第9話 嘘と罠、そして立ち塞がる男
1. 密室の打ち合わせ
「――莉菜、今日の夜のクライアントとの打ち合わせ、場所変更になったから」
金曜日の午後。デザイン会社のオフィスで、後藤龍路が莉菜のデスクをトントンと叩いた。
「えっ? 場所変更ですか?」
莉菜が顔を上げると、後藤はいつもの自信満々な笑みを浮かべて、1枚のメモを莉菜の手元に置いた。
「ああ。先方の社長が『静かで落ち着いた場所でじっくりデザインのコンセプトを聞きたい』ってさ。西麻布にある会員制の個室レストランだ。直帰扱いでいいから、現地で19時に集合な」
「西麻布の……個室……?」
莉菜は一瞬、胸の奥に不穏なざわめきを覚えた。
通常のクライアント打ち合わせであれば、ホテルのラウンジや落ち着いたカフェ、あるいは先方のオフィスで行うのが普通だ。
なぜ、わざわざ夜の会員制個室レストランなのか。
「後藤さん、チームの先輩の佐藤さんや、ディレクターの田中さんは同行しないんですか? 今回は大型案件ですし……」
「二人とも別件で手いっぱいなんだよ。莉菜、せっかくお前をメインデザイナーに抜擢したのに、俺の顔に泥を塗る気か? それとも、体調でも悪いのか?」
後藤はそう言って、莉菜の顔を覗き込んできた。その瞳の奥には、値踏みするような、そして逃げ場を塞ぐような酷く冷たい光が宿っている。
「……いえ、分かりました。19時に向かいます」
「よし、頼んだぞ。じゃあ現地でな」
後藤はひらひらと手を振って営業フロアへと戻っていった。
莉菜は不安を打ち消すように、スマートフォンに手を伸ばした。
宮本に一言連絡を入れようとしたが、今日は彼が大学病院での特別講義と午後からの難手術が入っている時間帯だ。
(英治さん、忙しい時間だし……大丈夫。ちゃんと仕事として打ち合わせを終わらせて、すぐに帰ろう)
そう自分に言い聞かせ、莉菜は書類をバッグに詰めた。だが、その選択が危険な罠への第一歩であることを、莉菜はまだ知らなかった。
2. 剥がされた仮面
指定された西麻布のレストランは、看板もなく、重厚な扉の奥にある完全個室の店だった。
案内されたシックな個室に入ると、そこにはすでに後藤が一人で座り、グラスのワインを傾けていた。
「あれ……? 後藤さん、クライアントの方は……?」
莉菜が周囲を見回すと、後藤はニタリと下品に口角を上げた。
「クライアント? ああ、あれなら来ねぇよ。最初から俺とお前の二人だけの約束だ」
「えっ……! 嘘だったんですか!?」
「嘘じゃねぇよ。お前をこの店に連れ出すための『演出』だ」
後藤はグラスを置くと、立ち上がり、出口を塞ぐようにして莉菜へと近づいてきた。
「後藤さん、冗談はやめてください! 打ち合わせじゃないなら、私、帰ります!」
莉菜が背を向けてドアノブに手をかけた瞬間、後藤の強い力が莉菜の腕を掴み、強引にソファへと押し倒した。
「きゃっ……! 何するんですか、放してください!」
「帰さねぇよ。なぁ莉菜、すっとぼけるのもいい加減にしろよ。お前、あの産婦人科の医者――『宮本英治』とデキてんだろ?」
「……っ!!」
頭の上から冷や水を浴びせられたように、莉菜の身体が硬直した。
「な、なんで……その名前を……」
「お前が入院してた病院のホームページ見りゃ一発で分かるんだよ。病み上がりのお前が急に色っぽくなって、毎週土曜日にこそこそ出かけてさ。……医者と元患者の不倫か? それともパパ活か? えげつねぇなぁ、あのスカしたおじさん医者もさぁ!」
後藤は莉菜の上に覆いかぶさるようにして、彼女の細い手首を両手でベッドのように押さえつけた。
「放して! 英治さんは……宮本先生は関係ありません!」
「関係大ありだろ! 病院に通報されたくなかったら、俺の女になれよ。あのオッサンに教わった淫らな体の使い方、俺にも教えてくれよ!」
後藤が強引に顔を近づけ、莉菜の首筋に下品な唇を寄せようとする。
「いやぁぁぁぁっ! やめて、英治さんっ!!」
莉菜が涙を叫びながら叫んだ、その時だった。
バンッ!!!
重厚な個室の扉が、壊れんばかりの凄まじい音を立てて蹴り開けられた。
3. 本物の男の威圧
「――俺の患者に、汚い手を触れるな」
室内に響き渡ったのは、地獄の底から響くような、圧倒的な低音のバリトンボイスだった。
「……がっ!?」
次の瞬間、後藤の襟首が凄まじい力で掴み上げられ、そのまま壁際へと激しく叩きつけられた。
「ぐはっ……! な、なんだお前は……!?」
痛みに悶絶しながら後藤が顔を上げると、そこに立っていたのは、仕立ての良い高級スーツを纏い、細い眼鏡の奥の瞳を冷酷なまでに怒らせた男――宮本英治だった。
「英治、さん……っ!」
ソファの上で衣服を乱した莉菜が、涙に濡れた目で彼を見上げた。
宮本は手袋をはめるような静かな所作でジャケットの乱れを整えると、莉菜の元へ歩み寄り、自分の着ていた上質なチェスターコートを脱いで優しく彼女の肩に羽織らせた。
「遅くなってすまない、莉菜。怖い思いをさせたね」
「う、ううん……英治さん……っ」
宮本は莉菜を自分の背後へとそっと隠すと、ゆっくりと後藤の方へと振り向いた。
その全身から溢れ出る圧倒的なオーラと威圧感に、後藤は壁に背中を押しつけたままガタガタと震え出した。
「お、お前……宮本……! なんでここが分かった……!?」
「君のような浅はかな人間が考えそうなことなど、容易に想像がつく」
宮本は冷たい目で後藤を見下ろした。
実は、莉菜が会社を出る直前に「西麻布のクライアントと打ち合わせ」と不審に思い残したメモを、彼女を心配した同僚が宮本に連絡してくれたのだ。
宮本は講義が終わるや否や、タクシーを飛ばして駆けつけていた。
「お前……! 医者のくせに患者に手を出して、タダで済むと思ってるのか!? 病院にバラして失脚させてやるぞ!」
後藤が必死に虚勢を張り、叫ぶ。
だが、宮本はクスリと嘲笑うように冷たく微笑んだ。
「バラしたければ、今すぐ警察とメディアを呼ぶといい」
「な……なに……?」
「君が今行った行為は、刑法第177条『強制性交等未遂罪』、および『脅迫罪』に該当する。さらに、君のスマートフォンと会社のパソコンの閲覧履歴から、君が莉菜さんに対して業務上の立場を利用したハラスメントを行っていた証拠は、すでに弁護士を通じて保全してある」
宮本は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を後藤に突きつけた。そこには、後藤が会社のシステムを悪用して莉菜の個人情報を探っていたログと、弁護士からの告発状のデータが表示されていた。
「な……なんだよこれ……っ!」
「君が莉菜さんを失脚させようとしたのではない。君自身が、その愚かな執着によって自分自身の人生を自滅させたんだよ」
宮本は一歩、後藤へと足を踏み入れた。
その身長180センチを超える体躯と、長年数々の命の修羅場を潜り抜けてきた大人の男の圧倒的な「格の差」に、後藤は完全に気圧され、その場に崩れ落ちた。
「二度と、莉菜さんの前に顔を出すな。もし次に彼女の前に一歩でも近づいたら……俺のすべての権力と財力を使って、君をこの社会から完全に抹殺する。分かったな?」
「ひっ……は、はいぃぃっ……!」
後藤は惨めな悲鳴を上げ、這いつくばるようにして個室から逃げ出していった。
4. 傷を癒やす抱擁
静まり返った個室。
宮本はゆっくりと振り向き、震える莉菜をその大きな腕で力強く抱きしめた。
「莉菜……無事でよかった。本当に、よかった……」
「英治さん……私、怖くて……英治さんに迷惑がかかっちゃうと思って……っ」
莉菜は宮本の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
宮本は彼女の頭を愛おしそうに撫で、その髪に何度も愛おしいキスを落とした。
「バカだな。君の身に何かあることに比べたら、俺の名誉や立場なんてゴミみたいなものだと言っただろう?……もっと俺を頼りなさい」
「英治さん……大好き……大好きですっ……」
「ああ、俺もだ。愛しているよ、莉菜」
宮本は莉菜を横抱き(お姫様抱っこ)に持ち上げると、静かにレストランを後にした。
彼の車の中、そして彼のマンションへ戻った後、宮本は恐怖で冷え切った莉菜の体を、温かいシャワーと彼自身の体温でゆっくりと温めていった。
「今夜は、一瞬たりとも君を離さない……俺の腕の中で、安心して眠りなさい」
ベッドの中で、宮本は莉菜の身体を優しく抱きしめ、お腹の傷跡に、そして唇に、誓いのキスを重ねた。
会社での障害(後藤)も、病院での障害(嶺町)も、宮本の圧倒的な「本気の愛」によって完全に撃ち払われた。
二人の間に立ちはだかる邪魔者は、もう誰もいない。
そして物語は、二人が一人の「男と女」として、そして「一生のパートナー」として共に歩み始める、最高に甘く温かい最終局面へと向かっていくのだった。
(第9話・了)
<あとがき>
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