第11話 薬指の誓いと、秘めた願い
1. 甘い朝と、新しい苗字
「――ん……英治さん……朝ですよ……」
差し込むやわらかな初夏の朝光の中、莉菜はゆっくりと目を覚ました。
視線の先には、自分を包み込むように強く抱きしめて眠っている、夫・英治の整った側顔があった。
左手の薬指には、シンプルなプラチナの指輪が朝光を受けてキラリと光っている。
挙式を終えて一ヶ月。
「小石川莉菜」から「宮本莉菜」になり、彼女は都内の高級マンションで英治との甘く穏やかな新婚生活を送っていた。
「……ん、莉菜……もうそんな時間かい?」
英治がうっすらと目を開け、眼鏡のない少し幼い瞳で莉菜を見つめた。
そのまま彼は、莉菜の額と唇に、朝の挨拶代わりの優しいキスを落とす。
「おはよう、俺の可愛い奥さん」
「ふふ、おはようございます、英治さん。……あ、もう『先生』って呼ばなくてよくなったの、まだちょっと慣れません」
「家の中ではただの『夫』だからね。……それにしても、毎朝君の顔を見て目覚められるなんて、これ以上の幸福はないよ」
英治は愛おしそうに莉菜の腰を引き寄せ、彼女の首筋に顔を埋めた。
大人の男のフェロモンと、上質な柔軟剤の匂いが莉菜の鼻腔をくすぐる。
手術前の絶望的な痛みと苦しみが嘘のように、今の莉菜の身体は満ち足りており、子宮の調子もきわめて良好だった。
しかし、そんな幸せな日々の裏で、莉菜の胸の中にはひとつだけ、日に日に大きくなっていく「切なる願い」があった。
2. 親友の報告と、芽生えた憧れ
その日の昼下がり。莉菜は都内のカフェで、デザイン会社の同期であり親友の**矢島エミ(やじま えみ)**と向かい合っていた。
「ちょっと莉菜~! 『宮本莉菜』って名前、響きが高級感ありすぎて羨ましいんだけど! あのイケオジ神医者様と新婚生活とか、前世でどんな徳を積んだのよ!」
エミはアイスラテを飲みながら、莉菜の薬指の指輪を羨ましそうに覗き込んだ。
「もう、エミちゃん声が大きいよ……! でも、本当に毎日夢みたいに幸せだよ」
「でさでさ、今日は莉菜に報告があって呼び出したの! ……じゃーん!」
エミがバッグから取り出したのは、エコー写真が挟まれた母子手帳だった。
「えっ……! エミちゃん、まさか!?」
「ふふん、妊娠3ヶ月! 来年パパとママになります! 莉菜の結婚式で幸せおすそ分けしてもらったおかげかなぁ」
「おめでとう……! すごいよ、エミちゃん!」
莉菜は自分のことのように喜び、手放しで祝福した。
しかし、エミが愛おしそうにお腹をさする姿を見つめているうちに、莉菜の胸の奥がキュンと痛んだ。
(赤ちゃん……英治さんと私の、赤ちゃんだ……)
かつて、子宮腺筋症と診断された時、「子宮全摘」の恐怖に怯え、子供を産む未来なんて諦めかけていた。
だが、英治の神業のような温存手術と、その後の丁寧な治療のおかげで、自分の子宮は守られたのだ。
(英治さんに似た、元気な赤ちゃんを抱きしめたい……。私、お母さんになりたい)
一度芽生えたその想いは、もう消すことのできない大きな情熱となって、莉菜の心を支配し始めていた。
3. 産婦人科医としての「壁」
一方、聖マリアンナ記念病院。
産婦人科のカンファレンスルームでは、英治が複雑な表情で電子カルテのデータを眺めていた。
「おいおい、宮本。新婚ホヤホヤの男が、そんな難しい顔してカルテとにらめっこか?」
気さくに声をかけてきたのは、この春から大学病院から異動してきた産婦人科副部長の**高峰一樹(たかみね かずき・38歳)**だった。
高峰は英治の大学時代の後輩であり、腹腔鏡手術の分野で英治と肩を並べる優秀な医師だ。気さくな人柄で患者からの信頼も厚い。
「高峰か。……いや、別に何でもない」
「隠すなよ。奥さん……莉菜さんの経過観察のデータだろ? 腺筋症の核出術から半年以上経って、子宮の復元状態は完璧。ヘモグロビン値も安定。……そろそろ『妊活』を意識し出す時期なんじゃないか?」
高峰にズバリと言い当てられ、英治は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「……確かに、子宮の解剖学的復元は完了している。だが、彼女は一度、子宮筋層に大きくメスを入れているんだ。もし妊娠した場合、子宮破裂のリスクや、前置胎盤、早産のリスクは健常な妊婦より遥かに高い」
英治の声は、徹底して「冷徹な産婦人科医」のそれだった。
「さらに、俺は今年で46歳だ。莉菜が30代を迎える頃、俺は50歳になる。……もし万が一、妊娠中に彼女の身体に何かあったらと思うと……俺は、医師としても夫としても、彼女を危険に晒したくないんだ」
高峰は深くため息をつき、英治の肩をポンと叩いた。
「宮本。お前が莉菜さんを愛しすぎるあまり、リスクに対して過敏になってるのは分かる。だがな、患者の『産みたい』って気持ちを誰よりも理解して救ってきたのは、お前自身だろ? 自分の妻の気持ちから、医者として逃げるつもりか?」
「逃げてなどいない! 俺はただ、彼女の命と健康が最優先だと――」
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
英治は苦々しい表情でカルテを閉じると、一人診察室へと戻っていった。
4. すれ違う夜と、打ち明けられた本音
その夜。
マンションのダイニングには、莉菜が心を込めて作った豪華な夕食が並んでいた。
だが、帰宅した英治の表情はどこか固く、食事中も言葉少なだった。
(英治さん、今日はお仕事で何かあったのかな……?)
お風呂上がり、リビングのソファで髪を乾かしていた莉菜は、意を決して英治の隣に座った。
「英治さん……あのね、今日エミちゃんと会ってきたの。エミちゃん、妊娠したんだって!」
「そうか。おめでたいことだな」
英治はグラスのウイスキーに目を落としたまま、短く答えた。
「うん! それでね……私、エミちゃんのお腹を見てて、すごく思ったの」
莉菜は英治の大きな手をぎゅっと両手で包み込み、まっすぐな瞳で彼を見つめた。
「英治さん。私……英治さんとの赤ちゃんがほしいです。私を産婦人科医として救ってくれた英治さんとだからこそ、家族を……新しい命を育てたいの。妊活、始めてもいいですか……?」
ずっと胸に秘めていた言葉。
だが、それを聞いた英治の反応は、莉菜の予想とは大きく異なるものだった。
英治は静かに莉菜の手を解くと、眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえた。
「……莉菜。その話は、今すぐには首を縦に振れない」
「え……? どうしてですか……? お腹の傷ももう治ったし、体調もすごく良いのに……」
「君の傷は表面上治っていても、子宮の筋層の強度は完全には元に戻っていないんだ。子宮腺筋症の手術後の妊娠は、子宮破裂や大量出血のリスクが伴う。……産婦人科医として、俺は君をそんな危険な目に遭わせたくない」
「でも! リスクがあるのは分かってます! でも、英治さんが主治医としてついていてくれれば――」
「俺が主治医だからこそだ!」
英治が思わず声を荒らげた。
莉菜はビクッと肩を揺らし、息を呑んだ。
英治はすぐに我に返り、ハッと息を吐くと、苦しそうに莉菜を抱き寄せた。
「すまない……怒鳴るつもりはなかったんだ。……だがね、莉菜。俺にとって、君の命より大切なものなんてこの世に存在しないんだよ。もし、妊娠することで君の身に万が一のことがあったら……俺は生きていけない。子供がいなくたって、俺と君のふたりだけで、十分に幸せだろう?」
「英治さん……」
英治の言葉には、莉菜への深すぎる愛と、医師としての重すぎる責任感が込められていた。
彼がどれほど自分を大切に思ってくれているかが分かるからこそ、莉菜はそれ以上「産みたい」と強く主張することができなかった。
「……ごめんなさい。私、英治さんの気持ちも考えずに……」
「いいんだ。君の気持ちもよく分かる。……今夜はもう休もう」
英治は莉菜の額に優しくキスをしたが、その夜、二人が背中を向けて眠ったベッドの中には、冷たく切ない「すれ違い」の空気が漂っていた。
愛し合っているからこそ生じる、医師と患者、夫と妻という不条理な壁。
ふたりの「新しい命」を巡る本当の闘いが、今始まったばかりだった。
(第11話・了)




