第2話 ジエノゲストの試練と、白衣の裏の孤独
1. 偽りの閉経、戦いの始まり
「――これが、今日からあなたが毎日飲むことになる薬です」
聖マリアンナ記念病院の第一診察室。
宮本英治は、デスクの上にアルミシートに包まれた小さな白い錠剤を置いた。
「『ジエノゲスト』。黄体ホルモンを体内に補うことで、脳に『今は妊娠中だ』、あるいは『すでに閉経している』と錯覚させ、排卵と生理を完全に止める薬です。子宮内膜症や、あなたのような子宮腺筋症の治療における第一選択薬ですね」
莉菜は、差し出されたその小さな薬をじっと見つめた。
1日2回、毎日決まった時間に飲む。
ただそれだけで、自分の身体から「生理」という、女性にとって当たり前だった営みが消える。
「これを飲むと、私の腺筋症は小さくなるんですか?」
「ええ。エストロゲンの分泌が極限まで抑えられますから、腺筋症の栄養源が断たれます。徐々にですが、子宮全体の腫れは引き、筋層に染み込んだ病変も縮小していくはずです」
宮本は眼鏡の位置を少し直し、真摯な眼差しを莉菜に向けた。
「ただし、非常に高い確率で『不正出血』が起こります。特に服用を開始して最初の数ヶ月は、ダラダラと血が止まらないことが多い。それに、ホルモンバランスが急激に変化することで、更年期障害に似た症状――ほてりや頭痛、気分の落ち込みが出ることもあります。……小石川さん、決して楽な治療ではありません」
「大丈夫です」
莉菜はきっぱりと言った。
「子宮を取らなきゃいけないかもしれないって言われた時に比べたら、薬の副作用なんて、何でもありません。宮本先生が、私の身体を残すために考えてくれた治療ですから」
「……そうですか」
宮本の端整な顔立ちに、ふっと柔らかい笑みが浮かんだ。
普段、多くの患者に対して見せる「完璧な医師としての仮面」が、ほんの一瞬だけ外れたような、そんな温かい笑みだった。
「その強い気持ちがあれば大丈夫です。でも、辛い時は決して一人で我慢しないでください。僕がついていますから」
「はい……!」
診察室を出た後も、莉菜の胸の奥はトクトクと小さく脈打っていた。
病気への不安はもちろんある。けれど、それ以上に「宮本先生が私を見てくれている」という事実が、彼女の心を驚くほど強く支えていた。
2. 副作用の嵐と、深夜のSOS
治療が始まって一ヶ月。
宮本の言葉通り、莉菜の身体は激しいホルモンの乱高下に晒されていた。
最も莉菜を苦しめたのは、不意に襲ってくる「ホットフラッシュ(ほてり)」と、底なしの「精神的疲労」だった。
仕事中、エアコンが効いているはずのオフィスで、突然首筋から顔にかけてカァッと熱くなり、滝のような汗が吹き出す。
周囲の同僚たちが「莉菜ちゃん、大丈夫? 風邪?」と心配そうに声をかけてくるが、不妊治療や婦人科系のデリケートな病気のことを、職場で事細かに説明できるはずもなかった。
「ううん、ちょっとのぼせちゃって。大丈夫、ちょっとお手洗い行ってくるね」
トイレの個室に駆け込み、冷たい水で濡らしたハンカチを首元に当てる。
鏡に映る自分の顔は土気色で、ひどく老け込んで見えた。
さらに追い打ちをかけるように、下着には毎日のように薄暗い血が滲む。
ジエノゲストの副作用である持続的な不正出血だ。
「私、本当に治るのかな……。このまま、女として枯れていくだけなんじゃないのかな……」
生理痛の激痛からは解放された。
しかし、代わりにやってきたのは、得体の知れない喪失感と孤独だった。
そんなある日の深夜。
莉菜は、突然の激しい偏頭痛と吐き気に襲われ、自宅のベッドからのたうち回っていた。
ロキソニンを飲もうとしたが、胃が受け付けずに吐き出してしまう。
手足は氷のように冷たいのに、頭だけが異常に熱い。
「痛い……誰か、助けて……」
パニックになりながら、スマートフォンを握りしめる。
深夜2時。
救急車を呼ぶべきか迷ったが、莉菜の指は、初診の際、宮本から「緊急連絡用」として渡されていた、産婦人科外来の直通ダイヤル、そして彼の「PHS(院内内線番号)」へと繋がる番号をタップしていた。
呼び出し音が数回。
もう切ろうとしたその時、受話器の向こうから、少し掠れた、しかし聞き慣れたあの低い声が聞こえてきた。
「――はい、宮本です」
「あ……みや、もと先生……っ……」
「小石川さん!? どうしましたか、息が荒い」
「頭が、割れそうに痛くて……吐いちゃって……。お薬のせい、ですか……? 私、どうしたら……」
涙混じりの声で訴える莉菜に、宮本は一瞬で「医師の顔」に戻り、冷静かつ的確に指示を出した。
「パニックにならないで。ジエノゲストによる軽度の脳圧上昇、あるいは低エストロゲンによる血管収縮性の偏頭痛の可能性があります。今から救急外来に来られますか? 私が今夜は当直で院内にいます。すぐに受け入れの準備をさせます」
「先生が……病院に、いるんですか……?」
「ええ、います。だから安心して、タクシーを呼んでこちらに向かってください。いいですね?」
「はい……っ」
宮本の声を聞いただけで、あんなに激しかった吐き気が、不思議とすっと引いていくのを感じた。莉菜はコートを羽織り、ふらつく足でタクシーへと乗り込んだ。
3. 白衣を脱いだ一人の男
救急外来のベッドで、莉菜は点滴を受けていた。
脱水症状とホルモンバランスの急激な乱れを整えるための点滴だ。
血管の中に冷たい液体が流れ込んでいくと同時に、頭を締め付けていた割れるような痛みが、徐々に和らいでいく。
カーテンが開いた。
現れたのは、白衣を脱ぎ、ネイビーのスクラブ(医療用手術着)姿になった宮本だった。
普段の完璧なスーツスタイルとは違い、鎖骨が少し覗くラフな格好が、かえって彼の大人の男としての色気を際立たせている。
「少し落ち着きましたか、小石川さん」
宮本はベッドの脇の丸椅子に腰掛け、莉菜の額にそっと手を当てた。
大きくて、少しだけカサついた、温かい手。
「熱は下がってきているようですね。急に強い薬を使い始めたから、身体が悲鳴を上げてしまったんだ。事前に十分にケアしきれず、すまなかった」
「ううん、違うんです……。私が、先生を驚かせちゃって、ごめんなさい」
莉菜はシーツから細い腕を伸ばし、宮本のスクラブの袖を小さく掴んだ。
「私、怖かったんです。毎日血が出て、身体が熱くなって……。このまま、普通の女の子に戻れなくなっちゃうんじゃないかって。お仕事も、いつまで続けられるか分からなくて……」
堰を切ったように涙を流す莉菜。
そんな彼女を、宮本は叱ることも、諭すこともしなかった。
ただ、彼女を安心させるように、その掴まれた手を優しく握り返し、もう片方の手で彼女の涙をそっと拭った。
「普通の女の子ですよ」
宮本の声は、夜の病室にとても優しく、深く響いた。
「あなたは十分すぎるほど若くて、美しい。そして、病気と戦っている勇敢な女性だ。……医師としてではなく、一人の男として言わせてもらうなら」
宮本は莉菜の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺の前では、ただの女の子でいい。強くあろうとする必要なんて、どこにもないんだ。弱音を吐いて、泣いて、俺に甘えてくれればいい。そのために、俺がここにいるんだから」
「みや、もと……先生……?」
『俺』
宮本が初めて使った、医師の仮面を脱いだ一人称。
その言葉の温度に、莉菜の心臓がトクンと大きく跳ねた。
「……先生は、どうしてそんなに優しいんですか? 私、ただの患者なのに……」
宮本はふっと視線を落とし、寂しげに微笑んだ。
「……俺も、孤独なんだろうな。妻とは何年も前に、医療に没頭しすぎた俺の不徳で離婚した。子供もいない。この白い巨塔のような病院の中で、毎日カルテと向き合って、命を救うことだけが俺の存在証明だった。……でも、君と出会って、君のその細い体を守りたいと心から思った時、俺の中にまだ『人間らしい感情』が残っていたんだと気づかされたんだ」
宮本の手が、莉菜の頬を愛おしそうに包み込む。
「小石川さん。……莉菜。君の子宮は、俺が絶対に守る。だから、自分を信じて。俺を信じて」
「……はい、英治さん」
莉菜は初めて、彼の名前を呼んだ。
静まり返った深夜の病室。
点滴の静かな滴下音だけが響く中、二人の心は、医師と患者という境界線を、確かに踏み越えようとしていた。
4. 治療の成果と、手術の決意
それから五ヶ月が経過した。
季節は移り変わり、莉菜の身体にも少しずつ変化が現れていた。
ジエノゲストの服用を愚直に続けた結果、あれほど毎日のように続いていた不正出血は完全に止まり、ホットフラッシュの頻度も劇的に減少した。
そして、運命の定期検診の日。
「小石川さん、これが今日のMRIの画像です」
宮本がモニターを示す。
画面に映し出された莉菜の子宮は、半年前のあのボコボコとした巨大な塊ではなく、驚くほど滑らかで、本来のサイズにかなり近い状態まで縮小していた。
「見てください。最大で8センチ近くあった腺筋症の病変部が、ジエノゲストの効果で約2.5センチまで小さくなっています。周辺組織との癒着も、かなり剥がれやすい状態にまで改善している」
「すごい……! 本当に、小さくなってる……!」
莉菜は思わず両手で口を覆った。
「ええ。君が副作用の辛さに耐え、毎日欠かさず薬を飲み続けてくれたおかげです。素晴らしい成果だ」
宮本は満足そうに何度も頷いた。
そして、表情を少し引き締める。
「これで、第一段階はクリアです。次はいよいよ、最終段階……小さくなった病変部を外科的にくり抜く『子宮腺筋症核出術』を行います。これによって、あなたの病気の根源を絶ち、健康な子宮を取り戻す」
宮本は、莉菜の手の上に自分の手を重ねた。
「手術予定日は来月。執刀医はもちろん、俺だ。君の大切な身体に、メスを入れることを許してほしい。……必ず、成功させてみせる」
「はい。私のすべてを、英治さんに預けます」
莉菜は迷いのない瞳で、深く頷いた。
病気との戦いは、ついに最終局面を迎える。そしてそれは、二人の関係が「新たなステージ」へと進むための、最後の試練でもあった。
(第2話・了)




