第九話 裏切り者を探せ
「今週から試験期間ですので、殿下も勉強に集中なさってくださいね」
朝の教室で、フレデリカはにこやかにそう告げた。 表向きは、ごく普通の学園行事。だが、その裏では既に、静かな罠が仕掛けられ始めていた。
「殿下は今週、図書館で自習の予定です」
リーゼロッテにだけ、そう伝えた。
「殿下は今週、中庭のベンチで自習の予定です」
別の日、別の場面で、ガウェインにはそう伝えた。
「殿下は今週、寮の自室で自習の予定です」
さらに別の生徒には、また違う情報を。 それぞれに少しずつ違う「エミールの予定」を伝え、実際にはどれも半分だけ真実、半分だけ嘘という、複雑な網を張り巡らせていた。 真の予定を知るのは、フレデリカとダリウス、ごく一部の腹心のみ。
「これで、どこに敵が現れるかで、情報がどこから漏れているか分かるはずよ」
フレデリカは机に広げた予定表を睨みながら、ぽつりと呟く。 試験科目の合間を縫って、フレデリカはさらに二種類の偽情報を追加した。 今度は移動時間まで細かく変えた、より精密な罠だった。どれか一つでも敵が食いつけば、情報源の範囲は一気に絞られる。
夜、寮の窓から外を見張るガウェインからの報告が届く。
「中庭、異常なし」
図書館担当のリーゼロッテからも。
「こちらも異常なし」
だが、真の予定——実際にエミールが向かった寮の裏庭では、その夜、不審な影が一つ。 ダリウス配下の生徒があっさり取り押さえ、事なきを得る。
(真の予定を知る人間は、限られている……)
絞り込みは進んでいるが、まだ完全に一人を特定するには至らない。 試験期間ということもあり、昼間は教室でひたすら机に向かう日々が続いた。 だが、フレデリカの頭の中では、教科書の文字よりも予定表の照合の方がずっと大きな割合を占めていた。
「フレデリカ嬢、顔色があまり良くないようですが」
昼休み、エミールに声をかけられ、はっと顔を上げた。
「え……いえ、大丈夫ですわ」
「試験の勉強で、無理をなさっているのでは?よろしければ、私が教えましょうか」
優しい申し出に、慌てて首を振った。
「お気持ちだけで十分ですわ。殿下のお手を煩わせるわけには参りません」
「そうですか。無理はなさらないでくださいね」
エミールはそれ以上追及せず、微笑む。 その笑顔へ、同じように返すのが難しかった。
(本当は、試験勉強どころではないのですが……)
実際のところ、フレデリカはここ数日、ほとんど眠れていなかった。 夜は予定の照合と報告の確認、昼は表向きの学園生活。寝不足で目の下にうっすらと隈ができ始めていたが、それを気取られるわけにはいかなかった。
翌朝、エステルが机へ置いたのは、授業で使う資料と、温かい茶だった。
「お顔に紙の跡がついています」
「……そんなに?」
「こちらです」
頬を示され、フレデリカは慌てて手を当てた。エステルは笑わず、茶器だけを取りやすい位置へ寄せる。
「少しお休みになってから、ご確認ください」
「ありがとう。でも、今日中に終わらせないと」
返事をしながら資料を開くと、エステルは何か言いたげにした後、席を離れた。フレデリカはその背中を見る余裕もなく、眠気の残る目で時間の数字を追い直した。
その日の夕方、机に突っ伏して少しだけうたた寝をしてしまったフレデリカの肩に、そっと上着がかけられた。 目を覚ますと、すぐ傍にエミールが座っていた。
「……殿下、いつから」
「少し前からです。あまりよく眠っていらっしゃらないようだったので、起こすのも忍びなくて」
「申し訳ございません、こんな姿を」
慌てて居住まいを正そうとすると、エミールがそっとそれを止めた。
「謝らないでください。誰かのために、そんなに頑張っている姿は、格好悪くなんてありません」
まっすぐに向けられた言葉に、胸がじんと熱くなる。 誰にも見せられないはずの疲れた顔を、この人にだけは、なぜか見せてしまってもいいと思える。
「……ありがとうございます」
ぽつりと呟いた声に、エミールは優しく目元を和らげるだけだった。
「少しだけ、ここで勉強していても構いませんか」
エミールが教科書を掲げる。追い返す理由を探すのも悪い気がして頷くと、彼は隣ではなく、机一つ分離れた席を選んだ。
紙をめくる音がする。何か話さなければと思うたび、その音が先に聞こえ、フレデリカは結局、上着の襟を寄せるだけで済んだ。
「殿下、つまらなくはございません?」
「まだ、この頁が終わっていませんから」
「……私が黙っていても?」
「はい」
すぐに返事があった。気を遣って話し続けなくても、彼はここにいるらしい。フレデリカは目を閉じ、今度は眠ってしまわないようにと考えながら、肩の力だけを少し抜いた。
その一部始終を、扉の隙間からこっそり覗いていたガウェインとリーゼロッテが、無言で顔を見合わせる。
「……あれ、完全に恋する乙女の顔してなかった?」
「フレデリカ様が?」
「いや殿下が」
「ああ、殿下も似たような顔してたわね」
二人とも、物言いたげに扉の隙間を見ていたが、当の本人たちは気づく由もない。
その後、フレデリカは人気のない渡り廊下でダリウスと落ち合った。
「絞り込みは?」
「あと少しだ。三人まで絞れた」
ダリウスが差し出した紙には、三つの名前が並んでいた。フレデリカはそれをじっと見つめる。 どれも、これまでの任務でそれなりの働きを見せてきた生徒たち。
「本当に、この中の誰かが……」
「次の罠で、確実に割れる」
「ええ」
フレデリカは紙を折りたたみ、懐にしまった。 わずかな躊躇いが声ににじむ。ダリウスはそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。
その夜、フレデリカは新たな偽の予定を三種類用意した。今度は、より具体的で、より魅力的な標的情報を含んだものだった。
(これで、決まる)
寝不足の目をこすりながら、フレデリカは最後の仕掛けを仕込んでいく。
窓の外には、静かな夜が広がっている。 試験期間の平和な学園の裏で、裏切り者を探す網は、着実に一人の人物へと絞られつつあった。
ふと机の端に、夕方エミールがかけてくれた上着が畳まれたままになっているのに気づく。 返しそびれたそれを見つめながら、フレデリカは苦笑を浮かべた。明日こそ返そう、と思いながらも、なぜかもう少しだけ、手元に置いておきたい気もしていた。
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