第7話 内診台の密室と忍び寄る疑念
1. 白い巨塔の「主治医」
「――小石川莉菜さん、第一診察室へお入りください」
病院の待合室に、無機質な呼び出しアナウンスが響く。
退院から一ヶ月。今日は、手術後初めての本格的な経過観察(定期検診)の日だった。
莉菜は深呼吸をし、仕立ての良いオフィスカジュアルの服を整えてから、第一診察室の重い扉を開けた。
「失礼します……」
「小石川さん、どうぞ。お掛けください」
デスクの前に座っていたのは、白衣をビシッと着こなし、眼鏡を光らせた「産婦人科部長・宮本英治」だった。
先週末、隠れ家レストランで優しく自分の手を握り、甘い言葉を囁いてくれた男と同じ人物とは思えないほど、その表情は冷徹なまでにプロフェッショナルだ。
(あ……やっぱり、病院にいる時の英治さんは、完璧な『先生』なんだ……)
ほんの少し寂しさを感じつつも、公私の区別を徹底する彼の大人の佇まいに、莉菜の胸は再びキュンと高鳴る。
「体調はいかがですか? お腹の傷の痛みや、不正出血、あるいはホットフラッシュなどの症状は出ていませんか?」
「はい。お腹の引きつれ感がたまにあるくらいで、出血も全くありません。会社にも無復帰できて、毎日元気に過ごせています」
「それは素晴らしい。カルテの採血データも完璧です。ヘモグロビン値も 13.2g/dLまで回復している。……では、術後の経過を直接確認するために、内診と超音波エコー検査を行いましょう。奥の内診室へどうぞ」
「はい」
莉菜が立ち上がり、診察室の奥にあるカーテンで仕切られた内診室へと向かう。
その時、診察室のドアが静かに開き、一人の女性看護師が入ってきた。
「宮本先生、次の患者様のカルテをお持ちしました。……あ、小石川さんの内診ですね。私が立ち会います」
声をかけてきたのは、ショートカットの整った顔立ちをした看護師――**嶺町雫**だった。
2. カーテンの向こうの熱量
「小石川さん、準備はよろしいですか? 自動で台が上がりますね」
嶺町のテキパキとした声と共に、内診台がゆっくりと持ち上がり、莉菜の脚が開かれていく。
カーテン越しで宮本の姿は見えないが、彼の衣擦れの音と、ゴム手袋をはめるキュッというかすかな音が聞こえてくる。
「小石川さん、器具が入りますよ。力を抜いてくださいね」
宮本の低いバリトンボイスが、カーテンの向こうから届く。
プライベートで愛し合っている彼に、いま、医師としてデリケートな部分を診察されている。
その背徳感と照れくささで、莉菜の全身の皮膚がカァッと熱くなり、内ももが微かに震えた。
「……うん、子宮の可動性は非常に良好だ。創部の癒着もなく、縫合した筋層も綺麗に復元している。痛みはありませんか?」
消毒液の匂いと共に、超音波プローブが静かに挿入される。
宮本の指先が、ほんの一瞬、探るように莉菜の太ももの内側に触れた。
そのタッチは、医師としての正確な触診でありながら、莉菜にしか分からない、狂おしいほどの愛おしさがこもっていた。
(あ……英治さん……っ)
「っ……大丈夫、です……痛くありません」
声を耐えるように答える莉菜。
その時だった。
カーテンの横でモニターをチェックしていた嶺町雫が、ふと手を止め、宮本の側顔をじっと見つめた。
(おかしい……。宮本先生の触診の手つきが、いつもと違う……?)
嶺町は、長年宮本の外来についている優秀な看護師だ。彼の無駄のない完璧な診察手順を誰よりも熟知している。
だからこそ、分かってしまった。
今日の宮本は、いつもより明らかに「慎重すぎ」であり、そして何より――手袋越しに患者に触れるその手が、わずかに「震えて」いることに。
「……宮本先生? エコーの角度、もう少し右でしょうか?」
「ん? ああ……そうだな。失礼、画像を確認する」
嶺町に声をかけられ、宮本は一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐにいつもの冷徹な名医の顔に戻した。
だが、嶺町の鋭い視線は、莉菜の顔にも注がれていた。
内診台の上で、顔を真っ赤にし、熱い吐息を漏らしている元患者の若い女性。
(まさか……この子なの……? 先生が最近、夜中に当直室で愛おしそうに電話していた相手は……!)
嶺町の胸の中で、黒い疑惑と激しい嫉妬の炎が、静かにメラメラと燃え上がり始めていた。
3. 「次」を約束する指先
内診が終わり、服を整えて診察室に戻った莉菜。
嶺町は何も言わずに、冷たい手つきで次の患者の準備を進めていたが、その空気はどこか刺々しかった。
「小石川さん。術後経過は文句なしの満点です。これで、通常の生活に完全に戻っていただいて構いません。運動も、……それから、夫婦生活なども問題ありませんからね」
「夫婦生活」という言葉を口にする際、宮本はわざとらしくカルテに目を落としていたが、その耳の先がわずかに赤くなっているのを莉菜は見逃さなかった。
「ありがとうございます、宮本先生。本当に……お世話になりました」
「次回は三ヶ月後の検診になります。何か変化があれば、いつでも連絡してください。……お大事に」
「はい。失礼します」
莉菜が会釈をして診察室のドアを開けようとした、その瞬間。
宮本が電子カルテの書類を渡す振りをしながら、莉菜の手元に滑り込ませるようにして紙切れを一枚握らせた。
嶺町が背を向けている一瞬の隙をついた、神業のような早業。
病院を出て、誰もいないエレベーターの中で、莉菜はその紙切れを開いた。
そこには、宮本の流麗な文字でこう書かれていた。
『今夜、八時にいつもの場所で。……君を抱きしめたい』
心臓が跳ね上がる。
白衣の完璧なドクターが見せた、一人の男としての強引で甘いおねだり。
莉菜は紙切れをぎゅっと胸に抱きしめ、頬を染めながら頷いた。
4. 嫉妬の咆哮、そして会社での罠
しかし、二人の甘い計画の裏で、暗雲は確実に立ち込めていた。
聖マリアンナ記念病院の第一診察室。
すべての外来が終わり、宮本が一人で片付けをしていると、ドアがノックもなく開いた。
入ってきたのは、嶺町雫だった。
「嶺町? どうした、何か緊急の連絡か?」
宮本が振り返ると、嶺町はいつものハキハキとした笑顔を完全に消し、冷たい瞳で宮本を直視していた。
「宮本先生。……小石川莉菜さんのことですが」
「……何かな? 彼女のカルテに不備でもあったか?」
宮本の声が、一瞬で警戒モードの低音に変わる。
「いいえ。経過は順調そのものです。……ただ、先生。先生と彼女の間にある『空気』、私には隠せませんよ」
「……何の話をしているのか分からんな。嶺町、行き過ぎた推測は慎みなさい」
宮本は冷たく突き放すが、嶺町は一歩踏み込み、宮本の白衣の胸元に手を伸ばした。
「私、先生のことなら何でも分かります。先生が私を『優秀な看護師』としてしか見てくれないのも、ずっと耐えてきました。でも……あんな若い、ただの患者の女の子に先生を奪われるなんて、絶対に許せません……!」
「嶺町!」
宮本が彼女の手を振り払う。
「それ以上言えば、処分対象だ。出て行きなさい」
「……ふふ。分かりました。でも、先生……覚悟してくださいね」
嶺町は不敵に笑うと、背を向けて診察室を出て行った。
そして、同じ頃。
デザイン会社のオフィスでは、残業していた莉菜の元に、営業の後藤龍路が缶コーヒーを持って近づいていた。
「莉菜、まだ残ってたんだ。お疲れ」
「あ、後藤さん。はい、もう少しで終わります」
「なぁ、莉菜。今週末、やっぱり飯行こうよ。……実はお前に渡したい、新しい大型案件の仕事があるんだ。お前がメインデザイナーのやつ」
仕事の話を出され、莉菜は言葉に詰まる。
「えっ、私が……メインですか?」
「そうだよ。お前の腕を買ってるんだ。……打ち合わせ兼ねて、金曜の夜、二人でどう?」
後藤はニヤリと笑い、莉菜のデスクに身を乗り出した。
病院での嶺町の嫉妬、そして会社での後藤の急接近。
二人の周囲に張り巡らされた「大人の罠」が、秘密の恋を少しずつ追い詰めていこうとしていた。
(第7話・了)
<あとがき>
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