第3話 境界線のゆらぎ
1. 白衣の奥の、張り詰めた糸
手術を翌月に控えた初夏。
莉菜の治療は、手術前の最終調整段階に入っていた。
長期間にわたって分泌を抑え込んできた女性ホルモンを一時的にコントロールしつつ、手術中の出血量を最小限に抑えるための自己血貯血(じこけっちょけつ:万が一の輸血に備え、事前に自分の血液を採って保存しておくこと)などの準備が進む。
「――今日採血した分の数値も非常に良好です。ヘモグロビン値も 12.5g/dL。これなら予定通り、術前の自己血確保に進めますね」
診察室のデスクで、宮本は電子カルテに素早くデータを打ち込みながら言った。
「ありがとうございます。先生のおかげで、本当に体調が良くて……」
莉菜は宮本の横顔を見つめた。
診察室にいるときの彼は、完璧な「産婦人科部長・宮本英治」だ。
あの深夜の病室で見せた、少し寂しげで、自分を「一人の女の子」として扱ってくれた熱い眼差しは、まるで夢だったのではないかと思えるほどに隙がない。
(でも、あの温かい手の感触は、絶対に嘘じゃない……)
「小石川さん」
宮本がふっとキーボードを叩く手を止め、莉菜に向き直った。
眼鏡の奥の瞳が、ふわりと和らぐ。
「……いや、莉菜さん。仕事の方は、調整がつきましたか?」
「はい。上司やチームのメンバーには、婦人科系の良性腫瘍の手術で2週間ほど入院・自宅療養をすると伝えてあります。進行中だったデザイン案件も、先週無事にすべて納品を終えました」
「それはよかった。素晴らしいプロ意識だ。でも、もう無理はしないでください。これからは自分の身体のことだけを考えて過ごすように」
「はい。……あの、英治さん」
莉菜は、他の看護師が席を外している一瞬の隙を見計らって、彼のファーストネームを呼んだ。
宮本は一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに周囲を気にするように視線を落とし、困ったような、しかし嬉しさを隠しきれない大人の笑みを浮かべた。
「診察室では、宮本先生、でしょう。……周りに聞かれたら、僕の立場がなくなってしまう」
「あ……ごめんなさい。つい、嬉しくて」
莉菜が小さく肩をすぼめると、宮本は少しだけ声を潜めて囁いた。
「いや、怒っているわけじゃない。ただ……君にそう呼ばれると、自分が『医者』であることを忘れてしまいそうになる。……それは、今の俺にとっては非常に危険なことだからね」
その低い声に含まれたかすかな「熱」に、莉菜の胸の奥がキュンと締め付けられた。
2. 夕暮れの街、偶然の重なり
その日の夕方。
病院での検査を終えた莉菜は、入院生活に必要なパジャマやアメニティを買い揃えるため、病院の最寄り駅近くにある少し落ち着いたデパートのライフスタイルショップに立ち寄っていた。
手触りの良いオーガニックコットンのパジャマを手に取り、鏡の前で合わせていると――。
「……莉菜さん?」
聞き慣れたその声に、莉菜の心臓が大きく跳ねた。
振り返ると、そこには白衣を脱ぎ、私服姿の宮本が立っていた。
チャコールグレーのサマーニットに、仕立ての良い細身のスラックス。
白衣の時とは異なる、洗練された大人の男性の私服姿に、莉菜は一瞬息を呑んだ。
「宮本、先生……? え、どうしてここに……?」
「今日、午後の外来が終わった後、少し時間ができてね。自宅の買い出しに寄ったんだが……まさか、こんなところで君に会えるとは」
宮本の手に持った買い物カゴには、シンプルな食材や輸入物のコーヒー豆が入っていた。
バツイチの一人暮らしを連想させるそのカゴの中身に、莉菜は言いようのない愛おしさを感じる。
「入院の準備ですか?」
「あ、はい。前開きのパジャマが良いって、看護師さんに言われたので、探していて」
「うん、それがいいですね。手術後は点滴や心電図のコードがつきますから、前開きが一番処置しやすい。……その色、とてもよく似合っていますよ」
宮本が優しく微笑みながら、莉菜の手元にある淡いラベンダー色のパジャマを指差した。
その穏やかな眼差しに見つめられ、莉菜の頬がカァッと熱くなる。
「あ、ありがとうございます……っ」
「……少し、歩きませんか。すぐそこに、落ち着いた喫茶店があるんだ」
宮本がそっと莉菜の隣に並び、囁いた。
病院の外。
白い巨塔のルールから解放されたその場所で、二人の「プライベート」が、初めて静かに交差しようとしていた。
3. 珈琲の香りと、越えてはならない一線
ジャズが静かに流れる、少し薄暗い喫茶店の奥の席。
運ばれてきた深煎りの珈琲の香りが、二人の間の心地よい沈黙を満たしていく。
「本当は、患者と外で個人的に会うなんて、医師としては失格だな」
宮本は珈琲カップを手に取り、自嘲気味に微笑んだ。
「でも、今日だけは……一人の男として、君と話したかった。君がこれから迎える手術の不安を、少しでも和らげることができるなら、俺はどんな規律違反だって犯すつもりだ」
「英治さん……」
莉菜はカップを持つ自分の手が、微かに震えるのを感じた。
「私……正直に言うと、手術はすごく怖いです。麻酔から目が覚めなかったらどうしようとか、もしお腹を開けてみて、どうしても子宮を残せなかったらどうしようって……」
抑え込んでいた本音が、宮本の温かい視線の前で決壊するように溢れ出す。
宮本はテーブル越しに、莉菜の震える手をそっと包み込んだ。
病院の診察室よりも、ずっと強く、そして確かな体温が莉菜の肌に伝わってくる。
「大丈夫だ。俺の技術をかけて、君の子宮を、君の未来を、必ず守り抜く。……それに、麻酔から覚めたとき、一番に君の目に入るのは、俺の顔だ。絶対に、君を一人にはさせない」
「英治さん……私、先生のことが……」
喉まで出かかった「好き」という言葉を、莉菜はかろうじて飲み込んだ。
まだ自分は患者であり、彼は主治医。
その境界線を完全に壊してしまえば、彼を窮地に立たせてしまうかもしれない。その葛藤が、莉菜の胸を締め付ける。
宮本もまた、莉菜の瞳の奥にある熱い感情に気づいていた。
彼は莉菜の手を一度愛おしそうに握り締めると、ゆっくりと手を離し、寂しげに、しかし決意を秘めた声で言った。
「莉菜。……今は、俺を『医師』として、全幅の信頼を寄せてほしい。君を無事に完治させ、この手で退院を見送るまでは……俺は君の完璧な『盾』でありたいんだ」
「はい……。私、ちゃんと手術を乗り越えます。そして、元気になったら……」
「ああ。すべてが終わったら、その時は――」
宮本はそれ以上言わなかった。
だが、その瞳には、一人の男としての強い「誓い」が宿っていた。
4. 不穏な予兆、そして入院へ
手術を2週間後に控えたある夜。
ジエノゲストの休薬(術前のホルモンバランス調整のための一時的な服用停止)に入った莉菜を、再び激しい下腹部痛が襲った。
薬で押さえつけていた腺筋症の病変が、一時的な月経(生理)の再開に伴い、最後の抵抗を見せるかのように猛烈に腫れ上がり始めたのだ。
「う、あ……っ、痛い……っ」
ベッドの上で身体を丸め、脂汗を流す莉菜。
しかし、半年前のあの日とは違った。
今の莉菜の手には、彼からもらった「絶対に守る」という言葉がある。
そして、信頼する医師が、自分のために万全の術式を用意して待ってくれているという確信がある。
莉菜は痛みに耐えながら、スマートフォンのカレンダーに記された「入院日」のマークを見つめた。
(あと一週間。この痛みを乗り越えれば、英治さんの待つ病院に行ける――)
苦痛の夜を乗り越え、ついに迎えた入院日の朝。
聖マリアンナ記念病院の重厚な玄関をくぐる莉菜の表情には、かつての絶望は微塵もなかった。
病棟のナースステーションの前。
白衣を翻し、威厳に満ちた表情でスタッフに指示を出していた宮本が、莉菜の姿を見つけて振り返る。
一瞬だけ交わされた、二人だけの視線。
それは、これから始まる「命がけの戦い」に向けた、静かな約束の合図だった。
(第3話・了)




