第十話 あなたですね
「シリル。少し、話があるの」
放課後の空き教室。フレデリカに呼び出されたシリルは、扉を閉める音を聞いた瞬間、すでに覚悟を決めていた。
(罠に、かかったか)
昨夜、普段通りの連絡に紛れ込ませた「殿下、旧礼拝堂にて単独で祈祷」という情報。三人の容疑者のうち、それを伝えられたのはシリルだけだった。
案の定、旧礼拝堂に現れた不審者は、護衛クラスの手であっさりと取り押さえられた。 あとは、情報源を辿るだけでいい。 窓の外は、すでに夕闇が濃くなり始めていた。誰かに聞かれる心配のない、静かな時間帯を選んだのも、フレデリカなりの配慮だった。
「単刀直入に聞くわ」
フレデリカは、机を挟んでシリルの正面に立った。表情は静かだったが、その目には迷いがなかった。
「あなたですね。敵に、殿下の予定を流しているのは」
シリルは、しばらく無言だった。否定しても意味がないことは、彼女の口ぶりから明らかだった。
「……いつから」
「確証を得たのは、昨夜よ。疑い始めたのは、もっと前から」
「抵抗はしない。好きにしてくれ」
シリルは息を一つ吐き、両手を軽く上げた。
覚悟を決めた目で、シリルはフレデリカを見返した。命乞いをするつもりも、言い訳をするつもりもなかった。 任務の失敗には、それ相応の代償が伴う。それだけのことだと、自分に言い聞かせていた。 処刑か、幽閉か、あるいは国外追放か。この国が迎えた王太子を狙う陰謀に加担した以上、それ相応の処分を覚悟していた。
「……あなた、裏切る気はありませんこと?」
だが、フレデリカの口から出た言葉は、予想とはまったく違うものだった。
「あなたを処分しても、次の人間を送り込まれるだけでしょう」
「……は?」
「それに、あなたはこれまでの任務で、それなりの働きを見せてきたわ。人を見る目は、私にもあるつもりよ」
フレデリカは腕を組み、シリルをまっすぐに見据えた。
「敵に信用されている人間が、こちら側にいる方が便利だと思わない?」
シリルは、すぐには言葉の意味を理解できなかった。
「……つまり」
「私のために、二重スパイになりなさい。という話よ」
あまりにあっさりと告げられたその言葉に、シリルはしばらく呆然としていた。 国の王女に正体を暴かれ、次に来るのは断罪だと思っていた。それが、いきなり勧誘に変わるとは、想定の範囲を完全に超えていた。
「……本気で言っているのか」
「本気よ。表向きはこれまで通り敵側に報告を続けて。ただし、その中身はこちらが決める」
「俺を信用するのか。敵の手先だった人間を」
「信用、というより」
フレデリカは少し考えるように視線を上げた。
「あなたの能力を、無駄にしたくないだけよ。ここまで正確に情報を集めて、誰にも気づかれずに動ける人が、そう簡単に見つかると思う?」
シリルは黙り込んだ。何かを言い返そうとしても、言葉が出てこない。 これまで接してきたのは、自分を任務のための道具としか見ない相手ばかりだった。 命令に従わなければ罰を受け、成果を出さなければ切り捨てられる——それが当たり前だと思っていた。
「拒否したら?」
ようやく絞り出した問いに、フレデリカは肩をすくめた。
「拒否するなら、然るべき処分を考えるしかないわね。でも、あなたにその選択をする理由があるとは思えないけれど」
「……なぜ」
「あなたがこれまでの任務で、一度も殿下を直接傷つけようとしなかったから」
聞いた瞬間、シリルは息を止めた。
「機会は何度もあったはずよ。でも、あなたはいつも情報を流すだけで、実行には手を出さなかった。なぜかしら」
図星を突かれ、シリルは視線を逸らす。 理由を、自分でもはっきりと言葉にできたことがなかった。ただ、なんとなく、一線を越えることをためらい続けてきただけだ。
「……分からない」
「今は分からなくてもいいわ。これから、分かっていけばいいだけの話よ」
フレデリカはそう言うと、右手を差し出した。
「返事は?はいしか認める気はないけれど」
「それは、返事を聞いていることになるのか」
「断られる準備はしていないわね」
フレデリカの手は引っ込まない。逃げ道を塞ぐための言葉なら何度も聞いたことがあるが、目の前の王女は、返事を待つ間にも椅子を一脚引き寄せていた。
「立ったままでは、長く話せないでしょう。今夜の報告は、まだ出していないわね?」
「……ああ」
「なら、間に合うわ」
処分を待つつもりで来た部屋に、自分の席が用意されていく。シリルは椅子と彼女の手を見比べ、何を先に受け取ればいいのか、ひどく馬鹿らしいことで迷ってしまった。
シリルは、差し出された手をしばらく見つめる。
この手を取れば、これまでの人生とは違う道を歩くことになる。それが分かっていながら、なぜか拒む気持ちが起きなかった。 差し出された手の、指先の細さ。迷いのない目。そのどちらもが、これまでシリルが知っていたどんな人間とも違う。
「……分かった。協力する」
迷いながらも、シリルはその手を握った。フレデリカは、初めてふっと笑みを浮かべた。
「ただし、一つだけ条件があるわ」
「……条件?」
「あなたの家族のことも、いずれ何とかする。それまでは、無茶な真似はしないで」
「……な、ぜ……そのことを」
予想もしていなかった一言に、シリルは瞬きをした。 この王女は、まだ何も聞いていないはずの事情にまで、先回りして気を配っている。
「あと、これは条件じゃなくてただの確認だけど。今日から荷物運びとか、掃除当番とか、普通に割り振られるから覚悟してね」
「……は?急に生活感のある話になったな」
「二重スパイでも、掃除当番は免除されないのよ」
拍子抜けするほど普通の日常が待っていることに、シリルはしばらく反応できなかった。
「よろしく、シリル。これからは、こちら側で働いてちょうだいね」
握手を交わしながら、シリルの中で何かが動き始めていた。 それが何なのか、この時はまだ、本人にも分かっていなかった。ただ、握られた手のひらの温度だけが、いつまでも消えずに残っていた。
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