第17話 奇跡の術場(オペ)と、最初の産声
第17話 奇跡の術場と、最初の産声
第17話 奇跡の術場と、最初の産声
1. 嵐の前の、穏やかな夜
聖マリアンナ記念病院の個室病棟。
管理入院が始まって1ヶ月が経過し、莉菜の妊娠は34週(妊娠9ヶ月)の節目を迎えていた。
24時間の点滴治療と英治・高峰による徹底的な管理のおかげで、子宮の切迫破裂の兆候はなんとか抑え込まれ、お腹の中の赤ちゃん「蒼空」の推定体重も2,000グラムを超えてすくすく育っていた。
「――莉菜、体調はどうだい? 点滴の動悸は辛くないか?」
当直を終えた英治が、病室へ入ってきた。
連日の緊張と仕事で少し目の下にクマを作っている英治だったが、莉菜を見るその瞳には深い愛おしさが満ちていた。
「英治さん。私、全然大丈夫です。……ほら、蒼空ちゃんもポコポコ元気ですよ」
莉菜はお腹に手を当て、優しく微笑んだ。
英治はベッド脇に腰掛け、莉菜の丸いお腹にそっと耳を当てた。
「ああ……本当だ。力強い心拍だね。……莉菜、ここまでよく耐えてくれた。本当に頑張ったね」
「私なんて、ベッドで寝てるだけですよ。毎日心配して、ずっと側で支えてくれた英治さんのおかげです」
莉菜は英治の大きな手を両手で包み込んだ。
「英治さん……私、ちっとも怖くありません。だって、世界で一番私の身体を知っていて、世界で一番私を愛してくれているお医者様が、私と蒼空ちゃんを取り上げてくれるんですから」
「莉菜……」
英治は彼女の手をギュッと握り返し、その額に誓いのキスを落とした。
予定されている帝王切開まで、あと数日。
このまま無事に予定日を迎えられる――誰もがそう信じていた。
だがその夜、事態は急転直下する。
2. 深夜の警報と、破裂の危機
午前2時15分。
静まり返った病棟に、異常を知らせるアラーム音が甲高く響き渡った。
「モニターのアラームです! 宮本さんの子宮収縮が急上昇! 胎児心音が一過性徐脈を起こしています!」
看護師の悲鳴のような報告を受け、当直室から英治と高峰が病室へと雪崩れ込んだ。
「莉菜……っ!?」
ベッドの上の莉菜は、激しいお腹の激痛と圧迫感に顔を歪め、脂汗を流していた。
「ひっ……はぁ……っ! 英治……さん……っ! お腹が……裂けるみたいに……痛い……っ!」
高峰が即座に超音波エコーのプローブをお腹に当てた。モニター画面を見た瞬間、高峰の表情が凍りついた。
「まずい……っ! 強い子宮収縮で、かつての手術痕(前壁)の筋層が限界まで引き引き伸ばされている! 子宮壁の厚みが1ミリを切ってるぞ……子宮警告破裂だ!!」
「……ッ!!」
英治の脳裏に、最悪のシナリオが過った。
今すぐ赤ちゃんを出さなければ、子宮が完全に破裂し、腹腔内への大出血によって莉菜も蒼空も命を落とす。
「手術室(オペ室)緊急手配!! 今すぐ緊急帝王切開に入る!」
英治の鋭い怒号が病棟に響き渡った。
「宮本! お前、手は震えてないな!?」
高峰が英治の目を見て叫ぶ。
英治は一瞬自分の両手を見つめた。
愛する妻の死の恐怖に、指先がかすかに震えていた。だが――彼は固く拳を握り締め、細い眼鏡の奥の瞳に凄まじい覚悟の光を宿した。
「……震えるわけがない。俺が……俺のこの手で、莉菜と蒼空を救うんだ!!」
英治は苦しむ莉菜の顔に急接近し、彼女の頬を優しく包み込んだ。
「莉菜! 聞こえるか!? 大丈夫だ、俺が必ず君と蒼空を救ってみせる! 俺を……俺の手を信じなさい!」
「え……英治、さん……っ! 信じて……ます……っ!」
ストレッチャーが猛スピードで廊下を駆け抜け、二人は運命の手術室へと向かった。
3. 奇跡の術場
「手術を開始する。メス」
清潔域の緑色の術衣に身を包み、麻酔がかかった莉菜の前に立つ宮本英治。
その立ち姿は、かつて数々の難手術を成功させてきた「天才外科医」そのものだった。
隣には第一助手として高峰がつき、麻酔科医と看護師たちが極限の緊張感で見守っている。
下半身麻酔がかかった莉菜の胸元にはパーテーションが立てられていたが、莉菜は意識をしっかりと保っていた。
(英治さん……頑張って……私たちの蒼空ちゃんを……っ)
英治の手に渡されたメスが、迷いなく下腹部の皮膚を切り拓いていく。
出血を最小限に抑え、組織を迅速かつ精緻に剥離していく手捌きは、まさに神業だった。
「筋層へ達する。……高峰、吸引頼む」
「了解!」
腹腔を開いた瞬間、医師たちの間に緊張が走った。
視界に飛び込んできた莉菜の子宮前壁は、あまりの薄さに中の羊水と赤ちゃんの髪の毛が透けて見えている状態だった。あと数分遅れれば、確実に破裂していた。
「……ギリギリだったな」高峰が息を呑む。
「ああ。……だが、俺の縫合痕は、最後まで耐えてくれた」
英治の眼差しに、熱い感情が宿る。
かつて自分が彼女の子宮を守るために結んだ糸が、命の防波堤となって我が子を守り抜いていたのだ。
「子宮切開に入る。……莉菜、今から赤ちゃんを出すよ!」
英治の長くて器用な手が、子宮壁に素早く切り込みを入れ、中に眠る赤ちゃんを傷つけないよう慎重に、かつ迅速に胎児を抱き上げた。
「頭位確認。……胎児、頭部導出……よし、肩抜けた!」
午前2時42分。
英治の両手の中に、ズシリとした温かい命の重みが滑り込んできた。
4. 最初の産声と、涙の家族
「――吸引完了! 呼吸促します!」
小児科医が素早く赤ちゃんの口から羊水を吸引した次の瞬間。
「――おぎゃあぁぁぁっ! おぎゃあぁぁぁぁっ!!」
手術室の静寂を切り裂いて、澄み渡るような、力強く、どこまでも高い赤ちゃんの産声が響き渡った。
「……っ!!」
胸元のパーテーション越しにその声を聴いた莉菜の目から、溢れ出す涙が止まらなくなった。
「あ……あぁ……っ! 蒼空ちゃん……っ! 蒼空ちゃんの……声……っ!」
英治は臍の緒を素早く処置すると、愛おしそうに赤ちゃんを胸に抱き抱え、莉菜の顔のすぐ横へと連れてきた。
「莉菜……見てごらん。俺たちの息子……蒼空だ!」
紫色の産着に包まれた、小さな小さな赤ん坊。
しわくちゃの顔で元気に泣き声を上げながら、小さな手をパタパタと動かしている。
「蒼空ちゃん……っ! 会いたかった……会いたかったよぉ……っ!」
莉菜が涙で濡れた頬を寄せると、赤ちゃんは莉菜の肌の温もりを感じ取ったのか、ぴたりと泣き止み、莉菜の指を小さな手でギュッと握り返した。
その光景を見つめていた英治の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ち、緑のマスクを濡らした。
「莉菜……ありがとう……っ! 無事に産んでくれて……俺のもとに生きて帰ってきてくれて……本当に、ありがとう……っ!」
「英治さん……あなたが私を救ってくれたから……この子に会えたんです……っ!」
手術室の中に、スタッフたちの温かい拍手と涙が広がっていった。
助手をつとめた高峰も、目元を拭いながら深々と息を吐いた。
「見事なオペだったぞ、宮本。……最高の執刀医で、最高のパパだな」
「ああ……感謝する、高峰」
英治は莉菜の額に優しく唇を押し当て、愛おしそうに囁いた。
「莉菜。子宮の縫合も、俺が世界一綺麗に仕上げてあげるからね。……安心して眠りなさい」
「はい……英治さん……大好きです……っ」
麻酔と安堵感から、莉菜は満足そうな微笑みを浮かべ、穏やかな眠りについた。
絶望の子宮病から始まった二人の物語は、天才医師の神業と深すぎる愛によって、ひとつの尊い「新しい命」という最高の奇跡を実らせたのだった。
(第17話・了)




