるわけではない。むしろ、誠実に接してくれた夫には感謝している。
それでも、このまま互いの本心を隠し、形だけの夫婦として生き続けることが、本当に二人のためになるのだろうか。……答えは、もう決まっていた。
エレオノーラは顔を上げ、背筋をすっと伸ばした。
「私たちには、子がおりません。そしてこれからも、私は貴方との子を望みません。……ですが、ドーソン侯爵家には後継者が必要ですわ」
彼女は美しく微笑んだ。
「貴方には、心の底から求め、共に生きたいと願う女性がいる。私にも、自分の信念と人生がある。……ならば、私たちがこのまま形だけの夫婦であり続ける理由は、もう無いのではありませんか?」
フレデリックは、すぐには答えられなかった。
それほどまでに妻の申し出は、彼にとってあまりにも思いがけないものだった。
自分の心がマリアンヌに向いていることを認めるのは簡単だ。だが、それを理由に五年間連れ添った妻との婚姻を解消することが、本当に正しいのか……。
彼はしばらく考え、やがて静かに口を開いた。
「……君の人生まで、私の都合で縛り続けるわけにはいかないな」
エレオノーラは、わずかに目を細めた。
「ええ。私も、貴方の人生を縛りたいとは思いません」
二人は、しばらく黙って向かい合っていた。
そこにあったのは、憎しみでも、責め合う気持ちでもない。
互いを尊重してきた五年間への感謝と、これからは別々の道を歩むのだという、静かな理解だった。
だが、当人たちの意志が固まったからといって、すぐさま離縁が成立するほど貴族社会は甘くない。家同士の繋がりや対外的な体裁、そして何より両家の当主である父たちの許諾という、最大の障壁が残っていた。
「当主である父上たちを説得するのは、生半可なことではないな……」
「ええ。ですが『五年間子が授からなかった』という現実は、家督存続を最優先する双方の当主にとっても無視できない事実ですわ。……幸い、お互いに醜い争いをしたわけではありません。両家の面目を潰さぬよう、手続きと名目は徹底的に整えましょう」
エレオノーラは冷徹なまでに理知的で、かつ完璧な手回しを提示してみせた。
「……エレオノーラ。これまで妻として、次期侯爵夫人として俺を支えてくれたこと、心から感謝している。そして……俺の背中を押してくれて、本当にありがとう」
「お礼など結構ですわ。……私もまた、自身の矜持と愛のためにこの選択をしたのですから。それに、マリアンヌ様が王都へ戻ってきてくださらなければ……私は一生、この仮面を被ったままだったかもしれません」
エレオノーラは穏やかな笑みを浮かべると、静かに部屋を後にした。
一人残されたフレデリックは、窓の外の夜空を見上げた。
かつてマリアンヌを失い、家のために流されるまま選択した結婚。
だが今、自分もまた、一人の男として『己の人生』を選択する刻が来たのだと、強く噛み締めていた。
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