第四話 王太子殿下、学食を楽しむ
「これが、学食というものですか」
エミールは、トレイに並んだ料理を物珍しそうに見つめていた。城では毒見役が先に確認し、給仕が盛り付けたものしか口にしたことがない。列に並び、自分でトレイを持ち、好きな席を選ぶ——それだけのことが、彼にとっては新鮮な体験らしかった。
「気に入っていただけると嬉しいのですが」
そう言いながら、視界の端で厨房から出てくる料理の列を一枚ずつ確認していた。
(今日の当番は……見慣れた顔ばかり。問題なし)
エミールとフレデリカの向かいにはダリウスとマルグリットが座り、通路に近い端をリーゼロッテが選んだ。表向きは、賑やかな昼食の一幕だった。
「殿下、こちらのスープは絶品ですよ」
「本当ですか。楽しみです」
エミールはフレデリカの隣で、彼女の手に当たらないようトレイを少し寄せた。ごく自然な仕草だった。それでも、隣に座られただけで、フレデリカは妙に落ち着かない気持ちになる。
(近い……気がするのは、私の思い過ごしかしら)
「フレデリカ嬢は、どちらがお好きですか」
「え……その、スープも好きですし、こちらの焼き物も」
答えながら、視線が泳いでしまう。エミールはそんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだった。
会話を聞いていたフレデリカの目が、皿の上で止まった。エミールのトレイに載った白身魚のソテー、その皿の縁に、わずかに変色した跡がある。専門家でなければ気づかない、ごくわずかな違和感。
(あれは——)
視線だけでリーゼロッテに合図を送る。彼女は気づいたふりもせず、会話を続けながら、テーブルの下でそっと指を鳴らした。
「殿下、私、そちらのお魚も気になっていて。少し交換していただけません?」
言いながら、リーゼロッテは自分のトレイの魚料理を差し出す。珍しい料理を食べ比べたがるクラスメイトの、気軽なお願いにしか聞こえなかった。
「もちろん。どうぞ」
エミールは気にする様子もなく皿を交換する。リーゼロッテは受け取った皿を手元へ引き寄せると、パン籠の陰でマルグリットに見せた。匂いを確かめた彼女が頷き、空いたトレイを重ねて皿ごと隠す。
「あら、そちらも美味しそうですわね」
リーゼロッテが目を向けたのは、エミールの手元へ移った、安全な方の魚料理だった。
その間も、エミールは楽しそうに食事を続けていた。ダリウスが差し出したパンを受け取り、マルグリットの勧めでスープをおかわりする。テーブルの上では、何も起きていないように見えた。
「フレデリカ嬢も、一口いかがですか」
エミールが魚を切り分け、フォークに載せたまま差し出した。フレデリカは反射的にリーゼロッテを見たが、彼女はすぐに頷くだけ。安全だという意味なのは分かる。分かるのだが、今知りたいのはそれだけではない。
「……私のお皿に、いただけますか」
「ああ、すみません。つい」
彼がフォークを下ろすまでの間、ダリウスがパンをちぎる手を止めていた。リーゼロッテに肘で小突かれ、何食わぬ顔で続きをちぎり始める。
フレデリカは分けてもらった魚を口へ運んだ。ちゃんと味わって感想を返すつもりだったのに、エミールがこちらを見ていることの方が気になってしまう。
「お口に合いませんでしたか」
「いいえ。……美味しいですわ」
「よかった。では、そちらの焼き物も、少しいただいていいですか」
彼女が食べやすい大きさに切って皿へ移すと、エミールは嬉しそうに礼を言った。警備のために皿の位置を決めたはずの食卓で、二人の間だけ、料理が何度も行き来する。
リーゼロッテは自分のパンに手を伸ばし、隣のダリウスへ小声で尋ねた。
「あなた、あんなに細かくして、どう食べるつもり?」
ダリウスの手元では、パンがすっかり一口にも満たない欠片になっていた。
「殿下、パンはちぎって食べる派ですか、そのままかぶりつく派ですか」
唐突なダリウスの質問に、エミールは真剣な顔で考え込んだ。
「……今まで、あまり意識したことがありませんでした」
「一大事ですわ、殿下。ぜひこの機会に派閥をお決めください」
リーゼロッテが大真面目に相槌を打つので、フレデリカはこらえきれず噴き出しそうになるのを堪えた。護衛任務の合間に、こんな不毛な話し合いをしている場合ではないのだが、それでも悪くない空気だった。
「殿下は、好き嫌いはございますの?」
「特にはありません。何でもいただきます」
のんびりとした会話が続く。フレデリカは内心、胸を撫で下ろしていた。
(よかった。何もお気づきではないわ)
「そういえば、フレデリカ嬢は、甘いものはお好きですか」
不意に話を振られ、フレデリカは瞬きをした。
「え……ええ、好きですわ。あまり人には言いませんけれど」
「今度、街で評判のお店を見つけたら、ご一緒したいです」
聞いた瞬間、フレデリカの心臓が跳ねた。任務のことなどすっかり頭から抜け落ちて、自然と笑みがこぼれる。
「……はい。楽しみにしておりますわ」
二人のやり取りを見ていたダリウスとマルグリットが、彼女から目を外し、そっと顔を見合わせた。何も言わないが、二人とも同じことを考えているのは明らかだった。
「殿下は、意外と甘党でいらっしゃるのですね」
マルグリットが微笑ましそうに声をかけると、エミールは少し照れたように頷く。
「城では、あまり食べる機会がなくて。毒見の手間を考えると、種類の多い菓子は避けられがちなので」
何気ない一言に、フレデリカは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。彼がこれまで生きてきた世界の窮屈さが、その一言だけで垣間見える気がした。
(だからこそ、この一年だけは)
改めて、決意を新たにする。
食事が終わり、トレイが下げられていく。 フレデリカは、毒の混入した皿が厨房ではなく、そのまま護衛クラスの手で密かに回収されていくのを目で追った。 証拠として保管し、後でどこから混入したのか調べる。学食の誰かが手引きしたのか、外部から持ち込まれたのか——考えることは山積みだった。
「今日の学食、とても楽しかったです」
席を立ちながら、エミールが柔らかく笑う。
「クラスメイトの皆さんと同じものを食べる、というのは初めてでしたから」
「気に入っていただけて何よりです」
フレデリカも笑顔を返す。この一年、こうして彼が心から楽しんでくれるなら、それでいい。 だが、フレデリカが気づかなかったことが一つだけあった。 トレイを下げる生徒の後ろ姿——正確には、その生徒が運んでいく皿の中の、あの変色した跡のある一枚へ。エミールの視線が、短く向けられていたことに。
その視線には、驚きも動揺もなかった。ただ、何かを見極めるような、深い色だけがあった。
彼女が顔を上げる頃には、いつもの穏やかな微笑みに戻っている。フレデリカの隣を歩きながら、エミールは何気ない調子で言った。
「フレデリカ嬢のクラスは、皆さん仲がよろしいのですね」
「え、ええ。おかげさまで」
「羨ましいです。私の国では、なかなかこうはいきませんから」
その言葉に嘘はなかった。ただ、フレデリカが思っているのとは、少しだけ違う意味で。
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