第六話 初めての放課後
「フレデリカ嬢、今日は少し、街を歩いてみたいのですが」
放課後、荷物をまとめていたフレデリカは、その一言で手を止めた。
「……街、ですか」
「はい。城下町を、自分の足で歩いたことがなくて」
エミールは屈託のない笑顔でそう言った。フレデリカの頭の中では、もう別の思考が動き始めていた。
(街——警備なし、経路未確定、時間未定、人混み、死角多数)
「もちろんですわ。ご案内いたします」
表情には出さず、フレデリカは優雅に微笑んだ。だが内心は、ほとんど悲鳴に近い状態だった。
その足で、フレデリカは人目につかない渡り廊下の陰へ走り、待機していたダリウスをつかまえる。
「街に出る。今すぐ経路を組んで」
「今すぐ、って——」
「今すぐよ」
ダリウスは天を仰いだが、すぐに指笛を鳴らした。
「街に出るとか、事前に言ってくれよ……」
「私も今、お聞きしたところなの。あなたには事前に伝えているわ」
「屁理屈だ」
そうぼやきながらも、ダリウスの動きに一切の迷いはなかった。数分後には、フィンが城下町の地図を広げ、ガウェインが高所からの視認ポイントを指差し、マルグリットが応急の道具一式を鞄に詰め込んでいた。
「表通りは避けて、こっちの裏道から」
「屋根の上、三カ所で見張れる」
「人混みの中は、私が先に歩いて安全を確認します」
わずか十数分で、簡易な安全経路と配置が組み上がる。フレデリカはそれを一瞥し、頷く。
「ありがとう。出るわ」
「フレデリカ様、帰り道はこちらの方が明るいです」
地図の端を押さえたエステルが、帰路の曲がり角を一つ変えた。エミールの寮への近道からは外れるが、フレデリカの帰る棟までは人通りが続いている。
「殿下をお送りしてからなら、少し遠回りね」
「暗い道をお一人で戻られるよりは」
その気遣いに礼を言い、フレデリカは地図をダリウスへ返した。出発を待たせていると思うと落ち着かないのに、鏡もない窓硝子に自分の髪が映った時だけ、足が止まる。
「……乱れていないかしら」
「配置はできてるぞ」
「髪のことよ」
ダリウスは顔を上げて彼女を見た後、答える前に一度、地図へ視線を落とした。
「問題ない。行ってこい」
寮の前で待っていたエミールに、フレデリカは何ごともなかったような顔で戻る。
「お待たせいたしました」
「いえ、それほどでも」
二人で並んで正門を出る。表向きは、婚約者同士の何気ない放課後の外出だった。
城下町の通りは、賑やかな声と色とりどりの店先で溢れていた。エミールは物珍しそうに、あちこちの露店を覗き込む。
「これは何の実ですか」
「南の方から入ってくる果物ですわ。甘酸っぱくて美味しいの」
「食べてみたいです」
フレデリカは笑いながら二つ買い求めた。一つをエミールに渡しながら、視線はさりげなく通りの先へ向ける。
(あの路地、フィンが確認済み。この人混み、担当の生徒が先を歩いている)
頭の中では常に、経路と配置と時間を計算し続けている。だが表情だけは、ずっと穏やかな婚約者のそれを保っていた。
通りの奥では、大道芸人が火を使った芸を披露していて、集まった子供たちが歓声を上げている。エミールは足を止め、その様子を珍しそうに眺めた。
「城下町というのは、こんなに賑やかなのですね。城の中からは、想像もつきませんでした」
「窮屈な思いをなさっていたのですか」
「窮屈、というより……見えている世界が、少し狭かったのかもしれません」
何と答えていいか分からず、フレデリカはただひとつ頷く。彼が抱えてきたものの重さが、こんな何気ない一言からも伝わってくる。
人混みに押されて、二人の肩がふと触れそうになった瞬間、エミールが自然にフレデリカの手を取り、人波から守るように少し引き寄せた。
「危ないですから」
何気ない仕草だったが、フレデリカは返事をしようとして、言葉を喉で止めた。触れた手のひらから伝わる体温が、思っていたよりもずっと大きく感じられる。
「……あ、ありがとうございます」
エミールの手に引かれて人波を抜けると、店先の軒が続く通りへ出た。もう押される心配はない。それでも彼の指は、フレデリカの手を包んだままだった。
「殿下、もう人混みは抜けましたわ」
「はい。……離した方が、歩きやすいですか」
そう聞かれると、歩きにくいわけでもなかった。フレデリカが答えを探している間に、エミールの指が緩む。離れる前のわずかな隙間へ、自分の指を掛け直してしまった。
「いえ。このままでも」
「では、もう少しだけ」
彼は笑い、今度は彼女の歩幅に合わせて歩き出した。繋いでいない方の手で合図を送ると、向こうの屋根にいたガウェインが、了解というように弓を下げる。フレデリカはその返事まで見届けてから、隣へ目を戻した。
「フレデリカ嬢は、いつも忙しそうですね」
不意に言われ、フレデリカは繋いだ手へ力を入れかけた。
「……そう、見えますか」
「時々、遠くを見ているような目をなさっているので」
図星を突かれ、フレデリカは慌てて笑みを取り繕う。
「気のせいですわ。今日は殿下とご一緒できて、楽しんでおりますもの」
「そうですか。それならよかった」
エミールは特に追及せず、また笑って歩き出す。フレデリカはその背中を見ながら、内心でほっと胸を撫で下ろす。 露店の一つで、小さな髪飾りを見つけて足を止める。
飾りの色が目に留まったものの、フレデリカはすぐに通りの先を確かめた。店先に長居をすれば人の流れを塞いでしまうし、次の角では交代の生徒が待っている。歩き出そうとしたところで、繋いだ手が軽く引かれた。
「少しだけ、こちらを見てもいいですか」
エミールは露店の前へ戻り、並んだ髪飾りに身をかがめた。彼が手に取ったのは、先ほどフレデリカが見ていたものだった。
「これ、フレデリカ嬢に似合いそうです」
「……そんな、気を遣っていただかなくても」
「気を遣っているわけではなく、本当にそう思っただけです」
店主から髪飾りを受け取ると、エミールはそれをそっとフレデリカの髪に添えた。
「よく似合っています」
言われた途端、フレデリカの顔が、じわりと熱くなっていくのが自分でも分かった。鏡へ目を向ける間だけ、警備の計算が頭から抜け落ちた。
「……あ、ありがとうございます」
「私、そんなに見ておりました?」
「ええ。ほんの少し。でも、その後すぐに、別の方をご覧になったので」
警備の確認をしていた、と答えるわけにはいかない。代わりに、飾りへ指を添えて位置を確かめると、エミールが店先の小さな鏡を向けてくれた。鏡の端には、彼の顔まで映り込んでいる。
「……ずれておりません?」
「大丈夫です。私がつけたので、というのは頼りないですか」
「そんなことは申し上げておりませんわ」
言いながら、鏡の中の自分が随分と嬉しそうな顔をしていることに気づいた。フレデリカは鏡を返し、もう一度、飾りに触れる。今度は位置を直すためではなかった。
それ以上、うまく言葉が続かなかった。 途中、小さな噴水広場で一休みすることになった。ベンチに並んで座ると、エミールはふと空を見上げた。
「フレデリカ嬢は、将来、どんな女王になりたいと思っていらっしゃいますか」
唐突な問いに、フレデリカは少し驚きながらも、素直に答えた。
「誰もが、自分の得意なことで胸を張れる国にしたいですわ。身分や生まれではなく、その人が何をできるかで、正しく評価される国に」
「……素敵な考えですね」
「殿下は?」
「私は、争わずに済む国を作りたいです。力で従わせるのではなく、皆が納得して進む道を選べる国を」
二人の思い描く未来が、驚くほど近い場所にあることに、フレデリカは気づいた。将来、隣に立つ人が、この人であることを、素直に嬉しいと思えた。
夕暮れが近づく頃、通りには橙色の光が満ちていた。露店の灯りが一つずつ点り始める。エミールは足を止め、通りの景色をゆっくりと見渡した。
「今日は、本当に楽しかったです」
「私も……楽しゅうございました」
半分は本音だった。任務のことを忘れられたわけではないが、こうして隣を歩く彼が心から楽しそうにしているのを見ると、悪くない気分になる。
「また、君と来たいです」
その台詞に、フレデリカは言葉に詰まった。
「……え」
「街を歩くのも、こうして誰かと話しながら歩くのも、初めてで。とても、良いものだと知りました」
「……はい。また、いつでも」
エミールの声には、社交辞令の響きがなかった。まっすぐに、素直な言葉だった。 答える声が、自分でも驚くほど細くなった。頬がわずかに熱を持つのを感じて、フレデリカは慌てて視線を逸らす。 背後の路地から、こっそり様子を窺っていたリーゼロッテとガウェインが、無言で顔を見合わせた。
「……王女様、照れてない?」
「見なかったことにしろ」
二人の視線には気づかぬまま、フレデリカは何でもない顔を装って、エミールと並んで正門への道を歩く。 夕暮れの空の下、その日だけは、任務のことよりも少しだけ、隣を歩く人のことを考えていた。髪に挿した小さな髪飾りが、歩くたびに、こつん、こつんと揺れていた。
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