第16話 性別の知らせと、迫り来る試練
1. 小さなシンボルと、二人だけの命名式
季節は巡り、冬の寒さが本格的になった頃。
莉菜の妊娠は25週――妊娠7ヶ月の後半を迎えていた。
お腹は誰が見てもはっきりとわかるほど大きく、愛らしく丸みを帯び、莉菜の足元を隠すほどになっていた。
「――はい、宮本さん、莉菜さん。今日の超音波画像、画面よく見てくださいね」
聖マリアンナ記念病院の第一診察室。
主治医の高峰一樹が、エコーのプローブを莉菜の丸いお腹に滑らせながら、笑顔でモニターを指し示した。
診察台の横には、もちろん仕事の合間を縫って駆けつけた英治が、莉菜の手をしっかりと握り締めて立っている。
「ここが赤ちゃんの太ももの骨で……あ、見えましたね。足の間に、小さなシンボルがはっきり映ってます」
高峰が画像を拡大すると、そこには可愛らしい小さな膨らみが確認できた。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですね」
「男の子……っ!」
莉菜がパッと表情を輝かせ、横の英治を見上げた。
「英治さん……男の子です! 英治さんに似た、かっこいい男の子ですよ!」
「あぁ……」
英治は感無量といった様子で眼鏡のブリッジを押さえ、愛おしそうに莉菜の手を握り返した。
「男の子か……。君を守る、頼もしい騎士がもう一人増えるわけだね」
「もう、英治さんったら」
莉菜は思わずクスッと笑ってしまった。
その日の夜。
マンションのリビングで、二人はベビーカタログと名前の辞書を並べて座っていた。
「英治さん、お名前……どんなのがいいでしょう?」
英治は温かいハーブティーを莉菜の前に置き、ゆっくりとソファに腰掛けた。
「ずっと考えていた名前があるんだ。……『蒼空』はどうだろう?」
「蒼空……?」
「ああ。君と出会った絶望のあの日から、君が苦しい治療や手術を乗り越えて、俺たちの元に届けてくれた命だ。……雲一つない青空のように、強く、澄み切った心を持った子に育ってほしいと思ってね」
「宮本 蒼空……すごく素敵な名前です! 英治さん、私、その名前が絶対にいいです!」
お腹の中の赤ちゃんも賛同するように、ぽこん!と力強く蹴りを返してきた。
二人は顔を見合わせ、幸せな笑い声を響かせたのだった。
2. 忍び寄る「影」
しかし、幸福感に満たされていたマリアンナ記念病院の医局では、別のピンと張り詰めた空気が漂っていた。
「……宮本、ちょっといいか」
夜、当直室で書類の整理をしていた英治の元に、高峰が深刻な顔つきで入ってきた。
手に持っているのは、先ほどの莉菜の妊婦健診の詳細なデータと、経膣超音波の計測数値だった。
「どうした、高峰。莉菜のデータに何か問題でもあったか?」
英治が立ち上がると、高峰は静かに電子カルテの画面を開いた。
「……今日のエコー計測で、莉菜さんの子宮頸管長が急激に短縮している。前回の健診では35ミリあったが、今日は22ミリまで縮んでいる。さらに……かつてお前が腺筋症の核出術で縫合した、子宮前壁の筋層の厚みが薄くなっている」
「……っ!!」
英治の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「子宮頸管無力傾向、および『切迫子宮破裂』の兆候……か」
「ああ。妊娠25週を超えて、お腹の赤ちゃんの体重が1,000グラム近くまで急成長したことで、手術既往のある子宮壁に過度な負担がかかり始めているんだ。……このまま自宅安静を続けさせれば、予期せぬ子宮破裂や破水を引き起こすリスクが高い」
英治の手が、がたがたと震え出した。
かつて莉菜の子宮を守った自分の手術痕。
それが今、赤ちゃんの成長によって破裂の危険に晒されている。
もし子宮破裂が起きれば、大量出血によって赤ちゃんだけでなく、莉菜自身の命すら奪われかねない。
「宮本、冷静になれ」
高峰が英治の肩を強く掴んだ。
「明日から莉菜さんを『管理入院』させる。張り止めの点滴を開始し、可能な限り妊娠週数を稼ぐんだ。目標は34週、できれば36週での予定帝王切開だ」
「……あぁ。分かった……すまない、高峰。よろしく頼む」
英治は深く頭を下げたが、その瞳には深い激動と恐怖のの色が渦巻いていた。
3. 突然の管理入院と、隠せない不安
翌日。
莉菜は英治に付き添われ、聖マリアンナ記念病院の個室病棟へと入院した。
腕には持続点滴の針が刺され、24時間態勢でのモニター管理が始まった。
点滴の副作用による動悸と手の震えに耐えながら、莉菜はベッドの上で不安そうに英治を見つめた。
「英治さん……私、大丈夫なんですよね……? 蒼空ちゃんは、無事生まれてくれますか……?」
英治はベッドの脇に椅子を引き寄せ、莉菜の震える手を両手で優しく包み込んだ。
いつもの冷静で完璧な主治医の顔。だが、その指先がかすかに冷たくなっているのを莉菜は見逃さなかった。
「大丈夫だ、莉菜。主治医の高峰も、病院のスタッフも、そして俺もついている。君と蒼空を、絶対に危険な目には遭わせない」
「英治さん……でも、英治さんの手、すごく冷たい……。私を心配して、無理していませんか?」
「……っ」
莉菜の鋭い指摘に、英治は一瞬言葉を詰まらせた。
「無理なんてしていないよ。……ただ、俺は医師として、そして夫として、君の痛みを代わってあげられない自分が悔しいんだ。……君にまた、病室で寂しい思いをさせてしまって……」
「そんなこと言わないでください!」
莉菜は点滴の刺さった手で、ぎゅっと英治の手を握り返した。
「私、ちっとも寂しくないです! だって、ここには英治さんが毎日来てくれるし、英治さんが治してくれたこのお腹の中で、蒼空ちゃんが頑張って生きてるんですから!……私、どんな治療にも耐えます。だから、英治さんも笑ってください」
莉菜のまっすぐで温かい笑顔。
絶望の淵にいたあの日、自分を救ってくれた彼女の強さが、今度は傷つきそうな英治の心を救い上げようとしていた。
「莉菜……君は本当に……強いお母さんになったね」
英治は堪えきれず、莉菜の手に額を押し当て、静かに愛おしさを噛み締めた。
4. 天才医師の誓い
深夜。
病室の莉菜が点滴の副作用で眠りについた後。
英治は誰もいないカンファレンスルームで、莉菜の最新のMRIデータと子宮壁の厚みのシミュレーション画像を食い入るように見つめていた。
「宮本、まだ起きていたのか」
当直中の高峰が入ってきた。
「高峰。万が一、子宮破裂の兆候が少しでも見られた場合……俺が帝王切開の術者(執刀医)に入る」
「何言ってるんだ、宮本! 自分の身内の手術に執刀医として入るのは、医療倫理的にもリスクが高すぎる! 感情が入って万が一の判断が遅れたらどうするんだ!」
高峰が強く制止したが、英治はゆっくりと振り返った。その瞳には、迷いのない絶対的な覚悟が宿っていた。
「俺の手は、彼女の子宮を切り開き、そして縫い合わせた手だ。あの子宮の筋層の厚みも、糸の結び目一つひとつの感触も、世界中のどの医師よりも俺の手が一番知っている」
「宮本……」
「俺が、莉菜と息子の命を救う。……高峰、お前には第一助手として俺をサポートしてほしい。頼む」
大学病院の天才外科医として名を馳せた男が、妻と子の命を守るために、持てるすべての知識とプライドをかけて誓いを立てていた。
高峰は深いため息をついた後、頼もしく口角を上げた。
「……分かったよ、相棒。お前が世界最高の執刀医なら、俺は世界最高の助手になってやる。絶対に、三人で笑って退院するぞ!」
二人の名医の誓いとともに、物語はいよいよ妊娠9ヶ月へ向けて、突入していくのだった。
(第16話・了)




