第七話 妹の婚約者
「エミール殿。せっかく同じ学園にいるのだ、一度きちんと競い合ってみないか」
昼休みの中庭で、ヴォルフラムがエミールの前に立ちはだかるようにして言った。声は大きく、周囲の生徒たちの注目を集めるには十分だった。
「競い合う、とは?」
「剣術でも馬術でもいい。あるいは、戦略の演習でも。どちらの婚約者がよりふさわしいか、はっきりさせようじゃないか」
隣に控えたルクレツィアが、期待に満ちた目でエミールを見る。
「面白そうですわね。お姉様の婚約者様は、どちらをお選びになるのかしら」
周囲がざわめく。フレデリカは、内心で身構えた。
(面倒なことになった)
「勝敗を、競う必要があるのですか?」
だが、当のエミールはといえば、少しも動じた様子がない。 のんびりとした声に、ヴォルフラムの片眉が上がる。
「……何?」
「私は、剣術も馬術も戦略も、それぞれ得意な者に任せた方がよいと考えています。私自身が誰かに勝ったところで、国が良くなるわけではありませんから」
「それは、私に負けるのが怖いという意味か」
「いいえ。勝ち負けそのものに、あまり意味を感じないという意味です」
エミールは微笑んだままだった。挑発にも、苛立ちにも見えない、ただ淡々とした態度。
「殿下の国では、王が誰よりも強くあることが、統治の証なのでしょう。それは理解できます。ですが私の国では、王が一人で強くあるより、家臣それぞれが力を発揮できる仕組みの方を重んじます」
「弱い王が仕組みだけで国を保てると?」
「弱いかどうかは、また別の話ですが」
その一言に、ヴォルフラムは返す言葉を失った。フレデリカも、傍らでその会話を聞きながら、密かに耳をそばだてていた。
(弱いかどうかは別の話……?)
聞き流すには、少し引っかかる言い方だった。だが深く考える間もなく、ヴォルフラムが仕切り直すように声を張る。
「まあいい。言葉遊びは好かん。要するに、私と勝負する度胸がないということだろう」
「度胸の問題ではありませんが……そう思われたいのでしたら、お好きにどうぞ」
軽くいなすような言い方に、ヴォルフラムはますます不機嫌になった。
周囲に集まった生徒たちの間にも、ひそひそとした囁きが広がっていく。誰の目にも、この場の空気はヴォルフラムに有利に傾いているように見えた。
「フン。腰抜けの王太子と婚約したこと、フレデリカ嬢もさぞ不安だろうな」
聞き逃さず、フレデリカはすかさず口を挟んだ。
「殿下は、争うことより治めることを大切になさる方ですわ。それを腰抜けと呼ぶのは、少し違うのではありません?」
「フレデリカ嬢まで、そのように庇うのか」
「事実を申し上げているだけです」
きっぱりとした返答に、ヴォルフラムは鼻を鳴らして踵を返した。
「……つまらん。行くぞ、ルクレツィア」
歩き出した彼の背中に、ルクレツィアは小さく息を吐いた。挑発するだけして言い負かされるくらいなら、初めから仕掛けなければよかったのに。口には出さず、扇の陰でそれだけを思う。
「あら、待ってくださいまし」
ルクレツィアは去り際、フレデリカへ意味ありげな視線を送った。
「お姉様も大変ね。頼りない婚約者様を、そうやって毎回かばって差し上げなくてはいけないのだから」
二人が立ち去った後、フレデリカはため息を一つついた。
「あーあ、行っちゃった」
物陰から一部始終を眺めていたガウェインが、のんびりとした声で顔を出した。
「見てたなら、助けなさいよ」
「いやー、殿下があまりに堂々としてらっしゃるんで、助太刀が要らなそうだったからさ」
「都合のいい言い訳ね」
「お二人の話を聞いてたら、使いやすそうだったんで」
軽口を叩くガウェインに、フレデリカは呆れたように肩をすくめた。
「殿下、申し訳ございません。あのような言い方をされて」
「いえ、気にしていません」
エミールは穏やかな表情のまま歩き出す。
「私は、勝ち負けで自分の価値を示す必要を感じないだけです。それより、家臣たちが安心して力を発揮できる場を作る方が、よほど大事なことだと思っています」
その言葉を聞きながら、フレデリカはふと、教室で得意分野を発揮する護衛クラスの面々を思い浮かべた。 剣が下手でも射撃が得意な者、目立たなくても記憶力に優れた者——それぞれの一点を活かす、という自分の考え方と、どこか重なるものがある気がした。
「殿下のお考え、素敵だと思いますわ」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
柔らかく笑うエミールに、フレデリカも自然と笑みが浮かんだ。誰に何と言われようと、この人の考え方は、決して間違っていない——そう思える自分がいた。
二人並んで歩きながら、エミールがふと足を止めた。
「フレデリカ嬢は、剣の強さで人を測ったりしないのですね」
「当然ですわ。強さにも、色々な形がありますもの」
「私の国でも、皆が同じように考えるわけではありません。王には目に見える強さが必要だという声は、ありますから」
その声に、わずかな寂しさが滲んでいるのを、フレデリカは聞き逃さなかった。
「殿下のお考えは、間違っていませんわ。私は、そう思います」
まっすぐに告げると、エミールは少し驚いたように目を見開き、それからゆっくりと笑った。
「それに、庇っていただいたのは、これで二度目ですね」
「……数えていらっしゃったのですか」
「もちろんです。嬉しいことは、忘れませんから」
その台詞に、フレデリカはまた頬の温度が上がるのを感じた。庇ったつもりが、いつの間にか、自分の方が彼の言葉に振り回されている。
「殿下は、時々ずるいですわ」
「それは、褒め言葉として受け取っておきます」
「庇うのは、私だけではないでしょう」
エミールに言われ、フレデリカは顔を上げた。
「クラスの皆さんを悪く言われた時も、同じ顔をなさっていました。……ただ、私の時は、少し声が大きかったような」
「それは、あの方々が聞こえるように仰るからです」
「なるほど」
納得した返事にしては、彼の口元が緩んでいる。フレデリカはそれ以上説明するのをやめ、少し先を歩こうとした。エミールは追い抜こうともせず、彼女が落とした歩調に合わせて隣へ戻ってくる。
「あまり怒らないでください。嬉しくて、つい聞いてしまいました」
怒ってはいないと答えるつもりが、今度は声の大きさを気にしてしまった。結局、フレデリカは彼にだけ聞こえるくらいの声で、分かっております、と返した。
二人並んで歩く回廊に、午後の温かな光が差し込む。 フレデリカは、彼の考え方が、決して弱さから来るものではないのかもしれないと思った。 その考えが、どれほど核心に近いものだったか——フレデリカ自身は、まだ気づいていなかった。
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