第1話 激痛の朝と、冷徹な名医の眼差し
「俺が、君の未来を守る」――寡黙な天才名医と若き患者の、命がけの愛。
小石川莉菜、26歳。
ある朝、襲ってきた耐え難い下腹部の激痛。市販の鎮痛剤も効かず、縋る思いで訪れた大病院で彼女を待っていたのは、白衣の似合う渋い産婦人科医・宮本英治だった。
「病名は、子宮腺筋症。最悪の場合、子宮をすべて取り除くことになります」
あまりにも非情な宣告に、絶望し涙する莉菜。
しかし、普段は冷徹とも思える宮本は、彼女の震える手を包み込み、真摯な瞳でこう告げた。
「諦める必要はありません。あなたの子宮は、俺が絶対に守る」
それは、最新のホルモン治療と、神業と称される高度な手術によって「子宮を温存する」という、医師としての限界への挑戦だった。
辛い副作用に苦しむ莉菜を、医師の領域を超えて支える宮本。
頼りがいのある大人の包容力に、莉菜の心はいつしか「患者としての信頼」から「一人の男への恋」へと変わっていき……。
孤独を抱える46歳バツイチ医師と、絶望の淵で彼に恋した26歳患者。
医療のリアルと、じれったくも情熱的な年の差恋愛を描く、本格大人の医療ラブストーリー!
1. 鎮痛剤が効かない朝
「う、く……っ……」
お腹の底を、熱く焼けたシャベルで無理やり掻き回されているような激痛だった。
小石川莉菜は、冷たいフローリングに這いつくばったまま、脂汗を流していた。
生理痛は昔から軽くない方だった。
それでも、市販のロキソニンを飲んで温かいハーブティーでも飲めば、これまでは騙し騙し仕事をこなすことができていたのだ。
しかし、今日の痛みは明らかに「いつも」とは違っていた。
今朝だけで、すでに上限であるはずの鎮痛剤を三錠も飲み下している。
それなのに、下腹部を襲うドス黒い鈍痛は一向に引く気配がない。
それどころか、骨盤の奥がミシミシと軋み、太ももの付け根まで締め付けられるような激痛が走る。
「うそ……、なんで、効かないの……?」
時計の針は午前八時半を回っている。
今日中に提出しなければならないデザインのクライアント案件がある。
行かなければ。
そう思うのに、立ち上がろうとすると視界がぐにゃりと歪み、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
這うようにしてスマートフォンを手に取り、這いつくばったまま駅前の小さな「レディースクリニック」へ連絡を入れた。
かかりつけの優しい女医は、莉菜の青ざめた顔と、内診中の異様な痛がり方を見て、すぐに表情を曇らせた。
「莉菜さん。いつもの月経困難症にしては、子宮がかなり硬く、全体的に肥大しているように見えます。……うちの簡易的な超音波エコーだけでは、正確な診断が難しいわ」
女医は手早く紹介状を書き上げ、莉菜の手元に握らせた。
「今から、地域の中核病院である『聖マリアンナ記念病院』の産婦人科に行って。ここの紹介状があれば、すぐに診てもらえるから。……そこにはね、子宮温存治療のスペシャリストがいるの」
手渡された紹介状の宛先には、流麗な文字でこう書かれていた。
――産婦人科部長 宮本 英治 殿。
それが、莉菜の人生を大きく変える「彼」との、最初の接点だった。
2. 白衣のイケオジ医師との邂逅
聖マリアンナ記念病院の待合室は、独特の消毒薬の臭いと、多くの女性たちの緊張感で満ちていた。
重い体を引きずるようにして待つこと一時間。ようやく莉菜の名前が呼ばれた。
「――小石川莉菜さん、第一診察室へどうぞ」
重い扉を開けると、そこに座っていたのは、仕立ての良い白衣を羽織った一人の男性だった。
白髪が品よく混ざった黒髪を短く整え、彫りの深い顔立ちには、年齢を重ねた男にしか出せない「渋み」と「落ち着き」が漂っている。
細フレームの眼鏡の奥にある瞳は、鋭く、しかしどこか憂いを帯びていた。
(……この人が、宮本先生……?)
年の頃は40代半ばから後半。
一瞬、診察室の空気そのものが彼を中心に凛と張り詰めているような錯覚を覚えた。
「小石川莉菜さんですね。産婦人科部長の宮本です。どうぞ、お掛けください」
低く、深く響くバリトンボイス。
その声だけで、莉菜の過剰な緊張がほんの少しだけ解けていくのが分かった。
「紹介状は拝見しました。今朝から激しい下腹部痛があり、市販の鎮痛剤が効かない、と。まずは、現在の痛みのレベルを10段階で教えていただけますか?」
「……8、いや、今は9近いです。立っているのも、やっとで……」
「わかりました。辛かったですね。すぐに検査をしましょう。まずは経腟超音波検査と、念のためMRIを撮ります。内診台へ移動できますか?」
宮本の指示は的確で、一切の無駄がなかった。
内診台に上がり、カーテンの向こうで器具が入る。
いつもなら不快感だけのエコー検査だが、器具が特定の場所に触れた瞬間、莉菜の体内を稲妻のような激痛が走った。
「っ、あう……っ!」
「痛みますか? ごめんなさいね、少し器具を動かします。……やはり、子宮後壁が異様に肥厚している。可動性も非常に悪い。周囲の組織と癒着を起こしている可能性があります」
宮本の声から、先ほどまでの穏やかさが消え、プロフェッショナルとしての冷徹な響きが混ざり始めた。
「小石川さん、検査は終わりです。ゆっくり着替えて、またお話を聞かせてください」
3. 「子宮腺筋症」という絶望
診察室に戻ると、宮本のデスクのモニターには、先ほど撮影したばかりの莉菜の骨盤腔MRI画像が映し出されていた。
素人目に見ても、本来なら鶏卵ほどの大きさであるはずの子宮が、異様なほどに黒く、そしてボコボコと大きく膨れ上がっているのが分かった。
「小石川さん。結論からお伝えします。あなたの病名は『子宮腺筋症』です」
「子宮……せんきんしょう……?」
聞き慣れない言葉に、莉菜は首を傾げた。
「本来は子宮の内側にあるはずの『子宮内膜』に似た組織が、子宮の壁である『筋層』の中に入り込んで増殖してしまう病気です。生理が来るたびに、子宮の壁の中で出血が起こり、逃げ場のない血が溜まって、子宮全体が大きく硬くなってしまう。あなたの今の子宮は、通常の約三倍の大きさになっています」
宮本はペンで画面を示しながら、丁寧に説明を続ける。
「この病気は非常に痛みが強く、薬物治療でコントロールできない場合……最終的な根本治療としては、【子宮全摘出術】、つまり子宮をすべて取り除く手術が第一選択となります」
「え……?」
子宮を、取り除く。
その言葉が、莉菜の頭の中で何度もリフレッシュされ、意味を理解した瞬間、目の前が真っ暗になった。
「そんな……私、まだ26歳です。結婚もしてないし、子供だって、いつかは……。子宮を取るなんて、そんなの、嫌です……!」
莉菜の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
デザインの仕事に夢中で、恋愛や結婚なんて後回しにしていた。
だけど、自分の身体から「女性としての機能」が完全に失われてしまうかもしれないという現実は、あまりにも容赦なく、彼女の心をへし折った。
泣きじゃくる莉菜を前にして、多くの医師なら「まずは薬を試しましょう」と事務的に処理するかもしれない。
だが、宮本英治は違った。
彼は静かに席を立ち、莉菜の目の前にしゃがみ込んだ。
そして、彼女の震える両手を、彼自身の大きくて温かい手で優しく包み込んだのだ。
「小石川さん。泣かないで、僕の目を見てください」
莉菜が涙に濡れた目を上げると、そこには、信じられないほど真摯で、熱い光を宿した宮本の瞳があった。
「まだ諦める必要はありません。あなたはまだ若い。未来がある。だから、僕はあなたの子宮を絶対に守りたい。……医師として、あなたを絶対に、諦めさせない」
「宮本先生……」
「これから、非常にタフな治療になります。まずは『ジエノゲスト』というホルモン剤を使い、あなたの生理を完全に止めます。人工的に閉経状態を作り出し、子宮腺筋症の組織に栄養を行かせないようにして、極限まで小さく縮小させる」
宮本は、莉菜の手を握る力を強めた。
「薬で腺筋症が十分に小さくなったら、僕の手で『子宮腺筋症核出術(病変部分だけをくり抜く高度な手術)』を行います。これなら、子宮を完全に残し、将来の妊娠の可能性も守ることができる。……僕を、信じてついてきてくれますか?」
その温かい手のぬくもりと、彼の力強い言葉。
絶望の淵に立たされていた莉菜にとって、宮本という存在は、暗闇を照らす唯一の光に見えた。
「はい……。先生、お願いします。私、先生を信じます……」
莉菜は涙を拭い、宮本の目をしっかりと見つめ返した。
医師と患者として出会った二人。しかしこの時、莉菜の胸の中に生まれた感情は、単なる医師への「信頼」を遥かに超えた、甘く、切ない「執着」へと変わり始めていた。
(第1話・了)




