第14話 小さな黒い点と、過保護な主治医
1. 始まった「重症(?)愛され」つわり
「――莉菜、気分はどうだい? 水分は摂れているか? 吐き気止めのアロマと、ビタミンB6のサプリメントを用意したよ」
妊娠6週目を迎えたある朝。
宮本家の寝室では、エプロン姿の英治が、ベッドで横になる莉菜の枕元に屈み込んでいた。
「うぅ……英治さん……大丈夫です……。ちょっと、ご飯の炊ける匂いがダメなだけで……っ」
莉菜は青ざめた顔で胸元を押さえ、弱々しく笑った。
妊娠判明から2週間。
莉菜の体内では劇的な女性ホルモンの変化が起き、いわゆる「つわり(悪阻)」が本格化していたのだ。
だが、ここで本領を発揮したのが、夫であり天才産婦人科医である宮本英治だった。
「ダメだ、『大丈夫』は禁止だ。妊娠初期の脱水とケトン体の上昇は、妊婦の大敵なんだからね。ほら、口を開けて。リンゴをすりおろしてきた」
「ん……美味しい……。でも英治さん、今日病院の朝のカンファレンスがあるんじゃ……」
「そんなものは後回しだ。副部長の高峰に任せてある。今の俺の最優先事項は、君の脱水防止と栄養管理だ」
「もう……過保護すぎます、パパ医師さん……っ」
莉菜が照れくさそうに微笑むと、英治は愛おしそうに彼女の髪を撫で、おでこに優しくキスをした。
「過保護で結構。君の身体の中には、君の命と、俺たちの赤ちゃんの命……ふたつの大切な命が入っているんだからね」
産婦人科医としての知識をフル活用し、つわりに効く栄養素の計算から、におい対策、メンタルケアまで完璧にこなす英治。
「つわりに適応を持つボンジェスタという薬剤があるが、日本ではまだ未承認なんだ。現状、プリンペランで吐き気予防とするか、小半夏加茯苓湯や半夏厚朴湯でなんとかするしかないな。」
莉菜はつわりの辛さを感じつつも、彼の深すぎる愛に包まれ、これ以上ない安心感を得ていた。
2. 同僚と親友への感動の報告
その日の昼下がり。
少し体調が落ち着いた莉菜のもとに、スマートフォンが鳴った。
親友の矢島エミからだ。
『莉菜~! 体調どう? 最近会社お休み多いけど、もしかして……!』
「うん……エミちゃん。私、赤ちゃん授かったよ。今6週目なの」
『きゃぁぁぁぁぁぁっ!! 本当に!? おめでとう、莉菜ぁぁぁっ!!』
電話越しに破顔するエミの叫び声に、莉菜は思わずクスッと笑ってしまった。
『すごーい! 私の赤ちゃんと同級生じゃん! 一緒にマタニティライフ送れるなんて最高すぎる!……あ、でも莉菜、お腹の傷とか体調は大丈夫なの?』
「うん。英治さんが毎日すごく完璧にケアしてくれてるから、大丈夫。あ……主治医は、英治さんの同僚の高峰先生にお願いすることになったの」
同じ頃、聖マリアンナ記念病院の医局では――。
「えぇぇっ!? 宮本、お前マジでパパになるのか!?」
高峰一樹が、缶コーヒーを吹き出しそうになりながら叫んでいた。
「静かにしろ、高峰。声が大きい」
英治はデスクで電子カルテを入力しながら、どこか得意げに眼鏡のブリッジを上げた。
「いやぁ、おめでたいな! あんなに『リスクが~』って頭抱えてた奴が、一発で射止めるたぁ流石だな!」
「無礼な言い方をするな。……それと、高峰。約束通り、莉菜の『主治医』は君に任せる。俺が主治医になると、どうしても感情が優先して客観的な医療判断を誤るリスクがあるからね。……頼んだぞ」
英治は深々と高峰に向かって頭を下げた。
高峰は一瞬目を見開いたが、すぐに力強く頷き、英治の肩を叩いた。
「任せとけ、宮本。お前が命がけで直した最高の子宮だ。俺が責任を持って、元気な赤ちゃんを抱かせてやるよ!」
二人の天才医師の間に、熱い信頼の絆が結ばれた瞬間だった。
3. 奇跡の胎嚢確認――初めての「対面」
そして、妊娠7週目を迎えた日。
莉菜は英治に付き添われ、聖マリアンナ記念病院の第一診察室を訪れていた。
担当医である高峰が笑顔で二人を迎える。
「さて、莉菜さん。今日は記念すべき最初の『超音波検査』です。準備はいいですか?」
「はい……! すごくドキドキしています……」
診察台に横たわる莉菜。
その隣には、しっかりと莉菜の手を握りしめる英治が立っていた。
普段は執刀医として診察台の横に立つ彼が、今日は「不安そうな妊婦の夫」として、緊張で手を汗ばませている。
「英治さん、手がすごく温かい……」
「あぁ……俺も心臓が潰れそうだ……」
高峰が経膣エコーのプローブを優しく挿入し、モニターに白黒の画像が映し出された。
「――はい、画面見てくださいね。ここが子宮の中です」
モニターに映し出されたのは、かつて子宮腺筋症の病変で歪んでいたとは思えない、綺麗で丸く温かい子宮の影だった。
そして、その中央に――。
「あ……」
暗い子宮の中に、ぽつんと浮かぶ、小さな小さな「黒い丸(胎嚢)」。
さらにその中央には、米粒よりも小さな白く輝く命の芽(胎芽)が写っていた。
「ありましたね! これが赤ちゃんの部屋『胎嚢』です。そして……見えますか? この白い点が、ピコピコと規則的に動いていますよね」
高峰が画面の一部を拡大した。
チカチカと、かすかに、しかし力強く明滅する光。
「これが、赤ちゃんの『心拍』です。おめでとうございます、莉菜さん、宮本。心拍確認、完璧です!」
「心拍……っ! 赤ちゃんの……お臓器が動いてる……っ!」
莉菜の目から、ポロポロと涙が溢れ出した。
一度は病気で失われかけた自分の子宮。
絶望の中で「もう子供は産めないかもしれない」と泣いていた自分。
その子宮の中で今、新しい命の心臓が、自分と英治の愛を受けて、力強くドクンドクンと脈打っているのだ。
4. 天才医師の、初めての涙
「……莉菜」
横で莉菜の手を握っていた英治の声が、大きく震えていた。
莉菜が振り返ると――そこには、数々の難しい手術を冷静沈着にこなしてきたあの「天才医師・宮本英治」が、顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと大涙を流している姿があった。
「英治……さん……?」
「生きて……生きている……! 俺たちが治した君の子宮の中で……俺たちの赤ちゃんが、心臓を動かしている……っ!」
英治は崩れ落ちるように診察台の横に膝をつき、泣きながら莉菜の手を自分の両手で包み込み、何度も何度もその甲にキスを贈った。
「ありがとう……莉菜……! 俺を選んでくれて……命を繋いでくれて……本当に、ありがとう……っ!」
「英治さん……私の方こそ……私を助けてくれて、お母さんにしてくれて、ありがとう……っ!」
二人は診察室の中で、溢れる涙を止めることができず、抱き合いながら命の奇跡を分かち合った。
その様子を、主治医である高峰も、看護師たちも、温かいもらい泣きの笑顔で見守っていた。
診察を終え、病院の帰り道。
青く澄み渡る秋空の下、二人は手を繋いでゆっくりと歩いていた。
英治はもう一度、莉菜のまだ平らなお腹に優しく手を当てた。
「莉菜。これからのマタニティライフ、どんなことがあっても俺が君とこの子を守る。……世界一幸せなママにしてあげるからね」
「はい! 世界一のパパと主治医(高峰先生)がついてるから、私、何も怖くありません!」
不安も、リスクも、二人の愛の前にはもう恐れるものではなかった。
小さな命の芽生えとともに、二人の物語は、より深く、より感動的な「家族の絆」の章へと進んでいくのだった。
(第14話・了)




