第6話 白衣を脱いだ土曜日
1. 待ち合わせは、病院から三つ離れた駅で
退院から一週間。
小石川莉菜の身体は、驚くほど順調に回復していた。
時折、お腹の傷口がシクシクと痛むことはあるものの、あの病気の時の、命を削られるような暗い激痛は完全に消失している。
朝、すっきりと目覚められることが、これほど幸せなことだなんて知らなかった。
そして、待ちに待った土曜日。
莉菜は、クローゼットの前で一時間以上も頭を悩ませていた。
あまり子供っぽく見られたくないけれど、背伸びしすぎた格好をして、20歳年上の彼に「無理をしている」と思われないだろうか。
結局、淡いサックスブルーのサマーワンピースに、白いカーディガンという、清楚で落ち着いたコーディネートに落ち着いた。
待ち合わせ場所は、聖マリアンナ記念病院から電車で三つ離れた、少しお洒落な大人の街の駅前。
「病院の近くでは会えない」という、医師と元患者という関係性ゆえの、ほんの少しのスリルが莉菜の胸をときめかせる。
約束の午前十一時、五分前。
改札を出てロータリーを見渡すと、柱の影に、スマートフォンの画面を見つめている一人の男性の姿があった。
(……あ、英治さん……!)
莉菜は思わず小さく息を呑んだ。
白衣を脱いだ宮本英治は、やはり大人の色気に満ちていた。
上質なネイビーのサマージャケットに、インナーはシンプルな白のVネックTシャツ。
綺麗めのチノパンを合わせたその佇まいは、周囲の若い男性たちには逆立ちしても真似できない、年齢を重ねた男の「余裕」と「洗練さ」が漂っている。
「英治さん!」
莉菜が小走りで駆け寄ると、宮本は顔を上げ、細い眼鏡の奥の瞳をふわりと細めた。
「莉菜さん。……お腹の傷は響いていませんか? 走ったら危ない」
「大丈夫です、嬉しくて、つい。……お待たせしました」
「いや、俺も今着たところです。……今日の服、とてもよく似合っている。病院で見ていた時より、ずっと眩しいな」
「え、あ、ありがとうございます……っ」
ストレートな大人の褒め言葉に、莉菜は一瞬で顔を真っ赤にした。
宮本はフッと悪戯っぽく笑うと、莉菜の左手をそっと取り、自分のジャケットのポケットの横へと導いた。人目が少しある場所なので、指を絡ませる代わりに、彼の腕にそっと触れる位置。
その絶妙な距離感が、かえって二人の距離を近く感じさせた。
2. 大人のエスコート、隠された視線
宮本が案内してくれたのは、緑豊かな通りの奥にある、完全予約制の隠れ家風イタリアンレストランだった。
目の前でシェフが腕を振るう落ち着いた空間で、莉菜の術後の身体を気遣い、消化が良く油分の少ない特別なコースを事前に頼んでおいてくれたらしい。
「美味しい……! 病院食も美味しかったけど、やっぱり全然違いますね」
「それはよかった。まだアルコールは駄目だが、そのノンアルコールのサングリアも自家製で美味しいよ」
宮本は穏やかに微笑みながら、莉菜が食事を楽しむ姿を愛おしそうに見つめていた。
病院での威厳に満ちた「宮本部長」とは違い、今の彼は、一人の女性を喜ばせようとする優しい年上の恋人そのものだった。
「……実は、君とこうして外で会うのが決まってから、今週は生きた心地がしなかったんだ」
宮本はふっと視線を落とし、苦笑いした。
「え? どうしてですか?」
「外来の最中も、若いスタッフの前でつい上の空になりそうになってね。……特に、俺のチームに入っている若い看護師の**嶺町**なんかは、俺の少しの変化にも敏感だから、『宮本先生、最近何か良いことありました? カルテを見る目が優しいです』なんて突っ込まれて、冷や汗をかいたよ」
「嶺町さん……」
莉菜の脳裏に、入院中に何度かナースステーションで見かけた、ショートカットのハキハキとした美人看護師の姿が浮かんだ。
確か年齢は20代後半、宮本を尊敬の眼差しで見つめていたのが印象的だった。
ほんの少しだけ、胸の奥がチクリと痛む。宮本の周りには、彼を慕う魅力的な大人の女性がたくさんいるのだ。
「……莉菜? どうかした?急に黙って」
「あ、ううん、何でもないです! 職場の人にバレたら大変ですもんね」
莉菜が慌てて笑顔を作ると、宮本はテーブルの下で、莉菜の膝の上にそっと自分の手を重ねた。
大きくて、温かい、あの手術の時に莉菜を救ってくれた手。
「心配しなくていい。俺にとって、特別な女の子は君だけだ。誰にも、俺たちの領域を邪魔させはしないよ」
「英治さん……」
その包み込むような言葉に、莉菜の小さな嫉妬は一瞬で溶かされていった。
3. 月曜日の現実、背後に迫る足音
楽しい週末は瞬く間に過ぎ去り、月曜日。
莉菜は、二週間ぶりに自分のデザイン会社へと出社していた。
病気を乗り越え、すっかり元気になった莉菜を、チームのメンバーは温かく迎えてくれた。
「莉菜ちゃん! おかえり! 体調はもう大丈夫なの?」
「はい、すっかり! ご迷惑をおかけしました」
デスクに荷物を置き、溜まっていたメールのチェックを始めようとした時、背後から「よぉ、お疲れ、莉菜」と、低く調子の良い声が降ってきた。
振り返ると、そこには仕立ての良いスーツを少し着崩し、端整な顔立ちに自信満々の笑みを浮かべた男が立っていた。
営業部のエースであり、社内でもモテ男として有名な後藤龍路、29歳。
「後藤さん、お疲れ様です」
「大変だったな、急に入院なんてさ。お前がいない間、デザインの進捗が気になって、俺、毎日ハラハラしてたんだぜ?」
後藤は莉菜のデスクの端に腰掛け、不躾なほど距離を詰めて顔を覗き込んできた。
「あ、すみません。でも、もう完璧に治ったので、遅れた分は取り戻します」
「無理すんなって。病み上がりなんだからさ。……なぁ、今週のどこかで快気祝いさせてよ。お前が好きそうな、美味い肉の店、予約しとくから」
後藤の距離感の近さと、値踏みするような男としての視線に、莉菜はかすかな居心地の悪さを感じた。
今までは「仕事ができるちょっと強引な先輩」としか思っていなかったが、宮本という「本物の大人の包容力」を知ってしまった今の莉菜にとって、後藤のムーブはどこか子供っぽく、警戒すべきものに映った。
「ありがとうございます。でも、まだ食事に少し制限があって……また落ち着いたら、チームの皆さんと一緒にお願いします」
莉菜は丁寧に、しかし明確に一線を引くように断った。
「……そっか。まぁ、焦らねぇよ。いつでも声かけて」
後藤は一瞬だけ、プライドを傷つけられたような目をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みに戻り、ひらひらと手を振って営業フロアへと戻っていった。
だが、その去り際の視線は、諦めるどころか、逆に莉菜に対する執着を燃え上がらせているようでもあった。
4. 内緒の通話と、忍び寄る影
その日の夜、午後十時。
莉菜は自宅のベッドの中で、宮本からの電話を待っていた。
スマートフォンが振動し、画面に『英治さん』と表示された瞬間、莉菜は飛び起きるようにして通話ボタンを押した。
「もしもし、英治さん!」
『こんばんは、莉菜。……今日から仕事復帰だったね。無理はしなかったかい?』
受話器から流れる彼のバリトンボイスを聴くだけで、昼間のオフィスでの緊張や、後藤に対するモヤモヤが一瞬で消え去っていく。
「はい、みんな優しくて、大丈夫でした。……あの、英治さんは? 今日もお仕事、大変でしたか?」
『ああ、今日は午後から緊急の手術が入ってね。先ほどようやく当直室に戻ってきたところだ。……でも、君の声を聴いたら、疲れなんて全部吹き飛んでしまったよ』
「ふふ、お疲れ様です。……あ、そうだ。今日ね、会社の営業の人から、快気祝いに誘われたんです」
莉菜は何気なく、後藤の話を口にした。隠し事をしたくなかったからだ。
『……男の人、かい?』
受話器の向こうで、宮本の声のトーンが、わずかに低く、硬くなったのが分かった。
「え、あ、はい。営業の後藤さんっていう先輩なんですけど……でも、ちゃんと断りました! まだ食事制限があるから、みんなでって」
『……そうか。従順で、よく出来た患者だね』
宮本は少しだけホッとしたように笑ったが、その声の裏には、20歳も若い恋人を「大人の男たち」の前に晒していることへの、隠しきれない独占欲と焦燥が滲んでいた。
『莉菜。俺は、君が思っている以上に嫉妬深い男だ。……早く君の身体を、俺の腕の中に閉じ込めてしまいたい』
「英治さん……っ」
彼の少し強引で、独占欲に満ちた言葉に、莉菜の下腹部がキュンと甘く疼く。
しかし、そんな二人の甘い夜電波の裏で、運命の歯車は静かに、確実に狂い始めようとしていた。
同じ時刻。聖マリアンナ記念病院の医局。
宮本が当直室に入っていく後ろ姿を、夜勤交代のために通りかかった看護師の嶺町雫が、じっと見つめていた。
「宮本先生……最近、やっぱり誰かと電話してる。あんなに仕事人間だった先生が、あんなに優しい顔で笑うなんて……。一体、誰なの……?」
雫の瞳の中に、冷たい執着の炎が灯っていた。
医師と元患者。
周囲に隠さなければならない秘密の恋は、早くも、病院内と会社、二つの場所から押し寄せる「嫉妬」の嵐に巻き込まれようとしていた。
(第6話・了)
<あとがき>
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