第4話 手術前夜のカルテ
1. 白いシーツと無機質な音
入院初日。
莉菜に割り当てられたのは、4階の婦人科病棟にある個室だった。
窓からは、遠くに初夏の青い街並みが見渡せる。しかし、部屋の中に漂うかすかな消毒薬の臭いと、ベッド脇に設置されたナースコール、壁から伸びる酸素吸入の配管が、ここが非日常の場所であることを無機質に主張していた。
「小石川さん、今日から担当する看護師の佐藤です。よろしくお願いしますね。まずはバイタル測定と、点滴用のルートキープをさせていただきます」
テキパキと動く看護師の手によって、莉菜の左腕に太い留置針が刺される。
手術中に大量の点滴や麻酔薬、万が一の輸血を迅速に行うための、外径約 1.2mm(18ゲージ)の太い針だ。
チクリとした痛みの後、プラスチックのカニューレが血管内に留まり、莉菜の左腕には青いテープが厳重に貼られた。
「痛かったですね。でも、これで手術の準備はバッチリです。午後から宮本先生の術前診察と、インフォームド・コンセント(術前説明)がありますからね」
「はい。よろしくお願いします」
ベッドの上にぽつんと座り、パジャマの袖をめくったままの左腕を見つめる。
手術は明日。
ジエノゲストの休薬によって、子宮は今、生理的な充血を伴って過敏になっている。
下腹部がシクシクと疼くたびに、明日、自分の身体にメスが入るのだという現実が、冷たい現実味を帯びて莉菜の胸に迫ってきた。
(本当に、大丈夫なのかな……。もし、癒着がひどくて、お腹を開けたら『やっぱり全摘しかありません』って言われたら……)
一度考え始めると、不安のループは止まらない。
窓の外の青空が、急に遠く、冷たいものに見えて仕方がなかった。
2. インフォームド・コンセントの境界線
午後二時。
莉菜は、病棟の奥にある静かな「説明室」に呼ばれた。
重い木製のドアを開けると、そこにはカルテの束と、子宮の立体模型、そしていくつかの同意書を並べた宮本が待っていた。
白衣のポケットに両手を入れ、真剣な表情で資料を見つめていた宮本は、莉菜が入ってきた瞬間に表情を和らげた。
「入ってください、莉菜さん。よく眠れましたか?」
「……緊張して、あまり眠れませんでした」
正直に打ち明けると、宮本は「そうですよね」と、低く、包み込むような声で笑った。
「手術を前にして緊張しない人なんていません。僕だって、何度執刀しても、前夜は身が引き締まる思いになります。……さて、始めましょうか。明日の術式についての最終確認です」
宮本は子宮の立体模型を手に取り、莉菜の目元に近づけた。
「今回行うのは『子宮腺筋症核出術』です。通常の開腹手術を行い、子宮筋層を直接視診しながら、腺筋症に侵されている硬い病変組織を、健康な心筋――筋層からミリ単位でくり抜いていきます(核出)。ジエノゲストの治療によって、病変は 2.5cmまで縮小し、境界線も比較的明瞭になっていますが、子宮壁は非常に血管が豊富です」
宮本は電子カルテに表示された、莉菜の最新の骨盤MRI画像をペンで指し示す。
「病変をくり抜いた後は、残された健全な子宮の壁を、幾重にも細かく、頑丈に縫い合わせる必要があります(多層縫合)。これによって、将来、あなたが妊娠した際にも、赤ちゃんの成長による子宮の増大に耐えられるだけの強度を担保します。……ここまでは、よろしいですか?」
「はい……」
宮本の説明は極めて論理的で、専門的だった。だからこそ、莉菜はその裏にある「難易度の高さ」を肌で感じ取ってしまう。
「先生……もし、癒着が私の想像以上にひどかったり、出血が止まらなくなったりしたら……どうなるんですか?」
不安で押しつぶされそうな莉菜の問いに、宮本はペンを置き、眼鏡を外した。
細いフレームの奥にある、深く、力強い瞳がまっすぐに莉菜を射抜く。
「医学において『100%絶対』という言葉は使えません。術中、制御不能な大出血や、子宮の修復が不可能な事態に陥った場合、あなたの命を守るために、最悪の選択肢――子宮全摘出へ移行する同意も、この書類には含まれています」
「……っ」
莉菜の手が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
やはり、そのリスクはゼロにはならないのだ。
「ですが」
宮本は、莉菜の震える手の上に、自分の大きくて温かい手をそっと重ねた。
説明室の冷たい空気が、彼の体温によって一瞬で溶かされていく。
「それは、他の医者が執刀した場合の話です。僕が明日、そのメスを握る。僕のこれまでの二十年のキャリアと、技術のすべてをかけて、君の子宮を、君の未来を、必ず守り抜く。……全摘には絶対にさせない。俺を、信じてください」
「英治さん……」
主治医としての冷徹な「説明」の後に、彼が私的に囁いた「俺」という言葉。
その言葉の重みと、重ねられた手の温もりに、莉菜の瞳から張り詰めていた涙が静かにこぼれ落ちた。
「はい……。信じます。私のからだも、未来も、全部先生に預けます」
「ええ。よく言ってくれました。同意書に、サインをお願いします」
宮本は優しく微笑み、莉菜に万年筆を手渡した。
震える手で自分の名前を書き入れる莉菜。
その横顔を見つめる宮本の瞳には、医師としての義務感だけでなく、一人の男としての、狂おしいほどの執念が宿っていた。
3. 午前零時の特別往診
消灯時間を過ぎた深夜。
静まり返った病棟に、等間隔で鳴り響くナースステーションのモニター音だけが聞こえていた。
莉菜は、暗い個室のベッドの中で、どうしても眠れずに寝返りを打っていた。
明日の午前九時には、手術室への入室が始まる。
お腹を切られる恐怖、そして何よりも「目が覚めたとき、どうなっているのか」という不安が、暗闇の中で怪物のように膨れ上がっていく。
トントン、と、極めてかすかな音がドアから聞こえた。
「はい……?」
莉菜が身を起こすと、静かにドアが開き、一本の長い影が部屋に入ってきた。
暗がりに目が慣れていくと、そこには白衣を羽織り、首から聴診器を下げた宮本の姿があった。
「先生……? どうして、こんな時間に……」
「……眠れないだろうと思ってね。当直の特権を使って、少し様子を見にきたんだ」
宮本は静かにドアを閉め、莉菜のベッドの脇へと歩み寄った。
彼が近づくだけで、部屋の中に、微かに彼のお気に入りの珈琲の香りと、清潔な石鹸の匂いが広がる。
宮本は丸椅子を引き寄せ、莉菜の枕元に腰掛けた。
「点滴の針、痛まないかい?」
「はい、大丈夫です。……ただ、ちょっと、心臓がずっとドキドキしていて」
「そうか。少し、胸の音を聴かせてほしい」
宮本はそう言うと、聴診器のチェストピースを自分の手で包み、莉菜の肌に触れる前に、彼の体温で金属の冷たさを温めた。
そして、莉菜のパジャマの胸元に、優しくそれを滑り込ませる。
(……あ、近い……)
宮本の顔が、吐息がかかるほどの距離に近づく。
彼の細い眼鏡の奥の瞳が、暗闇の中で怪しく、しかし深く濡れたように光っていた。
聴診器を通じて、莉菜の激しい鼓動が宮本の耳へと伝わっているはずだった。恥ずかしさで、莉菜の顔がカァッと赤くなる。
「……やはり、少し頻脈気味だね。不安が緊張を生んで、交感神経が優位になっている」
宮本は聴診器を外すと、それを首にかけ、莉菜の少し冷たくなっている右手を、両手で包み込むようにして握りしめた。
「莉菜。怖いかい?」
「……はい。すごく、怖いです。もし、明日、目が覚めたときに、先生が悲しい顔をしていたらどうしようって……そればかり、考えてしまって」
莉菜の瞳から、再び涙が溢れ、枕を濡らしていく。
宮本は黙って、ベッドの淵に身を乗り出した。
そして、自由な方の手で莉菜の濡れた頬を包み込み、彼の額を、莉菜の額へと静かに重ね合わせた。
「――っ!?」
莉菜の息が止まる。
お互いの睫毛が触れ合うほどの超至近距離。宮本の熱い吐息が、莉菜の唇を優しく揺らした。
「俺が、悲しい顔なんてさせるわけがない。明日、手術室で君が麻酔から目覚めるとき、俺は必ず笑って『成功したよ』と伝える。……君の細い身体を、これ以上傷つけさせはしない。君がまた、元気に笑って、大好きなデザインの仕事に戻れるように……俺のすべてを賭けるから」
「英治さん……」
「だから、今夜は安心して眠りなさい。俺は当直室で、ずっと君のカルテを見守っている。……君が眠るまで、こうして手を握っていてあげるから」
宮本は、額を離すと、莉菜の額にそっと、羽毛のように優しい、祈るようなキスを落とした。
それは、医師としての境界線を、完全に、しかし誰よりも美しく踏み越えた瞬間だった。
「……はい。おやすみなさい、英治さん」
宮本の温かい手に包まれながら、莉菜はゆっくりと瞳を閉じた。
不思議なことに、あんなに激しかった心臓の鼓動は静まり返り、深い、心地よい眠りの波が彼女を包み込んでいった。
4. 赤いランプの向こう側
翌朝。午前八時四十五分。
「小石川さん、時間になりました。手術室へ移動しましょう」
看護師の声と共に、莉菜の乗った車椅子が病室を出発した。
廊下を進むにつれ、周囲の天井は低くなり、空気は一段と冷たくなっていく。
そして、重厚な金属製のスライドドアの向こう側――「手術部門」へと足を踏み入れた。
無数の医療機器が並び、人工的な光が降り注ぐ、極めて冷徹な空間。
莉菜が手術台へと横たわり、心電図の電極が貼られ、血圧計が腕を締め付ける。
酸素マスクが顔に当てられ、「ゆっくり深呼吸してくださいね」という麻酔科医の声が聞こえてきた。
視界が徐々に、白く、かすんでいく。
(英治さん……)
意識が途切れる直前、莉菜の視界に入ってきたのは、グリーンの手術着に身を包み、鋭い眼差しでメスを手にする宮本の姿だった。
彼のマスクの奥の口元が、微かに動き、声にはならぬ言葉を莉菜に送った。
――「行ってらっしゃい。必ず、守るから」
その確かな確信を胸に、莉菜は深い、深い、麻酔の眠りへと落ちていった。
(第4話・了)




