第二話 殿下には何も知らせません
「では、まず図書館からご案内しますね」
フレデリカは晴れやかな笑顔で、エミールを校舎の中庭へ導いた。婚約者として、これほど自然な仕草はない。誰が見ても、初々しい二人の学園デートだった。
「フレデリカ嬢は、この学園に詳しいのですね」
「三年通っていますもの。隅から隅まで知っていますわ」
その言葉に嘘はない。ただし、そう説明したいのは、学園案内に必要な範囲のことだけだ。
(あの生垣の裏、昨日まで足跡がなかった場所に、今朝は新しい靴跡が二つ)
微笑みを絶やさぬまま、フレデリカは視線だけをわずかに動かした。中庭の噴水の陰、ちょうど死角になる位置に、制服の裾がのぞいている。
「殿下、あちらに薔薇園が」
さりげなく進路を変える。同時に、右手の指を軽く二回、腰の高さで動かした。
彼女の肘がエミールの袖をかすめる。昨夜は配置を決め直すことばかり考えていたのに、いざ二人で歩いてみると、隣を気にして歩調を合わせるというだけのことに、思いのほか注意を取られた。
「今日は、皆さんお忙しいのでしょうか」
「ええ。各自、することがございますので」
間違ってはいない。今この時も、たいへん忙しく働いている。
フレデリカは噴水の向こうで植木鉢を抱え直すダリウスを見ないようにして、薔薇園の方へ手を差し伸べた。
物陰から音もなく現れたのはフィンだった。生垣の裏へ吸い込まれるように消える。数十秒後、何ごともなかったかのように戻ってくると、フレデリカにだけわかる角度でひとつ頷く。片付いた、という合図だ。
「薔薇、綺麗ですね」
エミールが足を止め、花に見入っている。横顔に差し込む午後の光に、フレデリカはつい見とれてしまいそうになった。
「フレデリカ嬢は、お花はお好きですか」
「え……ええ、嫌いではありませんわ」
急に話しかけられ、少し慌てて答える。エミールはそんな彼女の様子に気づいたのか、くすりと笑った。
「よかった。今度、庭で摘んだものをお届けしてもいいでしょうか」
「……では、一輪だけ。お部屋に飾れるものを」
答えながら、フレデリカは自分の頬がわずかに熱を持つのを感じた。任務の最中に、こんなふうに動揺している場合ではないと分かっていても、彼の何気ない優しさは、思っていたより効いてしまう。
薔薇園の一角には、まだ蕾のままの株がいくつも並んでいた。エミールは屈み込んで、そっと蕾に触れる。
「これは、まだ咲いていませんね」
「時期が少し早いのですわ。あと二週間もすれば、見頃になりますの」
「では、その頃にまた、ここへお連れいただけますか」
「……喜んで」
二人で見上げた空は、雲一つない青さだった。フレデリカは、この穏やかな時間が、ほんの少しでも長く続けばいいと、そんなことをふと思ってしまった。
図書館へ移動する道すがら、今度は使用人の一人が、盆に載せた茶器をエミールの方へ運んでくるのが見えた。見覚えのない顔だった。フレデリカの目が細まる。
(学園の使用人名簿に、あの顔はない)
「殿下、こちらの回廊は少し冷えますから」
言いながら、フレデリカはさりげなく歩調を落とし、エミールとの間にわずかな間を作った。そこへ、まるで通りすがりのようにリーゼロッテが滑り込む。
「あら、殿下。よろしければこちらのお茶をどうぞ。図書館特製ですの」
完璧な角度で、怪しい使用人の盆とエミールの間に割り込む。使用人は足を止め、それから何ごともなかったように踵を返した。リーゼロッテの目が、その背中を追う。
「殿下、お口に合いますかしら」
差し出された茶を、エミールは素直に受け取って口をつけた。
「美味しいです。ありがとうございます」
「よかった」
リーゼロッテは淑女らしく微笑んで去っていく。フレデリカだけが、彼女の手の中で、先ほどの怪しい使用人が落としていった小瓶が、いつの間にか消えていることに気づいていた。
物陰に戻ったリーゼロッテは、小瓶の中身を一瞥するなり、隣にいたフィンへ肩をすくめて見せた。
「今日のは、いつもより雑ね。もう少し工夫してくれないと、腕が鳴らないわ」
「毒殺未遂に工夫を求めるな」
「せめて味くらい、こだわってほしいものよ」
図書館の裏手では、ガウェインが屋根の上に寝そべるふりをしながら、遠くの木立を見張っている。窓越しにそれを確認したフレデリカは、そっと片手を上げた。
(異常なし、の合図)
ガウェインが片目をつぶって応える。
図書館の中では、エミールが棚の間をゆっくりと歩きながら、時折本を手に取っていた。
「フレデリカ嬢は、どんな本がお好きですか」
「歴史書が多いですわ。あまり面白みのない趣味でしょう」
「そんなことはありません。歴史を知る人は、未来も見誤りにくいと思います」
言われて、フレデリカは少し驚いて彼を見た。穏やかな物腰の裏に、思っていたよりずっと芯のある考え方が見え隠れする。
「殿下は、時々、意外なことを仰いますのね」
「意外、ですか」
「ええ。もっと……なんと言えばいいのか、頼りなさげな方だと思っておりましたので」
気づけば本音が零れ、フレデリカは慌てて口を押さえた。エミールは気を悪くする様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「正直な方ですね。嫌いではありません」
その笑顔に、フレデリカはまた胸の奥が跳ねるのを感じた。
棚を眺めていたエミールが、ふと思い出したように鞄から一冊の本を取り出した。
「こちらも歴史書です。私の国のものですが、よろしければお貸ししましょうか」
「お借りしてもよろしいのですか」
「もちろん。フレデリカ嬢のお好きな箇所を、後で教えてください」
受け取った本の表紙には、見慣れない紋様が刻まれていた。ページを繰るたび、遠い異国の空気が伝わってくるようで、フレデリカは胸が高鳴るのを感じた。借りた本を返す日にも、話す楽しみができた気がした。
半日かけて学園を一周する頃には、毒の混入未遂が一件、身元不明の侵入者が二人、盗聴目的とおぼしき仕掛けが一つ、すべて手際よく処理されていた。エミールは終始、楽しそうに笑っていた。
「今日は本当に楽しかったです。フレデリカ嬢のおかげで」
「そんな、大したことは」
フレデリカは心の底からほっとしていた。
(よかった。何もお気づきではないわ)
「本のお話をする時、フレデリカ嬢は少し早口になるのですね」
帰り際にそう言われ、フレデリカは借りた本を胸元へ寄せた。好きな時代を尋ねられて、つい戦の後の復興について長く話してしまったのだ。退屈させてはいないかと彼を窺うと、エミールは続きを待つように首を傾げる。
「……話しすぎましたわ」
「私は、もう少し伺いたいくらいです」
「では、本をお返しする時に」
「急いで読み終えなくても構いませんよ。お返しいただく前に、またお会いできますから」
明日も同じ学園にいる。それは分かっていたのに、また会うことを彼の口から聞くと、本を借りただけの約束が急に楽しみになった。
角の向こうで、植木鉢を抱えたままのダリウスがフィンを呼び止める。
「もう下ろしていいか、これ」
「もう少し。あの二人、まだ歩き出さない」
「本の話って、そんなに長いのか……」
夕方、寮への帰り道、二人の背中を少し離れたところから眺めていたのは、ルクレツィアだった。扇を口元に当て、くすりと笑う。
「お姉様、随分と婚約者様に尽くしていらっしゃるのね」
声をかけられ、フレデリカは振り返る。
「案内しているだけよ」
「一日中、ぴったり張り付いて?まるで片時も目を離せない、みたいに」
からかうような口調に、フレデリカは軽く肩をすくめただけだった。事実に近すぎて、否定のしようがない。
「殿下は大切な婚約者ですもの。当然でしょう」
「ふうん」
ルクレツィアは興味を失ったように去っていく。その背中を見送りながら、フレデリカはもう一度、遠ざかっていくエミールの背中に目をやった。
夕暮れの回廊を歩くエミールは、誰の目にも、ただ穏やかな婚約者に見えた。
ただ一度だけ——中庭で下げられた茶器を運ぶ使用人の背中に、彼が向けた短い視線に、フレデリカは気づかなかった。手の中の本を、フレデリカはその夜、寝る前にもう一度開いた。
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